声を失った青年が歌いたいがために、葛藤し悩み苦しみ。そして、声を取り戻した物語

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 中学生のころの時だった。男子なのに変声期を迎えても、いっこうに声が高いままだった。

 中学生の頃の話だ。他の男子が声が低くなっていく中、だんだんと取り残されているようなきがしてきた。私は引っ込み思案で、声が高いままのことについて悩んでいた。親は厳しくて、いや、逆にバカにするような態度をとっていた。それも、辛かった。


 だんだんと人と話さなくなっていった。何かいうと、バカにされているんじゃないかと、そう思っていた。親が私に対しての言動に過剰に否定的で支配的で、それもあり、人と話すことがなくなっていくのが加速していった。


 石津君という双子の友達がいて、その人と、特別学級にいるゆうじ君という人と仲良しだった。その三人とは話をしていた。いわゆるスクールカーストでは最下位のような位置にいて、とても、面白いことのない中学時代だったと、今でも思う。


 ずっと、ゲームをしていた。だけれども、親は厳しいのでゲームを買ってくれることは殆どなかった。なのでずっと同じゲームをしていた。叔父からもらった「ウルティマVI」や「三国志III」、「マリオ」、「カービィ」、「ポケモン」、「Age of EmpireII」などを永遠と繰り返すようにプレイした。私にとってRPGとは、「FF」や「ドラクエ」ではなく、「ウルティマ」であり、お城のBGMは「ルール・ブリタニア」だ。そのずれも、話に入れないことの一つになったと思う。


 ある時、親がパソコンを買った。Windows98の入ったパソコンだ。ISDNでインターネットに繋がることが出来た。今のメールアドレスの@の前はその時のプロバイダから与えられたものと同じものを使い続けている。親に見られるのが嫌で、hotmailのメールアドレスを取得した。リアルのコミュケーションに飢えていた私は、当時、わりと先駆けとなってインターネット対戦に対応した「Age of EmpireII」にのめりこんでいった。IRCで対戦相手を募集したり、応募したりして、対戦した。このころは、多感な時期にかかわらず、リアルよりテキストでコミュニケーションすることが多くなってしまった。その影響は今でもあるだろうと考えている。


でも、歌が好きで、音楽の授業では楽しく歌っていた。

 人とは話さなかったけれど、歌は好きだった。ただ、J-POPなどは興味がなく、授業で歌うような歌ばかり歌っていた。休み時間になると、たまに歌ったりしていた。今でもそうなのだが、とても裏声の高音がでて「もののけ姫」が歌えるほどだった。


 中学生も中程になると、塾に通わされた。新興住宅地だったので、受験が盛んで、そのため、当時相対評価だったので、成績が伸び悩んでいたのだ。塾では、塾の先生に内申を見せたら、「留年するんじゃないのか」と言われたりした。割りとバカにされていたと思う。ただ、塾の模試は国語と数学は偏差値60ほどあった。だけれども、周りの学力もすごく、国語も数学も3か2をとれればいいほうだった。相対評価は残酷だと感じた。塾でも声をバカにされた。「おちゅなむ人」と呼ばれた。ベトナム人っぽいことと声に対する皮肉だそうだ。


 そのようなこともあり、石津君とゆうじ君以外とは話さないようになっていた。授業で必要がある時だけ、発言するようになった。親も声変わりが終わらないことに対してバカにするような態度をとっていた。


 内申点として入れるところは限られており、低偏差値の高校にしか入ることが出来なかった。いろいろと高校を見学したところマーチングバンドのショーを見学会でする場所があったので、その学校に入ることにした。


 中学校を卒業した。中学校で関わった人とは現在交流が全くない。それも、しかたのないことだと思う。高校に入って、更に悪い方向へ行った。全国大会レベルのマーチングを行っているマーチングバンド部にいはいったのだ。カラーガードというフラッグなどの手具を扱うパートに入った。私はバカにされることを恐れ声を殺した。「さ」や「か」のようなk、sのような無声音でのみで話すようになった。


 大きな声をだすことを良しとする、ものすごい体育会系で、私はそれを貫き通した。声について何度も怒られ、怒鳴られ、泣かされた。そうすることによって、逆に声を出すことがトラウマと化していった。それは、心因性失声症へと移っていった。


 「おい!声だせよ!」と胸ぐらを掴まれ、睨まれ、脅される。あるいは、「なめてんのか??」といわれきついことを言われることも数えきれないほどあった。


 中学時代よりは人と話すことは多くなったかもしれないが、どこか浮いた存在で、なんとなく孤立していた。歌を聞くこともなくなった。クラシックや楽器の演奏曲ばかり聞くようになった。どうしてそうしたのかは、覚えていない。今思い起こすと、厳しい親に、そして部活に反抗できない反抗心からメジャーな音楽を聞くことを避けたのかもしれない。


 心因性失声症の克服のために祖母にすすめられ病院へ行った。喉にチューブの先にカメラがある細いものをいれられて、声の出ない声を出させられた。先生はどちらかというと、精神的な問題で声帯自体に問題はないといった。そして、言語聴覚士を紹介された。


 言語聴覚士のところへ治療へ行った。親ではなく祖母の計らいで。しかし、それも頓挫した。母親は祖母のことを憎んでおり、また母親は私に対する支配欲求が強いため、喧嘩になり、その治療も途中で中断することとなった。


 高校の部活での厳しい練習や、声への指摘に耐えた。レギュラー入りすることもなんとか幸運にでき、全国大会へとでることになった。場所は「日本武道館」。この舞台に立つために、何千時間と費やしてきた。大きな拍手と歓声が私達を迎えた。そして、10分ほどの短いショーを行い金賞を獲得した。

 この記憶は、きっと忘れることはないだろう。今もどこかのステージに立ち続けたいという原動力になっている。


 そんなこんなで、3年間を終え、声を失ったままなんとかやり過ごすことができたが、その結果として、恐らくうつ病からくるであろう、自殺願望と視線恐怖症を追加として患うことになった。


 高校は偏差値が低いところであったので、授業を聞いて、必要なところだけノートをとれば高得点がとれた。推薦で大学に入ることが出来た。

 大学では、声のことに触れる人はあまりいなかったが、宙に浮いた存在だった。切り詰めた高校生活の反動として、堕落した生活を大学時代では過ごした。


 精神科に通うようになった。うつ病だといわれ、薬をだされた。ただただ、それを飲むばかりだった。一向に自体は好転しなかった。声は失われたままだった。


 そして、就活という戦場とも言える時期に差し掛かることになる。だが、私はやる気がなく、何社か受けただけで就職活動をやめ、リーマンショックが起こったのを境に完全に、大学卒業後、就職することを諦めた。

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