TOEIC380点だった僕が、英語嫌いを克服してスパルタ英会話を創業するまで
3ヶ月で英会話を習得する短期集中英会話スクール『スパルタ英会話』。
創業者の小茂鳥雅史氏に、創業までの話を聞きました。
TOEIC380点で外資系企業に入社決定
TOEICわずか380点で、外資系証券会社であるモルガン・スタンレーMUFG証券に入社することが決まった僕は、どうにか英語力を上げないといけない状況でした。
そもそも英語は大嫌いで、数学が大好きでした。なぜなら、数学には確固たる答えがあるから。英語はめんどくさい。なんで過去形にあんないろんな形があるんだと。全部に「ed」付ければいいじゃんって思っていました(笑)
内定者研修でバンクーバーへ!
僕の絶望的な英語力に見かねた会社は、僕に異例の研修を命じたのがきっかけです。その内容はなんと、「バンクーバーに行ってこい」というもの。
今となってはありがたいことですが、内定者時代に語学留学に行かせてもらうことができたんです。同期は全員TOEIC900点以上で英語力を上げる必要がないくらいの実力でしたが、「僕だけ行かせるのは不公平だ」と、同期みんなで行くことになりました。
共同創業者との出会い
語学学校でたまたま横に座ったのが、一緒に起業した、たか(矢口貴久)です。当時、僕は23歳の大学院1年生。たかは大学1年生の19歳。留学中は、仲の良いグループ10人くらいで町をぶらついたり、港に行ったり。その中に僕もたかもいました。
世界平和ついて語りあう
そんな出会いから数日。
もう一人を加えて1人で日本料理の居酒屋に行ったとき、僕が世界平和について熱く語り、たかは起業をしたいと熱い想いを語った時間がありました。あの夜、他の友達たちとは違った世界へ足を踏み入れた気がします。
そこからは「どうやって起業するのか」「どうやったら世界がよくなるのか」「なんかおもしろいことをしよう」と、そんな話を、飲んだくれながらいつも話していました。
留学が楽しすぎて、僕は1ヶ月の留学の中で、ホームステイ先で夜ご飯を食べたのは最初の3日ぐらい。あとは、ほとんど終電帰り。なんなら終電を逃して、ヒッチハイクで家まで帰ったこともあるぐらいでした。そのほとんどを、たかと一緒にいた気がします。
留学後、わらしべ長者の旅へ
僕の価値観に大きく影響を与えたのが、大学時代に僕の中で流行っていた「企画旅行」です。例えば、こんな企画旅行をしていました。
・ヒッチハイクで四国を一周
・民家に泊めてもらい、与論島で0円生活
・わらしべ長者の旅(1本のわらがバイク2台に!)
所属していた体育会アイスホッケー部の休みが年に3日だけあったので、この3日をいかに楽しむか、ということでやっていました。
留学先のバンクーバーでこの話をすると、内定先のみんなもやりたいと言い出し、それなら東京に帰ってからやろう、ということに。
わらしべ長者というのは、ようは物々交換なのですが、毎回交換するたびに人の優しさが乗っかるから、より良いものになっていきます。世の中の優しさの証明が、バイク2台なわけです。
わらしべ長者をたくさんやって、そんなサイトを作ったら、世の中の優しさの証明をしていけるんじゃないかという話になり、その場にいた7人は「わらしべセブン」というユニット名になりました。コンセプトは、「わらしべセブンが世界を救う」。
バンクーバーから帰ってきてから、全国に散らばった7人を東京に集めるために一苦労。大阪・佐賀からも呼び寄せ、なんなら1人はバンクーバーから一時帰国でわらしべ長者をやりに帰ってきました。
まずはワラを買って、物々交換開始。最初はポケットティッシュ。その次はお菓子、そしてブランド物のハンカチ。1回目の旅でバイク2台にしたことでコツを掴んでいるので、どんどんとレベルアップ。民家をピンポンしまくります。
そして青山学院大学に移動し、「わらしべは世界を救うんです!交換してください!」と熱弁した結果、ブランド物のハンカチをiPod miniに変えてくれる学生がいました。受け取ったばかりのiPod miniを持って、とりあえず行ってみようと向かった先がベンツのディーラーショップ。学生7人で頼んだものの、さすがにベンツとは交換してくれませんでした。
それならば原付に変えようと、地元のバイクショップの店長と話すこと15分。一番ぼろい原付と交換してもらえることに!ここまでの所要時間、わずか8時間でした。
ちなみに、当時はYouTubeなんてなかったので、ただの趣味です(笑)実は先日、有名YouTuberの方とコラボ企画をやった際、この話をしたら「え!?趣味ですか!?YouTubeの企画じゃなく?そんな人世の中にいるんだ……」とびっくりされました(笑)
語学が戦争をなくす?
