ITバブル体験記
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>異常な世界
米国マイクロソフトからの発注、インテルからの10億出資、新卒の受付嬢がストックオプションで数億円ゲット
なにもかもがぶっ飛んでた
ヘッドハンティングされる
ITバブルという言葉が流行りつつあった、1990年後半。
社員30人程度のソフトウェア開発会社に勤めていた。
当時社会人2年目で手取り15万円だった。
そのころ業界で言うところの常駐(いわゆる派遣)で客先に行っていた。
そこで、クライアントであるベンチャー企業の社長にランチに誘われた。
ヘッドハンティングだった。
社長と取締役2人だけのベンチャー企業へ移籍
移籍した会社はWebシステム開発会社。
日本橋の20平米のマンションの一室で第二の人生?がスタートした。
この会社、規模は小さいものの、技術屋である取締役の力量を買われて大手からの仕事が殺到していた。
今では当たり前になった、アクティベーション。(ソフトウェアの機能を有効にするもの。シリアルキーを入力してソフトを使えるようにするもの)
マイクロソフトアメリカ本社から設計書の概略が送付されてきて、制作の一部を依頼されるほどだった。
しかも、それを多忙ということで断っていた。
他にも、大手通信会社の上役など普段は会えないような方々とお会いすることが多かった。
当時はそのすごさもよくわかっていなかったのだが・・・
「デスマーチ」月曜出社、日曜帰宅
月曜日はボストンバックを持って出社していた。
業界でいうデスマーチだ。
デスマーチとは、仕事が詰まっているというか、納期に間に合わせるために身を削って働いている状況を指す。正にデス(死の)マーチ(行進)だ。
会社には布団が用意されていて、月曜日から土曜日までは泊まり込み。
日曜日の朝一に洗濯をするために帰宅し、そして洗濯物が乾いた月曜日に出社という生活。
ゲーム会社などはもっとひどい状況だと聞いたことがある。
泥のように寝て、朝出社した人が自分の顔をまたぐので目が覚める。
目が覚めた瞬間メールチェックをして重要なメールに返信をして会社でシャワーを浴びる。
こんな生活だった。
当時は合宿のようでこれが楽しかった。
この頃は社長含め5人体制になっており、僕を含め3人が泊まり組だった。
布団は2セットしかない。
毎日、じゃんけんをして、敷布団、掛け布団、枕を順に獲得していく。
悲惨なときは、何一つ獲得できず技術書を枕にして寝た。
就寝時は有線放送の波の音というチャンネルが子守唄代わりだった。
ITバブルのころの金銭感覚
僕ら末端で働いているスタッフは恩恵は受けれなかったが、いろいろな面白い話は聞けた。
当時はIT業界のIPO(株式公開)ラッシュだった。
受付の新卒の女の子がストックオプションで数億儲けたとかいう話はザラだった。
とある会社の取締役はビルのワンフロアを改装して自宅にしていた。
部屋数は数百に及び、飲み会をしたらビルの中で迷子になって1時間も帰ってこれないスタッフがいたそうだ。
1日で終わる業務で数百万の案件なども大量にあった。
なんと言ってもホームページ制作費が100万円からの時代。
DBと連動する簡単なシステムでも1000万円オーバーが当たり前だった。
クライアントのサーバーセンターには木箱に入ったサーバーが数十台ならび開梱されずにずっと放置されていたりもした。このサーバーは当時1台5000万円。
相場も何もない無秩序な時代。
湯水のようにお金があちらこちらで流れていた。
無理難題の案件も多数
ムチャクチャな要望をされることもあった。
誰もが知る有名サイトがある。
当時の噂ではこのサイトは通称Starfireと呼ばれる業務用冷蔵庫のようなお化けサーバーを利用していた。
その価格3億。
そのサーバーを並列で30台だか50台ならべて運用しているとのこと。
その仕組みと同じような仕組みを
120万のIntelのサーバー8台とUL450というSUNのサーバーを2台で実現しろというものだった。
サーバーのコストを100分の1以下で同様の機能を実現しろってことだ。
むちゃくちゃだった。
紙飛行機で戦闘機と同じスピードを出せというようなものだ。
まぁ、こういう無理な要望でも意外とどうにか解決できるのが不思議なもので納品日には希望通りのパフォーマンスを出すサイトが出来上がった。
サーバーセンターの面白話
サーバーセンターは一見わかりづらい場所にある。
それはテロ行為などの対策のためだそうだ。
あるサーバーセンターの例。
著者の太原 大助さんに人生相談を申込む
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