【2003年】ITからまさかの「お惣菜屋」 有限会社スダックス誕生秘話

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秋の木枯らしの寒さを感じながら、「もう引き返せないところに転げ落ちた」ような錯覚に陥った。


ただ、哀愁に浸る余裕はなく、もうサイは投げられており、とにかく計画を実行すべく、素人感覚を脱却しなくてはならない。


店頭と店内の掃除が終わると、次の下っ端の雑用はダシに使う鰹節やらアゴだしやら、とにかく乾燥した魚をクルミ割り器みたいなものでひたすら砕くという作業だった。毎日毎日バケツ1杯分を無心にバキバキと割る作業だ。毎日バキバキ割った。とにかく乾燥した魚をバキバキと割った。1時間ほど作業をすると10時になり、11時開店の準備となる。

お店はカウンター15席ほどの小さなお店で、スタッフは3人で回す感じだった。下っ端の僕は主に洗い場を担当し、とにかくひたすらラーメンのどんぶりを洗う日々だった。当時、29歳だったので20代最後の僕のビジネスが「皿洗い」になった。ついこないだまで、ブロードバンドビジネスだ、株式上場だなどとやっていたのに。

スタッフはみんなアルバイトで店長以外は二十歳前後のフリーターだか大学生だった。みなバイト歴も長く、洗い場などはとっくに卒業していて、麺を茹でたり、メンマをトッピングしてたり「上流工程」を任されている感じだった。僕は下っ端だったので、一周り下のハタチ前後のフリーターらしき人に「おい、このどんぶり、まだちょっと汚れんじゃねーかよ、洗い直せよ」などと叱責を受けた。

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ラーメン店でのインターンと並行して、店舗物件を探す旅をしなければならなかった。関東近郊の「ロードサイド店」というコンセプトは固まっていたので、茨城県牛久市出身の僕と千葉県流山出身のKくんの議論では「国道6号沿いとか国道16号沿いみたいなとこがいいかもね」などとざっくりとしたイメージをしていて、イメージに合ったロケーションな埼玉や千葉での物件探しが始まった。

ネットで地場の不動産屋を検索して、よさげな店舗があったら見に行った。なるべく駅から離れた方がいいってことで、Kくんのオンボロ中古車で店舗探しの旅に出かける日々になった。いっちょまえに各市の人口データなども参照し、また、競合店舗のほっともっとの店舗所在地データも全部引っ張ってきた。候補物件リストは200ほどあり、実際に視察したのはその半分ぐらいだったろうか。(のちに、こんな市場分析っぽいことは全く意味が無いことになるのは知る由もない)

埼玉県さいたま市、岩槻市、狭山市、上尾市、川越市、越谷市、桶川市、加須市、入間市、飯能市、所沢市、坂戸市、草加市。
千葉県成田市、松戸市、佐倉市、市原市、四街道市、習志野市、八千代市。

いずれの場所も個人的には全く行ったことのない地域だった。全くの地の利のない住所データを眺め、Googleマップとストリートビューで確認しては、現地に視察しに行くという日々が続いた。
また人生で初めて「地場の不動産屋さん」という人たちとも会話をするようになった。田舎に住んでいたときの近所のおっちゃんみたいな人が多く、IT業界とは真逆な人種で、駅前に事務所を構えて座ってるだけで仕事になるんだなと思った。

そんな中、千葉県市原市にあるツインズという小さな不動産屋さんのオバちゃんたちが親切な感じがした。100店舗ぐらいみてたので、「もうそろそろ決めねーとな」みたいな雰囲気も僕達にはあったのだと思う。気さくで親切そうなオバちゃんに賭けてみようみたいな気持ちもあった。ツインズさん経由で10店舗ほど視察して一番いい物件に決めた。

