死なないよ、死ぬまでは。
ダメですか。足が歩くなっただけでは。
もうこれ以上、私の身体を壊さないでください。
痛みを感じることができない私が怖い。
自分が怖い。
足がどんな傷を負おうとも、気づかなければ平気でご飯を食べているだろう。ゲームをしているだろう。漫画を読んでいるだろう。テレビを見ているだろう。勉強をしているだろう。ぐっすりと眠っているだろう。
私が気づかなければいけないのに、気づけない。
自分のものではないようだ。
そこにあった指は誰のものだったの?
本当に私のものだったの?
私は入院して火傷の治療に専念することになった。
右足はグロテスクに、親指から中指までがくっついてしまうという消えない傷が残った。
それをやったのは私だ。また私だ。
私を傷つけているのは、いつも私でしかない。
もう帰ってこないのに。
望んでなんかいないのに。
いつも勝手にやってくる。
私が小学校高学年になる頃、5歳離れた弟が入学してきた。
しょうもないことでよく喧嘩をしては家が騒がしくなった。理由はだいたい晩ご飯のおかずがどっちのほうが量が多いかでもめていた。私と弟は5歳も離れているのに量がいっしょなのが気にくわず、目ざとく肉の大きさなどを比べては喧嘩した。お互い食い意地がはっていたのだ。
私は喧嘩になるとハイハイで鍛え上げられたパワーで我を押しつけようとする。弟もそれがわかっているので、すぐ逃げる。いくら力があろうとあたらなければ脅威ではない。逃げられれば私はなす術が無い。それでも喧嘩は続く。
お互いがお互いの意思を押し通そうと抗う。晩ご飯は毎日やってくるのだ。争いの火種は毎回ディナーに用意されていた。
弟はその当時、流行っていた戦隊もののフィギュアを集めていた。お菓子のオマケとしてついてくる玩具で、そこまで精巧な作りをしていないものだったが弟にとっては宝物だった。5色揃えられた戦隊ヒーローが各々のポーズをとって飾られていた。
そのヒーローたちを私は力の限り引きちぎった。喧嘩になって、また弟が逃げたのだ。代わりに弟が大切にしていたヒーローのフィギュアたちにその鬱憤をぶつけた。ぐしゃぐしゃになったそれは適当なところに埋めた。
宝物、だったものを。引きちぎって、ゴミにした。
弟は泣いた。宝物がなくなったことに。
私はそこでようやく自分のしたことに罪悪感を感じた。やっている時はそんなこと思いもしなかった。いつも逃げてばかりで勝ち逃げをしていたような弟にたいして報復してやりたかっただけだ。だから、弟の大切なものをバラバラに壊して、もとに戻せなくした。殺した。
悪いことしたとは思ったが謝らなかった。それでも次の日、また喧嘩は続く。
ヒーローもののフィギュアはお菓子を買えば、また代わりがいるのだ。
カッコいいポーズを決めたヒーローたちが。
同じようにそこにいるのだ。
中学生の時ネットが普及してきていたみたいだが、もちろんそんな田舎の村に最新のサービスが利用できるほど環境がととのっているわけもなく、まだ興味もあるわけではなかった。小学校においてあったパソコンのよくわからないゲームかソリティアやマインスイーパをするくらいで、スーパーファミコンのノリで電源を落としてたりしていた。よく壊れなかったものだ。
エロいことに興味津々な私は深夜のテレビを録画したりして、こっそりと女性の裸を眺めていた。だがネットを使えばいくらでも気軽にエロいものが見れるらしい!なんてことだ。そんなすごいものなのか。好きなだけおっぱいが見れるなんて!
