突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。
ここからが少し大変だった。
まず、自賠責保険の支払基準での示談の申し出がすぐに入った。
母親は何も考える気になれない状態で、最初はその電話に空返事で対応していた。
僕はそれに気づき、すぐに電話をやめさせて、弁護士に相談することを考えた。
読んでくださる方には、もしもの時のためにぜひとも知っておいていただきたい知識なので、ここに記しておく。
交通事故に関する賠償の基準は、
・自賠責保険の支払基準
・任意保険の支払基準
・弁護士の支払基準
という三つの基準がある。
細かい金額はケースによって変わるため割愛するが、賠償金額に関しては、自賠責保険の支払基準が最も安く、弁護士の支払基準が最も高い。
おおよその金額の違いで言えば、自賠責保険の支払基準の賠償金額は、弁護士の支払基準の実に数倍近くの差があるのだ。
なお、遺族がそれを知らずに自賠責保険の支払基準でサインしてしまえば、弁護士基準の数分の1に満たないような金額で交渉は終わってしまい、しかも以後の賠償は認められなくなってしまう。
そのため、とにかく安易にサインはせずに、弁護士などの専門家に相談することをお勧めする。
僕はすぐに会社の社長に連絡を取り、信頼できる弁護士事務所を紹介してもらって、弁護士をアサインしてもらった。
もちろん、被害者家族が直接交渉を行うこともできるのだが、精神的負担が大きく、実質的には不可能だと考えたほうが良い。
こうした即座の判断と対応は、傷ついた母親には到底無理だっただろうから、僕がしっかりと手配をすることができて本当に良かったと思う。
愛する人を失ってからも、残された者は生きていかなくてはならないのだ。
もしも身内で不慮の事故があったときは、精神的な支えと共に、実際的な対応に関しても支えが必要であることをここに書き残しておきたい。
▼その後に起こったこと
とにかく、事故後の対応には、心身をすり減らした。
各所に連絡を入れ、調整をして、親族が家を去った後も、祖母と叔母と共に、母親のケアに当たった。僕は会社を二週間ほど休むことになった。社長からは、すべて落ち着くまでは帰ってこなくても良い、と言われた。もちろん、新規事業を牽引する一員である自分が長期間抜けることは、会社のメンバーに多大な負担をもたらすことになる。実際、事業部の責任者からは、決して言葉にはしないものの、どこか非難めいた空気を感じ取っていた。
しかし、もはや、そんなことはどうでも良かった。
人が一人、突然亡くなるということは、巨大なブラックホールが突然発生するくらいに、強烈な負の重力をもたらす出来事なのだ。その重力は、時空を歪ませ、哀しみの渦中にあるものをさらなる悲劇に引きずり込んでしまうかもしれない。だからこそ、僕は必死でその穴を埋めるための努力だけに注力しなければならなかった。そして、その穴を埋めるために行動することは、どんな事業を成功させることよりも大切なことに思えた。理解してもらえないならば仕方がない。思えば、このときから、僕の中で会社から離れる思いが芽生え始めたのかもしれない。
ある日、今思い出しても恐ろしい出来事が起こった。
諸々の手続きがやっと落ち着いたのは、葬儀から一週間以上たった頃のことだった。僕は心身共に疲れていた。家からもほとんど出ていなかったので、気分転換に近所のコンビニへ飲み物を買いに行こうと思った。
田舎なので、コンビニまでの道は左右に民家が点在するような、人通りのない道だ。
歩いていくと、前から何か、黒い小さなものがこちらに向かってくるのが見えた。
見ると、それは首輪のついた黒い小型犬だった。僕の方へ、まっすぐ近づいてくる。
なぜ、飼い主のいない、首輪をつけた黒い犬が歩いているのだろう?
そのままそばを通り抜けようとすると、黒い犬は僕に向かって激しく吠え始めた。
なんだか暗い気分になって、犬のそばを通り過ぎる。
すると、その犬はなぜか道路に走り出し、飛び出してしまった。
そこに、乗用車が勢いよく通りがかったのである。
犬は、僕の目の前ではねられてしまった。
僕は言葉を失った。
犬はキャンキャンと痛々しく泣きながら、その場で飛び跳ねていた。
口からは、ぽたぽたと血を流していた。
そして、その間も、ずっと僕のことを見て、激しく吠え続けていた。
どうすればよいかわからずにその場に立ち尽くしていると、民家の中から、飼い主の老人が走り出してきた。
「……目の前で……はねられてしまって……」
と、僕は飼い主に事情を説明すると、老人は「ああ……ああ……」と言葉にならない声を上げながら犬に近づき、哀しい顔をして犬を抱きかかえ、家の中によろよろと戻っていった。
なぜ、こんなことが起きてしまうんだろう?
僕はいったい、どうすればいいんだろう?
僕はその場を駆け出すように離れ、コンビニに着くと、ふるえながらやめていたタバコを買って火をつけた。そして、父親に電話をかけた。
「自分がまるで何かに呪われているのではないかと思う」
「このままではもう頭がおかしくなってしまいそうだ」
「自分が何かどす黒い、恐ろしいものに魅入られているように感じる」
父親は、ゆっくりと、
「気にすることはない」
「すべては偶然に起こったことだし、今は何も考えずに休みなさい」
と言ってくれた。
父親の声を聞いて、僕は涙を流した。もうこれ以上は無理だ。Kさんの血で真っ赤になった作業服を思い出し、僕に向かって吠え続けるはねられた黒い犬を思い出した。僕はこれ以上、目の前で起こるありえないような残酷な出来事の数々に、耐えられそうにない。
僕は結局、そこからさらに一週間ほど会社を休み、やっと復帰した。
しかし、会社に戻ったとき、僕は明らかに、それまでの僕とは別人になっていた。
事故以降、社長や会社の幹部は僕と距離を置いているように感じたし、僕自身も会社そのものへの執着心を失い始めていた。仕事をしていても、懇親会に出ても、飲みに行っても、社員旅行に行っても、僕の心はどんどん乾いていく一方だった。
やがて、僕は僕自身の中にある本質的な使命感に気づきつつあった。
僕はもう、ここにいるべきではない。
僕は、文章を書かざるを得ない。
いつ死ぬかわからない、いつまで続くかもわからない、
この人生の中で、自分の使命感に沿わない生き方を続けることはできない。
「これしかできないこと」をやる人生でなければ、生きている意味がない。
Kさんの死を経験するまでの僕は、「できることはなんでもやる」人間だった。
僕は過去に物書きを目指して、2012年と、2014年に物書きの活動をしていたものの、会社に入れば、会社での役目を担うことになる。幸か不幸か、僕は会社にある仕事をある程度のレベルでこなすような人間だったので、会社では自ずとポジションが増え、自分の本来の使命感からは自然と遠ざかってしまう。しかし、これまではそれもまたわるくないと考えていた。人生は長い。そう信じていた。
「物書きは生きているうちの最後でやればいい仕事だ」と、村上龍さんも言っていたっけ。
「人生について書きたいならば、まず生きなければならない」と、アーネスト・ヘミングウェイも言っていたっけ。
そんなことを思い出し、ある意味では言い訳にしながら、会社での仕事に没頭していた。
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