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いま、なぜ太平記の歴史観を学ぶ必要があるのか。亀田俊和訳『太平記』(光文社古典新訳文庫)の出版ストーリー

著者: 株式会社光文社

光文社古典新訳文庫は、新刊『太平記』上巻を2023年10月12日に刊行しました。下巻は11月14日に発売します。訳者は、歴史学者(日本中世史専攻)で『観応の擾乱』(中公新書)の著者としても知られる亀田俊和(としたか)先生です。長大な全40巻の『太平記』原文から、歴史家ならではの視点を生かし90話をセレクト、南北朝期の動乱をライブ感あふれる新訳で完成いたしました。

今回の新訳『太平記』のエッセンスを味わうために『観応の擾乱』との併せ読みをお勧めする理由とは? そして、日本の古典文学や日本史初心者の方にも自信をもってお勧めできる新訳の魅力とは? 

担当編集者の佐藤美奈子が解説いたします。



書名:太平記(上)

作者未詳

訳者:亀田俊和

発売日:2023年10月12日

定価:1056円(税込み)

判型:文庫版ソフトカバー384ページ

ISBN978-4-334-10086-5


「日本史きってのマイナー時代」は、陰謀と寝返りの連続

のっけから自虐的になりますが、なぜ、今『太平記』なの? と思う人は多いのではないでしょうか。日本古典の軍記物語と言って真っ先に思いつくのは、『太平記』より『平家物語』だ、という人も多いでしょう。


南北朝期の中心人物たちは立場をコロコロ変える、内輪揉めばかり、との印象が大きくて、敵味方がわかりづらく、時代の流れが掴みにくいのです。ドラマなどで日本の歴史が描かれる場合も、戦国時代から江戸時代にかけて、信長、秀吉、家康の3人はよく登場するのに比べ、南北朝期を扱う頻度は極めて少ないのも当然のことかと思います。


鎌倉幕府を倒すときには後醍醐天皇に従い、天皇から名前に「尊」の字までもらっておきながら、あっという間に「逆臣」となる足利尊氏(たかうじ)。室町幕府創立に際しては互いに立役者で、身内と言えるのに、いつのまにか血みどろの争いを繰り広げる尊氏の弟・直義と執事・高師直(こう の もろなお)。味方であるはずの武士同士が次の日には敵となり、陰謀をめぐらせ、寝返りに次ぐ寝返りが描かれる。『太平記』はそんな物語です。


戦争を知る世代の方々の中には、天皇に忠誠を誓って命を落とす楠木正成(まさしげ)の在り様が玉砕を賛美するようで、よけいにこの物語から遠ざかりたい、という人がいるかもしれません。また、タイトルにある「太平」の語に真っ向から逆らうように、延々と続く争いの数々に圧倒され疲弊する、という読者もいることでしょう。



栃木県足利市にある室町幕府を開いた征夷大将軍足利尊氏公像

亀田先生著作『観応の擾乱』の衝撃 

かく言う私自身も、そうした『太平記』のイメージに吞み込まれていた者の一人でした。この物語には終わりがない(と感じられる)し、流れもわかりにくい。そもそも全40巻もあって長大すぎる!と。しかしそんな折も折、出会って目を開かされたのが、亀田俊和先生の『観応の擾乱』(中公新書)という一冊です。


ひと言で表すならば、この書によって『太平記』の世界が立体感を獲得し、解像度が一気に上がる感覚を持ったのです。

観応の擾乱(かんのう の じょうらん)そのものにスポットを当てた一般書が他にほぼ無いという事情があるにせよ、端的に新鮮で、面白さに興奮しました。それは、歴史学者としての著者の視点と分析が、史実(歴史)とフィクション(文学)の境目を強く意識させてくれたからではないか、と思っています。

複雑な争乱の成り行きを緻密かつ丁寧に描き、歴史的意義を考えさせる同書から、かえって『太平記』の物語としての記述が、生き生きと息づく印象を得ました。


例えば同書に、『太平記』17巻にある逸話が登場します。

建武3(1336)年10月(陰暦)半ばに比叡山から北陸に逃れた新田義貞軍が越前国(現在の福井県)木ノ芽峠を越えた際、寒波により多数の凍死者が出た、という内容です。

「凍死」は大袈裟では? フィクションだからきっと「盛って」創作したのでは? と受け取られてもおかしくはないでしょう。ところが、この年の寒波は「長野県木曽地方のヒノキの年輪成長曲線の調査からも裏付けられる」ことが同書で紹介されます(『太平記』の同話を最初に問題にした歴史家は佐藤進一氏)。