私の願いが通じたのかどうかネットが我が家にやってくることになった。親が私の学力を心配してネットでできる学習塾にいれてくれたのだ。それにあわせてノートパソコンを購入し、ネットの契約もした。最新のサービスはやはり適用外なので契約できなかったけど、電話線にケーブルをさせば遅いながらもネットが開通できた。その代わりにネット接続中は電話ができなかった。電話がかかってくると問答無用でネット接続が切断された。
ネットをできることが嬉しいというよりも、エロ画像を見れることに喜んだ。検索すれば気軽にどこでも覗ける。まさに夢の詰まった箱だろう。塾のことなど片隅に押し寄せて、エロ画像が頭の真ん中に居座っていた。
親も機械音痴でネットの知識なんて誰も持っていなかったけど、我が家に念願のパソコンがきたのだ。私はここぞとばかりに適当にネット塾をやりながら、エロ画像を探し求めた。ネット回線の遅さにイライラすることもあったが(ヤフーのトップページ表示するだけで10分もかかることがある)、その先に待つエロ画像を想うと何時間でもやりつづけた。
無修正の画像を見つけた時の衝撃。いくら深夜のテレビだろうが、エッチな本だろうが、見ることのできなかったピリオドの向こう。その正体が私の目の前にあらわれた。
これが。これが。これがそうなのか。
社会が隠しつづけてきたモザイクの介在地点。
可愛らしい布きれが守りつづけてきた防衛地点。
秘密の花園と揶揄されるバラ色の快楽恥点。
私は初めて見たそれに興奮した。思い描いていたものと違うけれど、よくわからないなりにも興奮するものだ。
早速オナニーをしようとした。今までしたことがなかった。手を股間に伸ばして自分のモノを上下に擦りだすと次第に、むくむくと大きくなってきた。だが、感覚はない。私の股間は刺激により膨張しているのに、その本人が触れている感覚がないのだ。
私はそれでも股間を刺激つづけた。女性の秘めたる部分を初めて見て、気持ちはこんなにも興奮できているのに、下半身は私から切り離されているようで。そこにあるのに、ない。見えているのに、そこにあるのに、存在していないように、感覚がない。
どこにいったのだろう。
どこに置き忘れたのだろう。
結局、オナニーは失敗に終わった。私は射精すらまともにできないのがわかった。オナニーができないことも。股間で快感を感じれないことも。
エロいこともまともにできないのか。これから先、エッチなことがあった時どうなるのだろう。私は足りないものが何かを考えた。まだまだ足りないものがたくさんある。生きていけばいくほど、その問題が浮き彫りになってきた。
後日、とんでもない請求書が届いた。無修正画像は海外サーバーだったから、海外に何時間も電話してるのと同じらしかった。親にしこたま怒られた。ネットは解約させられた。
小学校の時は車だったが、中学校からは通学用のバスになった。
私の村と中学校にはバスに乗り降りできるように台座が作られ、私が乗り込んだあと運転手の方に車いすをのせてもらって通学していた。同じ地域周辺に住む生徒もそのバスにのって通学する。特に不便があったわけではないけど、問題はトイレだった。
私にはトイレの感覚がある。脊髄を損傷したのにトイレの感覚があるのは珍しい、と当時言われたらしいのだが感覚は二歳半ぐらいでやはり止まったままだ。
感覚はあるが我慢をすることができない。まるで若者を蔑むような言葉だが、私のトイレの話。
トイレに行きたい!と感じたら、そこからあまり我慢ができないので、すぐ駆け込まなければならないのだ。私にとってトイレとは死活問題だった。
あまり運動することができないので腸の動きが活発ではなく、かなり便秘がちだったので大のほうはそこまで毎回困ることはなかったが、小はどうしても毎日でてしまう。基本的には紙おむつをしていても吸収容量のキャパがある。夏は汗として水分が身体から抜けていくが、冬は汗をかく事もないので自然とオシッコの回数が増える。
授業中に手をあげてトイレ行きたいですという勇気もなかったので紙おむつに頼ってばっかりだった。中学生の私に授業を中断して注目を浴びてまでトイレに行きたいと申告する度量はない。
量が多い日などは漏れてズボンを濡らしてしまった。でも我慢するしかない。自分が食べ飲みした分が体外に排出されているだけだから。それに今更トイレの機能が回復するなんて希望はない。だから、しょうがない。自分さえ我慢してればいいのだから。
濡れたままなのは気持ち悪いけれど。
そう思ってたが、それだけではなかった。
ある日、母に言われたのだ。
「みんな「臭い臭い」って、バスの運転手さんが言いよるんやけど…」
私は最初なんのことかわからなかったが、すぐに理解した。
帰りがけのバス。
バスという密閉空間。
乗り降りする時に動かなければならない私。
限界までオシッコを吸収した紙おむつ。
ばらまかれる臭い。
