【2003年】ITからまさかの「お惣菜屋」 有限会社スダックス誕生秘話

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午前11時のオープンと同時に、物珍しさがあってお客さんがドンドン入ってきた。レジはあっという間に行列になった。量り売り対応の最新レジの操作も初めてだったので大変だった。唐揚げがすぐ売り切れてしまい、厨房に追加を出したりとか、とにかくてんやわんやだった。

僕は紺の割烹着を着て、「店長」としてレジや厨房や買い出しやら縦横無尽に一日中駆けずり回っていた。酒屋バンも初日から活躍し、途中で銀行に両替に行ったり、足りないものの買い出しにいったり、昼休みもなく、夜の8時まで動きっぱなしだった。

初日は物凄く繁盛した。一日中の立ち仕事で物凄く疲れた。
でもこれは一過性のイベントではなくて、「毎日」のオペレーションになるのだ。

「こりゃ、体力もつかなー」と不安になった。

そんな僕の不安は杞憂だった。

忙しいのは最初の1週間だけだった。
初日20万円ほどの売上だったが、日に日に10%ずつぐらい下がっていき、1週間後には日商7万円になった。1ヶ月後には5万円ぐらいになった。

初期のソフトバンクにならってか、当然のごとく僕はエクセルで日次決算をしていた。時間ごと売上、客単価、天候要素、曜日分析など、色んな角度から数値分析をしていた。メニューのカイゼンや途中で看板を大きくしたり、店内の照明を変えたりの、「追加投資」も試みた。

パートのお母さんたちともミーティングをして、アイデアを募り、お客さんからアンケートをとったり、街の太鼓サークルと仲良くなって、お店の前で和太鼓をやってもらうなどのイベントもやった。

何をやろうが焼け石に水で、日次の赤字額は▲5万円前後だった。何をしても売上が変わらないことが分かると、コスト削減することになり、パートの人たちのシフトを削り、なるべく僕と料理長のタカギさんでオペを回さなければならなくなった。

ホワイトカラー時代、何度も徹夜して働いていたので体力には自信があったけど、毎日の立ち仕事は予想以上に辛かった。閉店後に余ったお惣菜が食べ放題だったのだが、3ヶ月で8kgほど痩せた。

田舎の夜は本当に暗い。
20時過ぎに閉店業務をする時間帯はあたりも真っ暗で、うちの「好き味や」だけが薄明かりをともしていた。蛍光灯がこうこうとしているオリジン弁当の店内とは差別化するために、落ち着いた「和」の雰囲気を出そうと、柔らかい橙色の明かりをベースにした店内であったが、これがまた閉店間際の心の寂しさを助長することになるとは知る由もなかった。

レジを閉めレシートを印刷してそれをエクセルに入力すると、毎日毎日赤字だった。毎日、立ちっぱなしで働いても▲5万円。「これは東京で一日豪遊して飲み歩いているのと同じパフォーマンスだな、遊んでるのと一緒だな」と思った。

陰鬱とするものの、店長としては「接客業」なので、お店ではニコニコしていなければならなかった。数は少ないけれど常連のお客さんも来たりしていた。そこそこ綺麗なパートのお母さんには、オジサン土木作業員の人とかが常連になっていたけれども、僕のお得意さんはパートのお母さんたちの子供たちだった。

パートのお母さんたちは10人ぐらいいたけれど、皆さん、保育園か小学校低学年ぐらいのお子さんがいて、その子達が遊びに来るようになった。その子達が懐いてきて、夏休みに近くの公園で花火をしたりした。これがこの地でお惣菜屋を立ち上げての、僕の唯一のいい思い出だったかもしれない。


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僕は毎日日次決算のエクセルをつけて、実質オーナーであるKくんに報告していた。Kくんとはメールベースで議論し、改善点を抽出して、僕が実行に移した。新たに大きな看板を作ったり、店内の照明をもっと明るくしてみたり、チラシを撒いてみたり、値下げしてみたり。基本はリモートでやりとりしていたが、月に何回かは来てもらって打ち合わせをしていた。

僕は日に日にやつれ、目に覇気がなくなっているようだった。
一応、週に一日は休みだったが、店はすぐ近くなので、見に行ったりすることが多かった。千葉の僻地だし、JRの駅からも遠いし、地理的にも微妙なところだったので、友達が遊びに来ることもほとんどなかった。

あるとき、そんなやつれた僕を見てKくんは、
「スダポン本人が店舗に立つと疲弊しちゃうから、もっと現場はタカギさんたちに任せようよ。今、株式市場が結構熱いことになってるので、株のトレードとかも平行してやってみない?」
とアドバイスをした。