わらしべの旅から数ヶ月。またなんか面白いことをやりたいよね、と渋谷のマックに毎週集まって会議。
「とりあえず渋谷を綺麗にしたら、世界は綺麗になるんじゃないか」と、友達30人くらいを集めてハチ公お掃除企画をやってみたり。
「争いや戦争が起きるのは、相手のことを理解してないからではないか」と思い立ち、コミュニケーションの壁を乗り越えるための語学を広めて世界平和を目指そうと、留学生交流会を開いたり。
研修後の残り少ない学生生活では、起業ではないけれども、いろんなことにチャレンジしていました。
「どうやったら世界は平和になるのか」という質問を画用紙に書いて、街の人に話しかけたことも。思いつくことは全部実行していました。
とはいえ、今から考えると、目標設定はされていなかったし、目標に向かっていたわけでもないし、その場で思いついたことをどんどん実行するという、実行力だけは異常にあるだけの学生でした。
徐々にビジネスの道へ
だんだんと、ビジネスとして成り立つようなことに挑戦したくなり、「地方創生」をキーワードに農家応援サイトを作成することになりました。
当時、僕はモルガン・スタンレーに入ったばかりのころで、NY研修中でしたが、日本とメールのやりとりをしながらプロジェクトを進めて行こうと。
やろうとしていたのは、地方の美味しいものを作っている農家の想いを、マップ上にピンで表示できるようにして、そこから取り寄せができるようなサービスでした。けれど、これもNYと距離があったり、ビジネス方針が合わなかったりして、断念。
農業や食には僕もたかも興味があったので、その後も一緒に「おかゆ屋さんビジネス」を立ち上げようと、家でいろんな出汁をとってみたり、韓国におかゆ研究の旅に行ったり。
「畑を貸し出すビジネス」をやろうと、農大に友達を作りに行ったり、農大の合宿に潜り込んだり、農家に交渉に行ったり。
そんなこんなをしていても、あまり実現化まで漕ぎ着けられませんでした。
創業期・カフェ英会話サークル
ここまでの5年間、たかとは頻繁に会っている時期と、ちょっと会わなくなる時期をいったりきたり。ふと気づくと、たかがカフェで英会話サークルを立ち上げていました。「こも、運営手伝ってよ。」という一言から、僕も運営メンバーにジョイン。
これが今のスパルタ英会話の一番最初になります。
現在スパルタ英会話筆頭講師のカルメンも、毎週参加してくれていました。
ハリーポッターの映画をスクリプト化して英語を学んだりなどなど、毎週楽しく悩みながら、手作りで教材を作っていました。数ヶ月で20人ぐらい集まるサークルになり、夏のバーベキューも40〜50人ぐらい集まりました。
英会話の前はパーティ事業?
英会話サークルで半年ぐらい動いたものの、売上も1回あたりは微々たるもので、生活をしていくのはしんどかったです。そこで、「パーティ事業だったら、友達が友達を呼んできてくれるから、常に大規模化していくし、最高じゃないか」となり、パーティ事業をはじめました。
最初は、どのくらいの分量の食べ物を用意すればいいかもわからないし、お寿司は買ったのにお醤油がなくて途中で買い出しにいったり、ぎりぎりの値段設定で一人3000円だから利益がほとんど出なかったり。
1ヶ月目に、毎週パーティを開いて、それだけで疲れすぎて、死にそうになりました(笑)
ただ、最初の1ヶ月、4回のパーティで運営が3人で8万円儲けたとき、僕らめちゃくちゃポジティブなので、「やった!8万円も利益出た!100倍にすれば遊んで暮らせるぞ!」と言っていました(笑)
とはいえ、パーティ事業は疲れすぎるし、性格に合わないと断念。人には向き不向きがありますからね。
あるとき、半分パーティ事業、半分カフェ英会話事業というイメージで、BBQをやりました。そのとき、コスト削減のために実家の車に大量の荷物を乗っけて、椅子や机まで運んで、多摩川でBBQをやりました。
川沿いでBBQはもちろん、スイカ割りを楽しんだりと最高だったのですが、その日はとても暑く2人ぐらい熱中症になってしまいました。運営であった僕たちもほぼ熱中症の中、気持ちを張って、なんとかやり切ったのが、パーティ事業の最後です。
バーベキューには現在グループ会社である起業スクールの代表をやっている、田井譲も来てくれていました。
そのとき、きてくれた数人が「もっと本格的に英語を習いたい」と言ってくれたところから、英会話事業が本格化します。
ぎりぎりの運営状況
最初は、営利事業なのか、非営利事業なのか。お金もほとんどもらっていなかったので、区民会館とか友達のマンションのセミナールームとか、そんなお金のかからないところで、ひとまず英語を学びたい人に集まってもらいながら、カリキュラム作成と同時にリリースするような日々を2ヶ月ほど送っていました。
だんだんとコンテンツも揃ってきたころ、とあるベンチャーキャピタルの方から、「起業家たちにレッスンをしてくれるなら、部屋を自由に使っていい」と言ってくださり、起業家向け英会話&一般向け英会話の事業が始まりました。
さらに2ヶ月したころ、「もう部屋を借りてしまおう!」と、周辺相場からすると10%ぐらい安かった、新宿御苑前へとオフィスを構えます。同時に会社を立ち上げますが、キャッシュは150万円程度で、オフィスの初期費用を払ったら残り80万円。家賃が30万円なので、売上が上がらなければ、3ヶ月で倒産という計算でした。
本当に運のいいことに、「スパルタ 英会話」で検索してくださる方が大勢おり、1ヶ月目から数百万円の売上があがり、順調な滑り出しとなります。
1年のうち364日働いた創業当時
筆頭講師であり、現在インスタグラムのフォロワー3万人以上のカルメン講師は、創業当時からのメンバーです。(学生時代からの友人でもあります。)
創業当時は、週2日は会社に泊まるのが当たり前。2年間は1月1日以外、ずっと働き続けていました。
とある祝日、祝日なので教室としては休みにしていたつもりで、ソファに寝っ転がりながら、資料を散乱させて創業メンバーでカリキュラムを作っていたら、50代ぐらいの男性の生徒さんが入ってきてしまい、とっても気まずい想いをしました。でも、そのお客様は本当にいろいろと応援してくださり、カリキュラムのミスや改善点など、いつも優しく指摘してくれました。
よく、「クレームはお客様からの愛の言葉だ」というような話がありますが、本当にクレームとかではなく、「小茂鳥くんたちが頑張ってカリキュラムを作ってくれるから、僕は英語の勉強ができる。だから、応援してるよ。がんばってね。」という言葉と共に、「言いにくいんだけど、カリキュラムでミスを見つけてしまったから、共有しておくね。」という形でサポートしてくださいました。本当に、今思い出しても頭が上がりません。
それ以外にも、毎月ご飯をご馳走してくださる方や、お客様との交流パーティを開くたびにお酒の差し入れをしてくださるお客様もいました。至らぬ点が本当に多かった創業時だと思いますが、文字通り、お客様の支えがあって少しずつ改善を行うことができました。
数年後、生徒さんの交流パーティで、学生コンビで仲良くなった二人が、先生の物真似や英語あるあるでの漫才などを披露したり、アットホームな雰囲気で、少しずつ生徒さんも増えていきました。
もちろん、リアルなクレームもありましたし、乗り越えなければいけない壁はたくさんありました。それも全てチーム一丸となって乗り越えることができたのは、かけがえのない思い出です。
チャレンジで、道は開ける。点はいつかつながる
そこから6年。スパルタ英会話は現在、新宿・銀座に店舗を構え、社員が70名を超えました。<Making the World Wonderful Through Communication. >(コミュニケーションを通して、世の中を面白く)というビジョンをもとに運営しています。
写真は現在のスパルタ英会話新宿校の様子です。
すべては、ひょんなことからの出会いから始まり、そこから行動していくことで未来は切り開かれていくのだなぁと思っています。
たかとは隣の人に話しかける習性がなければ出会っていない。ここまでいろんなことにチャレンジして、そして失敗していなかったら、スパルタ英会話は存在しない。振り返ってみると、とても良い思い出です。
スパルタ英会話はこれからも、さらに多くの人の夢を叶えるべく邁進しますので、今後ともよろしくお願いいたします!
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