私がここを読んで感激したのは、何も『太平記』が史実に忠実である可能性を知ったからではありません。歴史学者の冷静な視点が、物語作者たちの真摯な創作態度をかえって炙り出した、と感じたからなのです。こうした視点が随所に現れる『観応の擾乱』は、まさに史実と物語の「あいだ」には何があるのか? について想像力を掻き立ててくれる本でした。

史実とフィクションを重ね合わせる意義 

史実としての観応の擾乱は、室町幕府成立後に征夷大将軍・足利尊氏と弟・直義のあいだで生じた対立が全国的な争乱に及んだ事態を指します。これは、『太平記』が描く時代にまるまる収まります。


有能な武将でもある幕府執事・高師直の思惑、政権返り咲きを狙う南朝お歴々の野心が、当然加わります。のみならず全国の諸将が尊氏方と直義方に分かれ、事態の推移とともに立場を変えたりするのですから、状況は二転三転し、人間関係はすごく複雑(!)です。


しかしだからこそ、『観応の擾乱』を『太平記』と重ね合わせて読むことで、個々の事象の史実による裏付けがどうなっているのか、フィクション(太平記)が立ち上がった背景にどんなことがあったのか、が視覚化されてゆくのです。

同じグレーゾーンでも、黒に近いのか白に近いのかが見えてきて、所々でカラーにも変化するような経験です。それでこそ、物語の大胆な誇張も荒唐無稽さも、楽しむことができるのではないでしょうか。まさにシーンの解像度が上がるかのようです。

亀田先生に迷わず新訳をお願いすることに

『観応の擾乱』を通してそんな経験をした私は、かつて編集に携わった日本文学専門誌が『太平記』を特集した際、亀田先生に執筆依頼をしました。歴史学者は『太平記』という物語をどう読み、どう捉えるのかを引き出したい。そんな下心があったのです。


頂戴した原稿では、高師直が慈愛に満ちたヒーローとして描かれた江戸時代中期の短編小説・近路行者著『古今奇談 英草紙(はなぶさぞうし)』中の一編が取り上げられていました。

この短編は、好色で悪逆非道といったイメージの強い師直が実は善人だった、という設定です。こうした真逆の人物像が成り立つのも、多様な受容を可能にする『太平記』自体のテキストに起因すると論じ、考察する内容でした。キャラクターとしてそもそも矛盾する師直の逸話が『太平記』に収められる理由についても、観応の擾乱との関係から論じられています。

『太平記』が長大な作品だからこそ持つ、登場人物たちの一元化されない魅力を、このときも歴史学者ならではの視点から浮き彫りにしてもらった、と感じました。


光文社古典新訳文庫で『太平記』の企画が持ち上がったとき、訳者として亀田先生を望んだことは言うまでもありません。もちろん、お引き受けいただけるかどうかは、別の話ですが。

40巻全話の中から、上下巻90話に厳選

「ダメもと」を自覚しつつ、亀田先生に恐る恐る新訳を依頼したところ、一旦お考えになったうえでではありましたが、快く引き受けていただくことができました。


最初に立ちはだかったのは、新訳『太平記』を何冊に収めるか、という問題です。40巻全話を現代語訳したら、文庫で10冊程にもなってしまいます。「古典の初心者にも親しんでほしい」が当文庫の方針である以上、10冊揃いはあり得ません。


最初は『太平記』のエッセンスを1冊に凝縮したい、と希望しました。先生にもその旨お伝えし、早速、収録する話の選定作業に入っていただきました。先生のご希望とご意見を聞きながら何度かやり取りをし、こちらが重要性を見逃していた話を丁寧に掬い上げていただいた、と記憶しています。


例えば、直義にとってのキーパーソンである妙吉(みょうきつ)という僧侶をめぐる話(27巻「妙吉侍者の事」「秦の趙高の事」)等々です。

しかしこの段階を経て、さらに巻末資料や解説も充実させたいことを考えると、1冊本ではとても無理であることがわかりました。


一年を通じ放送されるNHK大河ドラマ並みの読み応えを念頭に考えていた当文庫編集長の英断に助けられ、結果的に、90話を上下巻2冊に分けて収めることが決まりました。こうした経緯から、今回の新訳に取り上げた90話は、先生による文字通りの厳選だ、と感じています。

歴史学における最新の研究成果を盛り込んだ傑作

以降の進行は、(裏話としては面白みがないかもしれませんが)とてもスムーズでした。一話の新訳が完成するたびに送付してもらうのですが、当方のチェック作業で先生をお待たせすることはあっても、先生からの訳稿が遅れたことは一度もありませんでした(一度も!です)。


このような著者はなかなかおられません。また、一話ごとに先生の感想(好きな武将やシーン等々)が添えられていて、こちらの感想もその都度お伝えする、という双方向のやり取りは、何物にも代え難い楽しい時間でした。これは担当者の特権ですね(笑)。


現在、国立台湾大学で教えておられる先生とは、常にメールでやり取りしましたが、「訳者あとがき」を頂戴した後に初めて、台湾の研究者の方々と『太平記』の読書会まで行ってくださっていたことを知り、感慨も一入(ひとしお)となりました。


新訳に添えた「解説」(下巻末尾)では、先に紹介した亀田先生ならではの視点から抽出された『太平記』の魅力が漏れなく展開されています。注目すべき一話一話の背景にも、歴史学における最新の研究成果を踏まえた解釈が提示されていて、『太平記』と史実の関係がいっそう明らかになっています。歴史好きから初心者まで、幅広い年代や好みの違いを超えた読者に必読の内容です。


また、日本史は苦手という読者にとって助けとなるよう、付録として地図、系図類や人物一覧等を掲載しました。欲張りですが、今回の新訳を手掛かりとして全40巻に及ぶ『太平記』原文に挑んでいただけたら、とも思います。


清和源氏・宇多源氏の略系図


足利家略系図


鎌倉幕府の滅亡(「元弘の変」の時期)


南北朝期の主な武将の配置

(系図・地図@株式会社ウエイド原田鎮郎)

『太平記』は豊富で多彩なコンテンツの宝庫 

振り返れば『太平記』は、『忠臣蔵』は言わずもがな、これまでにも極めて多くの後続文芸・芸能作品が、オマージュを捧げたり、時にはパロディ化してきた対象です。新田義貞の鎌倉攻め、中先代の乱、楠木正成の湊川合戦や桜井の別れ、佐々木導誉(どうよ)の婆娑羅(ばさら)ぶり等々、有名な逸話やエピソードにも事欠きません。


しかしここにきて、『太平記』をめぐって、新たな動きが起きていると感じます。

今年(2023年)7月発表の第169回直木賞を受賞した、垣根涼介氏の『極楽征夷大将軍』は南北朝の動乱、つまり『太平記』の世界を小説化した作品です。本作中の足利尊氏は、根が怠惰かつ虚無的で、単行本の帯に「やる気なし 使命感なし 執着なし」とある通りです。


戦前の「逆臣」というイメージとも、吉川英治が描いた『私本太平記』とも異なる尊氏像――一見ネガティブでテンションが低い――が描かれたのも、『太平記』の懐の深さを示しているのではないでしょうか。

『極楽征夷大将軍』の参考文献欄の筆頭に、亀田先生の『観応の擾乱』が掲げられているのも、『太平記』をめぐる新たな動きと無関係だとは思えません。


松井優征氏の人気コミック『逃げ上手の若君』の主人公・北条時行も、『太平記』を彩る重要人物の一人です。

新訳『太平記』刊行に際し、担当者としての願いを、松井氏の言葉を借りてたくさせていただきます。

「日本史きってのマイナー時代に皆様が心を馳せるきっかけになれれば」(『逃げ上手の若君』松井優征氏プロフィール欄より)。


『太平記』は、決して一元化されない価値観や、豊富で多彩な着眼点、それらの根拠や素地に溢れているコンテンツの宝庫です。

亀田先生いわく「内乱の複雑な展開も相まって、同記の描く世界はきわめて豊穣なものとなった。そのため現代に至るまで多種多様な論点を提供し、膨大な研究や議論を生産し続けているのである(下巻「解説」)。まさに、「日本の思想・政治・文化の基礎を形成したと言っても過言ではない古典文学」(同)です。


【訳者プロフィール】

亀田俊和(かめだ・としたか)

1973年、秋田県生まれ。国立台湾大学日本語文学系助理教授。京都大学文学部史学科国史学専攻卒業。京都大学大学院文学研究科博士後期課程歴史文化学専攻(日本史学)修了。京都大学博士(文学)。著書に『高師直』『足利直義』『征夷大将軍・護良親王』『観応の擾乱』『南北朝期室町幕府をめぐる諸問題』など多数。


現在は台湾大学で教えている訳者の亀田俊和氏


【『太平記・下巻』情報 】

書名:太平記(下)

作者未詳

訳者:亀田俊和

発売日:2023年11月14日

定価:1188円(税込み)

判型:文庫版ソフトカバー440ページ

ISBN978-4-334-10127-5





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