千葉県市原市で最寄り駅は内房線の五井駅だが、その店舗の場所は駅から離れており、駅から海岸方面に3kmほどいったところでほぼ工業地帯だった。目の前に「アピタ」という駐車場100台以上止まれそうなスーパーがあった。その店舗は以前はローソンだったみたいだが、潰れてしまったようだ。

僕らは夕方頃に店舗に視察して、交通量を調べた。競合分析がてらアピタで買った惣菜を頬張りながら、車の中で夕方に通る車をカウントしていった。

「まあまあ、車通るなここ。いいかもな」

車の中で2時間ぐらい張り込んで、当時はそれなりに真剣だったけど、今考えると茶番劇なような調査だ。

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物件は決めたので、あとは内装外装の工事や借入などの資金調達、メニューの作成等を早急に進めなければならない。

素人の僕らとしてはプロのウエキさんに乗っかるしかなかったので、ウエキさんに内外装の見積もりを依頼した。ウエキさんはまだやはり「惣菜屋は難しいので、まずはラーメン屋で小さな成功をしなさい」というスタンスだった。

内外装の見積もりが結構な金額だった。2,000万だか3,000万だか忘れたけど、結構な金額だった。Kくんと一緒に事務所に行って見積もりについての話を聞いた。先方は真摯に「これぐらいかかるもんだよ」みたいなトークをしたけど、既にKくんはキレていて、「怪しいな。もう切ろうぜ。ほかの業者あたってみよう」ってことになり、またゼロから業者選定をすることになった。

2ヶ月に渡るラーメン屋の修行も撤収し、やっぱり「惣菜屋で行こう」ってことになった。ピボットだ。僕は前職でも振り回されることには慣れていたので、急ハンドルを切ってまた違う方向にフルスロットルでアクセルを踏むことになった。

「惣菜屋」のオペレーションが全く分からなかったので、バイト求人雑誌を買って、北千住にあるチェーン系惣菜屋でバイトをすることにした。平行して内外装工事の準備も進めていて、オープンまであと2ヶ月ぐらいに迫っていた。そこのチェーン店はほとんどがセントラルキッチンで作られてたやつを温めてただけなので、僕らの手作り惣菜屋と比べると全然楽なはずだけど、それでもキッチンで弁当やら惣菜を作るのはとても大変だった。

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工事業者も何社かから見積もりをとって、それなりっぽいところに発注し、着々と出店準備が進んだ。足立区綾瀬6万円のアパートを引き払い、北千住でやっていたバイトも1ヶ月足らずでフェードアウトし、千葉県市原市に月4万円のアパートを借りてそこに引っ越した。

事業計画をつくって金融公庫みたいなところから3,000万ほど借りた。地元のフリーペーパーに求人を出して、料理長を探すことになった。そう、まだ素人の文系若者がエクセルでメニュー案とかを考えてる程度で、そもそも「それ作れるの?」っていう、ITでいうとエンジニアがいないくせにいっちょ前にパワポを作っているスタートアップ状態だった。

「何かちょうどいい人材から応募来たな。俺たちもってるかもな」なんて、自分の都合のいいように勘違いしたものである。無料の求人で料理人経験者からの応募があった。年は50代後半ぐらいだったろうか。ラーメン屋えるびすのオーナーさんよりもぷっくりと太っていて、昔の笑点の大喜利司会者の三波伸介さんみたいな人だった。

「僕はずっと日本料理とか料理人ばっかりやってましたけど、今回のスダさんたちのプランに残りの人生を賭けたいと思います。死ぬ気でやります!」

とても熱い人だった。スタートアップ向きである。タカギさんという方だった。

小さいながら陣営が整いはじめた。実質ビジネスオーナーのKくん、COO的な僕に、料理責任者のタカギさん、フードコンサルのイチカワさん。4人で市原市の喫茶店等で店舗デザインや什器の仕入、メニュー設計などを詰めていく日々だった。

