大手予備校の教壇から「大学なんて行かなくてもいい」と叫んだ結果

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大手予備校講師から現在は××をしています

私は、大学を卒業してから10年間大手予備校・物理科の非常勤講師をしておりました。

ひょんなご縁があり、映画の業界に入り、

映画監督として作品を創りながら、コミュニケーションデザイナーとして

コミュニケーション能力を引き出すワークショップの活動をしております。

※詳しくは、「いじめと引きこもりから映画監督に」をご覧下さい。


予備校講師と映画の助監督を同時で体験していた20代

予備校講師に採用された2ヶ月後に、高校時代の友人との再会から

映画の現場に参加することになりました。

予備校にいる時は「先生」と呼ばれ、お茶を出してもらったり、いろいろと資料をもらう立場でしたが、

それ以外は「おまえ」とか「おい!」と怒鳴られ、お茶を作ったり、明け方まで資料をホチキスで留めていたりという真逆の生活を体験しておりました。


そもそも予備校講師になったのは

小さい頃から、教えるのが大好きで、その分周りの子とは馴染めない特徴的な子供でした。

積極的に先生に、質問を投げかけるという意識が強く、

教室でみんなが当たり前にやることを、子供・大人区別を付けられたくないという考えで、

授業や物事に向き合っておりました。

そんな特徴的な子供だったので、毎学年、ずっとイジメを受ける生活を送っておりました。

週に4、5日は塾という生活でしたし、

東大合格だけを目指しながら、ずっと生活しておりましたので、

将来の夢は、自分が身近に接していた予備校の講師、

逆に言うとそれ以外の職業を知る機会がなかったので、

大学を卒業したら、すぐに予備校講師になるものだという考えでした。


予備校講師になってから

念願の予備校講師になってやっていたことは、如何にテクニックを使って学生に高得点を取らせるか。

そのことばかりを考えておりました。

ですが、同時期に映画の下積みをすることとなり、

このことで、自分が今まで大学受験や大学で学んできたものが

ほとんど通用しないということが分かり、愕然とさせられました。

象徴的だったのは、先輩のスタイリストさんから

早稲田大学なんてお勉強しか知らないおバカちゃんですね

と言われたことでした。

確かにその時の自分は勉強ばかりしか知らず、挨拶の仕方から、相手への配慮の仕方、

チームで連携を取りながら仕事をする姿勢など、

全くコミュニケーション力がなかったのでした。


アクティブラーニングとの出会い

映画の業界に入ることで、映画の大学院に進みたいと思うようになり、

同じ大学の大学院の映画の研究室に入学することとなりました。

ですが、その時を思い返すと、有名な先生方の講義よりも

プロの現場に出て、いろんな先輩方から怒られながら、0から匠の技術を学ぶ体験の方が

断然力になることを経験しました。

この時から、

座学での勉強よりも体験で勉強をする方がはるかに身につくし、鮮明に記憶に残る

という風に思うようになったのです。

そんな折に、予備校の仕事の帰りに見かけて入った専門学校が

「デジタルハリウッド(通称:デジハリ)」だったのです。


当時、「下妻物語」「嫌われ松子の一生」の中島哲也監督が大好きだったので、

自分もあんなVFX(視覚効果)を使えるようになりたいと思い、早稲田の大学院が終わると共に、

飛び込んだのがデジハリでした。

デジハリでの講義は、デッザンからフィギュア制作、CG制作など今まで体験することがなかったことを

ふんだんに勉強をすることになりました。

どの講義もとても楽しく、ああ、こんな講義を今までどうして受ける機会がなかったのかと思うほどで

した。

その時に、またご縁があり、この学校の大学院に進学し、

二度目の大学院生活を送ることとなったのです。

ここで、アクティブラーニング(能動的学修)を行っている羽根拓也先生と出会い、

本格的にアクティブラーニングを学ぶことになったのです。


目からうろこの講義

今までの授業は、自分にはとてもつまらなく感じていました。

というのも、教科書に書いてあることを教師がひたすら板書する。

これになんの意味があるのかという気持ちだったからです。

ですが、アクティブラーンングの講義は、

まさに自分が小学生の頃からやっていてバカにされていた質問を投げかけるスタイル。

みんなが教えあいっこをして、積極的に質問を投げかけて議論を深める教育手法だったのです。

これこそ、自分が出会いたかった教育だ!

社会人になって、出会えたこの時の感動は今でも強く覚えております。


大切なことは世の中の当たり前を疑うこと

映画の現場、アクティブラーニング、そして会社を自分で立てることにより、

今までこれが当たり前と教わっていたことが、実はそうではなく、

単に一つの選択肢でしかないことに気づかされました。

そのことに気づいてからは、人から言われることが正しい

ではなく、自分で質問を生み出す、答えを作っていくことが楽しい

と思うようになれたのです。

その時、自分は鳥かごに閉じ込められた鳥が解放された気持ちになったのでした。

これこそが真の教育だ! これを学生に伝えたい!

そう思い、予備校でアクティブラーニング型の授業をするようになったのは、

予備校生活を始めてから7年目くらいだったと思います。


徹底的に対話をさせ、Youtubeを見させた講義

そもそも自分が教えていた物理というのは、運動現象ですから、

紙の上で止まっているものを伝えるのにはイメージの限界があると思っていました。

そんな中、youtubeが普及しだしたため、

講義では積極的に動画を使うようにしました。

当時の校舎職員の方々には大変ご迷惑をかけたと思います。

だって、macbookを教室に持参して、wifiでyoutubeを流して、プロジェクターを使って

スクリーンを立てて投影させる講義なんて、当時は多分誰もやっていなかったと思います。

初めた頃は、試行錯誤をしながら、学生も何が始まるんだ? と戸惑ったり、

こんなの遊びみたいだ! みたいに思っている学生もいたと思いますが、

次第に自分がやっていることに理解を示してくれる学生が増えていき、

年を重ねるごとに自分の教えた方も、一方方向型からアクティブラーニングを中心とした

対話型がメインとなるようになっていきました。


印象深かった思い出は、あまりに活発に議論は始まり、

100名以上の教室が盛り上がったため、

「何が起きたんだ?!」と清掃のおじさんが教室を覗きにきたことが何度もありました(笑)


偏差値の高い大学に受からせることが大切なのか?

そんな中、思っていたことは、自分が東大に落ちて自殺を考え、

映画の業界に入り、自分のやりたかったことを切り開けたこと。

となると、向き合っている学生たちは、確かに大学を受かることが目標であるが、

果たして、それが正しいことなのだろうか?

という考えになるようになったのです。

仕事として彼らを合格させるという責務があることを認識しながらも、

単純に合格だけさせても、その後彼らにとって人生の道を切り開くことができるのだろうか?

そう思うようになったのです。


年間最初の講義で必ず伝えたことは「大学に行かなくたっていいんだ!」

そこで、自分の年間最初の講義で必ず伝えたことは、

「大学なんて行かなくていいんだ!」ということだったのです。

それを聞くと、必ずざわつきます。怒り出す学生もおります。

金返せ! みたいなことも言われることもありました。

その後に、やっていたのは、アクティブラーニングの対話です。

では、ここで隣同士で大学に行く意味を考えてみましょう!

と3分話し合わせます。

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