それが他の人まで臭わないわけない。
バスの中に漂う私のオシッコの臭い。
私がバスを降りたあと、「臭い臭い」と騒ぐ乗車中の生徒たち。
ごめんなさい。
バスの運転手さんはそれを聞いて、心配して母に教えてくれたのだ。
私も、直接誰かに言われてるわけではないから気がつかなかった。
ごめんなさい。
不快な臭いをばらまいてごめんなさい。
私はショックを受けたが、それでも授業中にトイレへ行くことは躊躇われたので、そのまま変わることはなかった。
中学校の間、臭いと思われてるんだろうなと感じながらもバスに乗り続けた。バスは時刻通りにやってくるのだ。やってこないでくれと思っても。
ごめんなさい。
自分が我慢すればいい、それだけではなかった。
みんなにも我慢させていた。
それをさせているのは私だ。
生きているだけで迷惑をかけることしかしていない。
親にもたくさん迷惑をかけた。
母は私のあとに身籠った子を流産していた。私の世話が大変だったからだと思う。
そのさらにあとに無事に生まれたのが弟だ。
私は、私が生きていて大変なのだから、親にも十分大変だったのだろうとは容易に想像できる。一時期は、なんで私が転落事故を起こしたのかさえ親に対して心の中で怒ったりしていた。親の目を盗んで迷子になったのは私なのに。ただ二歳半の私にその判断があるかどうかと言われれば微妙なところだ。子育てはしたことがないのでわからない。
小さい頃から障害を少しでも治すためにいろいろなところへ行った。
今思えば宗教みたいなものもある。体内の気の流れを利用して身体を浄化するというところに通ったり、整体で血流の悪い下半身を中心にマッサージしてもらったり、病院で微細な電流を流してくれる椅子に座ったり、リハビリの合宿に泊まりがけで何度もいったり。
本当によくしてもらったと思う。
その親に最大のショックを与えたのは自殺しようとしたことではないだろうか。
私からしたらむしろ、こんな身体になったのに自殺しようとしないほうが不思議だった。
中学校の体験学習で、障碍者の学校でいっしょに授業を受けるというものがあった。発達障害があるので内容的には簡単なものだったが、学校に帰ったあとにアンケートがあった。
障碍者に対する見方に変化がありましたか?
「はい」か「いいえ」を選んで、「はい」だったら具体的にどんなところに心境の変化があったのかを記入するものだったので私は「いいえ」をチェックした。昔から私は障碍者が身近にいる環境にもいたので特に変わったことはない。あんな一回限りの体験でそんなに心動かされる人がいるものなのだろうか。
変化がありましたか?という質問は、障碍者に対して嫌悪していたのを前提に作られたアンケートだったのだろうか。めんどくさくなりそうなので、私は考えるのをやめた。
先生たちは、その変化があったかどうかを知りたいのだろうけど。なんでこんな質問がでてきたのか深く考えたところで悲しくなるような気がしてならなかった。
そもそも障碍者とはめんどくさいのだ。
他の人はなんて書いたのだろう。
生きてる限りめんどさい。
では、なぜ私は死なないのか。
昔、子犬を拾って家で飼いたいと言ったことがある。
親は動物好きで、特に母の実家では犬をずっと飼っていたのを知っているので賛成してくれていたのだが祖父母に反対されてダメになってしまった。
村なので農家をしているお年寄りが多く、我が家も祖父母が米を作っていた。だから犬は畑を荒らすからダメなのだと言われたが今イチ納得できない。畑を所有している農家でも犬を飼っている家は多かったのに、なぜうちだけダメなのかの理由になっていなかったからだ。
小学校で募集をかけると子犬はすぐに里親が見つかった。
母がある日、急に子猫を持ち帰ってきた時は祖父母に反対されなかった。犬はダメでも猫は大丈夫らしい。どういう理屈なのかはわからない。
名前はクロと名付けられた。安直すぎるが黒猫だからという他にない。
初めて飼うペットに心は躍る。
もうとにかく可愛い。無条件で可愛い。
最初は怯えて物置の下の暗い片隅に隠れて人間から逃げるようにしていたのに、慣れてくると堂々とすり寄ってくる。あごの下をさすると気持ちよさそうに目を細めて、もっと撫でろよと突き出しくるのかのようだった。母も、父も、弟も、私も、みんなクロが好きでよく遊んだ。祖父母は別に嫌な顔をするわけではなかったが、特に興味もないような感じだった。
すっかり家族の一員になったクロ。
そのクロも事故にあった。
最初はまったく気づいてあげられなかった。ぐるるると変な声をあげているので腹でも壊したのかなぐらいにしか思っていなかったが、その次の日シッポがとれたのだ。根元から。
著者の伊藤 雄一郎さんに人生相談を申込む
著者の伊藤 雄一郎さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます