伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【後編】

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前話: 伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】

ゲームセンターには常時長蛇の列ができていた。インベーダーゲームがあれば人が来るということで、ゲームセンターに限らずあらゆるお店が「スペースインベーダー」を店においた。

席をすべてインベーダーゲーム埋め込み型のテーブルにした店、通称インベーダーハウスも登場したほどだ。

スペースインベーダーのゲーム機を集めたお店。インベーダーハウスとも呼ばれた。


ゲームセンターの中にあったゲームと違って、スペースインベーダーは、当時の日本の社交場であった喫茶店や床屋にも置かれた。そのため、コーヒーを飲んで恋人とおしゃべりしたり、髪を切りに行って床屋の大将と世間話に花を咲かせたりといった場面で、老若男女問わず、あらゆる人に西角の作ったスペースインベーダーは親しまれていった。


さらには、あまりにインベーダーゲームの利用者が増えたため、市場から100円玉が枯渇し、日銀が急遽100円玉硬貨を増産したとさえ言われている。1979年5月13日の日本経済新聞には、

「インベーダーゲーム、日銀が迎撃作戦。”百円玉なくなる” 全国で3千万枚吸い込む」という見出しが踊った。


卸売業者
スペースインベーダーあと10台追加でお願いね!できるだけ早く頼むよ
営業部
ありがとうございます!ただ、すみません!ただいま、注文が殺到しており、なかなか追いついていない状態でして。
営業部
おい、あと10台追加だ急いでくれ!
生産部
またですか!わ、分かりました!今すぐ手配します!
生産部
おい!部品が足りないぞ!! 早く発注しろって言っただろ!
生産部
すみません! 部品の製造が追いついてないみたいです。


仕事が終わった開発部の西角は涼しい顔をしていたが、

生産部や営業部の人たちは眠れないくらい忙しかった。


スペースインベーダーのゲーム機に使用されたICチップが品薄で、同品番を使用した製品を製造できなくなった中小企業がいくつか倒産したというニュースまで飛び込んできた。



営業のトップは、西角の肩をバシバシと叩きながら、


営業部トップ
西角、おまえ、しばらく遊んでいていいぞ

と言った。

具体的な金額は聞かされなかったが、よほど利益があがっていたのだろう。

営業部トップ
あぁ、それから会社からの帰り道には気をつけたほうがいいぞ。
なんせお前はドル箱開発者だからな。インベーダーの全て把握しているのはお前だけなんだ。
一攫千金を狙う奴らにさらわれたくないだろう。


冗談交じりで話す上司のその言葉を、当時は気にも留めていなかったが、今思えば有りうる話だと思った。それほど当時のインベーダーがもたらした社会現象、日本のざわつきは異常だった。

そんな喧騒を前に西角はひとり、


西角
あれだけの台数を簡単なチェックで出荷して、致命的なバグが無かったことは奇跡的だったな......

と思っていた。

バグの少なさは、開発環境の構築から必死で取り組んだあの日々と、クリエイター西角友宏によるプログラミングが実に良質なものであったことを物語っていた。


そして、かつて、アタリ社の「ポン」を西角が分析していたように、

多くの会社が西角の作った「スペースインベーダー」のプログラムを解析し、独自にゲームを作っていく動きもでてきた。後に、ここから名だたるゲームが生まれていったのだ。


そして、「スペースインベーダー」は、アメリカのゲーム会社「ミッドウェイ」にライセンス販売を行い、海外進出も果たした。



アメリカ進出、いよいよビデオゲーム世界の頂点に。


1978年、秋。スペースインベーダーは、アメリカ全土のゲーム業界関係者が一同に集う展示会「AMOAショー」に出品されることになった。

西角がゲームクリエイターとして、ずっと後を追いかけてきた、あのアメリカでの展示会だ。


展示会場に到着すると、会場はすでに熱気に包まれている。

国内外のゲームメーカーが競って創りあげた自信の最新機種がずらりと並んでいて、あの「アタリ」社のゲームもある。



会場にならんだそれぞれのゲームマシンの前には、目をキラキラさせ夢中になってゲームをプレイしている人、画面を見つめ、真剣な面持ちで何やら話をしている人など、

ゲームが好きで、ゲーム開発に心血を注ぐ人たちが集まっている。



そんな中、ひときわ盛り上がっているマシンがあった。

人だかりができ、ザワザワとしている。


西角
あれはなんだろう……。行ってみよう


西角が足を運んでみると、少し近づいたところで聞き覚えのある音がした。ゲームをプレイする人の視線の先に目を向けると、そこにはテケテケと動くあの宇宙人たちがいた。


アメリカの展示会、人々は皆、


「スペースインベーダー」に熱狂していた。





戦後日本で育ち、進駐軍がもたらしたアメリカ文化に触れてきた西角は、アメリカに憧れを抱きつつも、どこか積年のライバルとして見ていた節があった。


「アメリカよりも、面白いゲームを作りたい」


その思いで技術研究を重ねる日々を送っていた。



アメリカから輸入したアタリ社の「ポン」をきっかけにビデオゲームの存在を知り、

日本の誰もがビデオゲームの仕組みを知らず、参考書もなく、インターネット検索もできない中で、独自に分析し、技術開発を重ねながら生み出した「スペースインベーダー」。

そのインベーダーが、ついにアメリカの地で、主役になる日がやってきたのだ。


Congratulations!!


西角がインベーダーの開発者だと知ると人々は握手を求め、口々に西角の栄誉を称えた。


力強い握手に圧倒されながらも、自分は大ヒット作を世に送り出したのだという実感が今更ながら沸いてきた。



INVADER=侵略者。


西角は、「INVADER(インベーダー)」という言葉の意味をようやく理解したような気がした。



心から嬉しかった。




       西角友宏 32歳。AMOAショーにて。




インベーダーの衰退とライバルたちの登場


しかし、物事には始まりがあれば終わりがある。スペースインベーダーが誕生してから1年ほどして、市場が「スペースインベーダー」に徐々に飽きはじめていることが、売り上げからも明らかになった。

営業部からの依頼をきっかけに、スペースインベーダーの延命を図ってパートⅡを作成した。すでにその構想はあったため、育てていた若い技術者に作らせる形ですぐにプロジェクトはスタート。見事短期間で開発されたが、「スペースインベーダー」そのものが下火になった時期であったため、大きくは盛り返すことはできなかった。さらに、パートIIも遊ばれなくなり、いよいよ「スペースインベーダー」の侵略は止まった。


西角は残念に思ったが、「スペースインベーダー」シリーズが一年以上遊ばれ、開発者としては、よく頑張ってくれたという気持ちだった。



しかし、そこで残ったのは大量のインベーダーのゲーム機。


営業の上層部
西角くん、インベーダーの在庫を活用したいから、マシンはそのままで搭載したROMだけを書き替える形で、新しいゲームを開発してくれないか


という打診があった。

それが大きな問題だった。


前述のようにゲームにおける表現は、IC基板の性能によるところが多い。処理速度や同時に処理できるデータ量によって、ゲームのスピード感も色の効果も決まってくる。

インベーダーゲームのマシンに使われていたものでは限界があった。



当時、スプライト方式という、キャラクターと背景を別々に作成し画面上で合成する方式で描画しているゲーム回路があった。「アタリ」がこれを使用していた。



西角はそれを応用して、スプライト方式の回路を高速化、使用するCPUもintel8080から、ザイログ社のZ80にするなど、より高性能な「スプライト動画方式」の回路設計が終わりかけているところだった。


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