特に厨房の作り方やメニューについては、料理人のタカギさんとコンサルのイチカワさんが意見がぶつかるシーンが多くなっていった。明らかにお互いを忌み嫌いはじめた。

「あんな若い女に何が分かるんだ、何もやったことないだろう!」
「あのオジサンのセンスじゃ、絶対に流行りのお店は作れないですよ!」

まだオープンもしていないお店で、こんな小さい組織でも間に挟まれることになった。

両方の言うことはそれぞれが正しくて最もだった気がする。
ただ、コンサルのイチカワさんは週1ミーティングの契約で、タカギさんはフルコミット社員だったので、タカギさんを優遇せざるを得なかった。イチカワさんとはオープンに漕ぎ着けるところまでの契約で打ち切ることになった。


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お店と僕の4万円アパートは目と鼻の先にあるんだけど、千葉県市原市のJR五井駅から徒歩30分ぐらいかかる場所で、移動には「車」が必要だった。僕は足立区綾瀬で一人暮らしを始める前、牛久の実家の頃は中古の4WD三菱サーフに乗っていた。

ソフトバンク時代の先輩から「八郎くん、やっぱモテるオトコは四駆だよ。しかもオートマじゃなくてマニュアル。ソフトバンクテクノロジー株で儲かったので新車に買い換えるから、四駆売ってやるよ」って言われて、半ば強引に買わされた代物だ。

僕はソフトバンク入社時に事情があって「山田八郎」という偽名を使っていて、先輩からは「八郎」「はっちゃん」などと呼ばれていた。

そんな俺の「八郎サーフ」は一人暮らしを始めてからは、牛久の実家の目の前の駐車場に眠っていた。足立区にもってくると駐車場代が月2万円ぐらいはかかってしまい、牛久なら3,000円ぐらいだったので放置していた。

長らく眠っていた八郎サーフを千葉県市原市で活用させる時がきた。
僕は実家のオヤジに電話をし、「今度千葉でお店をやることになったから、実家に置いてあるサーフ使うわ」と言ったら

「あ?あれかー。あれ駐車場代かかるから、売ったよ。全然乗ってないから〜もったいないから〜」

確かに半年ぐらいは放置していたのかもしれない。業者経由で海外に売り飛ばされてしまい「お前のサーフは今頃アフリカの大地を走っているぞ!」などとオヤジは得意気にしゃべっていた。BOOWYのCDが全部揃っている「BOOWYコンプリート」ってのが車中にあったはずなんだけど、それごと売っぱらわれていた。

「ああ、車がないとあの地で仕事にならん。。マズイ。。。」

オヤジに千葉で「惣菜屋」をやることを説明した。
IT業界で働いていたと聞いていた息子が、いきなり「惣菜屋」である。息子3人を育て、3男である僕はカネのかかる私立大学(早稲田)にも通わせて、マトモに生きているかと思ったら、そんなことを言い出す。

ただ、オヤジも同じDNAの持ち主であるので大して驚くこともなく、「息子の大勝負」に助け舟を出さなくてはと感じた模様だった。

数日後、オヤジから電話があった。

「車、手に入れたから、すぐ来い」


オヤジが「仕入れた」という車はご近所の酒屋さん「タマノ酒店」で配達用で使われていた車だった。

「安く譲ってくれるみたいだから」

長方形した薄緑カラーのバンで、スバルサンバーディアスワゴンクラッシックという車種だった。
どうぶつの森ポケットキャンプに出てくるようなバンだった。

モテるために買わされた四駆サーフが、20代の男性が乗ったら最もモテナイような「酒屋の配達バン」に変わってしまった。僕はこの「酒屋バン」で見知らぬ土地を疾走することになる。


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お惣菜 「好き味や」

「すきみや」と読む。

2003年5月にお店は無事オープンした。
事前にソフトバンク時代の先輩やらに知らせておいたので、店頭にはたくさんの開店祝いの花が飾られた。

千葉の片田舎のロードサイド店舗としては、きらびやかな華々しいデビューだった。

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