僕が現場を離れると、追加でパートさんの人件費がかさみ赤字が膨らむ一方だった。とは言え、Kくんについては知り合った頃から「賢いな」と思っていたので、基本、言う通りにした方がいいかとも思っていた。

厨房がメインの料理長だったタカギさんにレジ打ちも覚えてもらうようにした。タカギさんはとても前向きで「店舗が厳しいのは分かってるので、なんでもやりますよ」ととても前向きだった。メールも覚えたいということで、ノートパソコンを個人で購入して、僕らとのメールでのコミュニケーションも覚えたいということだった。ガラケーでもメールを使いこなせるようになっていた。


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オープンしてからほぼ休むことなく3ヶ月が経過し、売上が平行線で低迷する中、僕は午前中は家で株のトレードを行い、午後に店舗に出社するということになった。

株については、ちょうどネット証券が出はじめた頃で、前職のソフトバンクサラリーマン時代にマネックス証券とEトレード証券の口座開設だけはやっていて、お小遣いで少し買っていたりもしていた。

但し、投資については全くの素人で、聞いたことある会社を何となく購入していたりしたのだが、タイミングが悪かったことも会って、5銘柄ほど買っては全てが含み損を抱えていた。ゲームが好きだったので「コーエー」、大学の友達が行ってるので「日テレ」、名前が近いので「シダックス」、ハムが好きなので「プリマハム」とかの銘柄で全損していた。

僕は何となく、この株式トレードで挽回しないと、お惣菜屋の損失はカバー出来ないと感じていた。とにかく、毎日、毎日、数万円の損失をしているのだ。貯金もなく、日々、身体を削られるような想いをしていたので、「なんとかしなければ」と必死だった。

投資と言ってもそんなに貯金がなかったので、初めて「信用口座」というものを開いた。よくKくんも「レバレッジ、レバレッジ」と言っていたので、レバレッジをかけないとダメなんだなと思った。

僕は前の職場でスカパー社員だったので、スカパーのチューナーをもっていたので、朝6時に起きてスカパーのブルームバーグチャンネルを見た。朝イチでそういうニュースを見た上で、9時からのトレードに臨むという感じだった。ニュースは何を言ってるのかさっぱり分からなかった。

初めは良く分からなかったので、とにかくブルームバーグを流しながら、Eトレード証券の画面を見るという日々が続いた。板の見方も良く分からなかったし、まだそんなにリアルタイム処理が出来てなかったような頃だった気がする。

午後に惣菜屋に出ると、何とかタカギさんとパートの方たちだけで午前中は回せているようだった。今、考えるとそもそもお客さんが少ないので、回せるもへったくれもなかった。ランチタイムだけ少しお客さんが来るという程度だった。


進展することなく日々が続いていた。とにかく、ブルームバーグを観ててもどうにもならない。株式トレードっていっても、まあやってみなければ分からないなってことで、最初に何か適当な銘柄を買ってみようと思った。前の会社でソフトバンクと光通信のジョイントベンチャーの立上げ経験があり、光通信の人たちは朝から晩までメチャクチャ働いていたので、とりあえず「光通信」買ってみるかってノリで、初めて信用口座でレバレッジをかけて光通信株を買ってみた。ほぼ、全力買いだった。


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その後、光通信はストップ安が続いた。
Eトレード証券の画面は見たことのないマイナス金額が表示された。

「惣菜屋の損失を取り返せねば」という思いで、藁をもつかむ思いでトレードをやってみたが、そのパソコン上に表示されている赤字のマイナス金額は僕の想像を越えたものであり、サラリーマン生活7年間の貯金がほぼ全てなくなってしまうものだった。



「終わった。。。」




僕の頭のなかで何かが壊れた音がした。


当時、まだ僕は独身であり、結婚する予定もなかったけど、僕の頭のなかでは僕と奥さん(想像上の)と子供(想像上の)が映っている家族写真がバラバラと壊れるシーンが想像された。

午前中のトレードで脳に致命的なダメージをうけたまま、午後は惣菜屋の店頭に立って笑顔で「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」を言わなければならなかった。あの時、僕は本当に笑えていたのだろうか。いや、確実に顔は歪んでいたと思う。


※当時の死相が出ているという写真 (撮影:ホリウチ氏)

そんな最中、午後の休憩中にパートのお母さんから、
「ちょっとご相談があるのですが、休憩中に少しお話できませんか?」とメールが来た。

タカギさんからのセクハラに困っているという内容だった。

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20代の僕にとっては、子連れのお母さんたちは「オバサン」という感覚で決して女性として見ることは出来なかったのだけど、60代のタカギさんにとっては確かにいい感じに熟したストライクゾーンだったかもしれない。今考えると、接客業であるし、小綺麗な主婦の方々を採用していた気がする。

その中で「少し小泉今日子似」のバツイチ子供2人のお母さんがタカギさんに付きまとわれているとのことだった。執拗に告白してきて困っているとのことだった。



泣き面に蜂、とはこのことか。



20代店長の僕が、60代店長代理に何を言えばいいのだろうか?


「セクハラ、困ってるみたいです。辞めてください。仕事に集中してください」とでも言えばいいのだろうか。


こちらが店舗の赤字や資金繰り(トレードでの損失補てんからの、逆に激しくヤラレ)に心身苦しめている中、店長代理は僕の目を盗んでパートの女性に手を出そうとしていた。


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拝啓 平素より皆様方には格別のご支援を賜り誠に有難うございます。
さて、このたび、「好味や」(住所:千葉県市原市五井西5-12-7 TEL0436-20-0141)は1124日をもちまして、閉店することとなりました。
 今年の619日のオープンから現在に至るまで、弊店の運営にあたりましていろいろとご協力頂きまして誠に有難うございました。
 皆様方の今後のご発展を心より祈念いたしております。
敬具

千葉県市原市で華々しくオープンした惣菜屋「好き味や」はほんの5ヶ月ほどで閉店した。
エクセルやらパワポやらこのプロジェクトで僕一人が作った資料は200以上あった。

いろんなことがありすぎて、トレードロス&セクハラ騒動からの閉店までのオペレーションの記憶があまりない。


ただ明確に記憶に残っているシーンは、そんな心境の中、夜8時を過ぎて一人で誰もいない薄暗い店舗で、その日の日次売上をチェックするためにレシートを「ガガガ、ガガガ」と出力する音だけが響く中、椅子に座ってぼんやり和風調のお店の天井をみあげると、こげ茶色した太い柱が何本かあって、その柱に縄などをくくりつけてみて、その縄に首をかけてぶら下がったらそれは絵になるだろうなと思ったし、それは1992年の月9野島伸司脚本ドラマ「愛という名のもとに」のチョロを思い出させるものだった。


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半年ほど田舎生活をしていると、脳はすっかり変わってしまっていた。

久しぶりの東京は地下鉄に乗るだけで、車内広告の中吊り文字情報やら、人の話し声やら、とにかく情報が多くて処理できない感じだった。

「好き味や」は閉店し、有限会社スダックスは僕が連帯保証した3,000万ほどの借金と、ほぼ同額の累損だけが残った。

以前住んでいた足立区綾瀬ではなく、気分をかえるべく、杉並区の新高円寺で月7万ぐらいのアパートに住みはじめた。

千葉県では「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」以外は日々そんなに喋ることもなかったので、ホントに話し方も忘れてしまって、赤坂のIT企業に復帰して打ち合わせで人と喋るのがとても難儀だった。

借金が頭の中から離れることはなく、毎日毎日「ヤバイヤバイ」と脳内でつぶやく日々だった。資本ゼロで始められて、借金を返せるようなビジネスをネットで検索したりしていて、その頃第一次「情報起業」ブームが来そうな感じで、情報起業家にでもなろうかと思っていた。

それだけではリスクがあるので、一応社外役員として席を残してあった赤坂のアエリア社でもCFOとして仕事をした。CFOといってももうVCさんは株主にはほとんどいないし、売上を上げないとしょうがないので、提案営業にいったり、接待に付き合ったり、デバックしたりした。ITバブルは弾けていたのだけど、2003年の10月に「カカクコム」社が上場し、「あれ?もしかしたらまだITいけるかもな」とKくんが言い出し、「速攻で上場準備しようぜ」ってことになった。

情報起業家の準備としてメルマガ発行などをする傍ら、僕は「どうせ無理だろう」と思いつつ、上場準備CFOもやることになった。主幹事証券を選定して、大手は無理だったので、やってくれそうな三番手クラスの証券会社(現岩井コスモ証券)と付き合うことにした。

ここからの1年についてはまたの機会に書くかもしれないけど、2004年12月にアエリア社は現東証ジャスダック市場に上場した。この1年もそれなりに濃厚ではあったけれど、物語としてはこの惣菜屋のドタバタ劇ほどでは無い気がする。


僕は無宗教だけど、何となく、「神様はいるかも」と今でも思っている。


惣菜屋閉店から15年が経った。トラウマになっていたので、あの日から千葉県市原市には一度も足を踏み入れてなかった。これを書くにあたって、久しぶりにグーグルマップのストリートビューで当時の店舗周辺の写真を見た。確実に時間が僕の心を風化させてくれているので、そろそろ振り返りに現地を訪れてもいいのかもしれない。

ストリートビューで確認すると、「好き味や」があった店舗は、今は老人介護のデイサービス店舗になっていて、駐車場には老人を送迎するための白いバンが2台止まっていた。


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