国連で働くことをあきらめて、人力車の車伕になった後、起業した僕の物語。~②人力車編~

前話: 国連で働くことをあきらめて、人力車の車伕になった後、起業した僕の物語。~①ゲイとの死闘&バックパッカー編~
著者: 渕上 恭慎


 灯台下暗し

 インドから帰って腸チフスにかかり、高熱で意識が朦朧としながらも、僕は思った。


「こんなことになるなら、もっと世界だけでなく、日本もちゃんと見ておけばよかったな。」


 今にも死にそうな状態で、「世界を見て歩き回った割には、日本の文化や地域を全然知らないし、見ていない」ことを後悔した。これは海外に出たからこそ、初めて日本の良さが分かる、海外旅行者特有の感覚かもしれない。「死」というものを間近に感じて、初めて自分が生まれた国の文化や環境をもっと知っておきたいという意識に駆られた。


 その思いが通じたのか、峠をどうにか超えてからは驚異的な回復を見せた。じっとしているのが大嫌いな僕は、入院して1週間後には点滴の針が刺さったまま、病院の外をランニングしていた(笑)今思うとあまりに破天荒だ(笑)


 そして、無事退院して大学に復帰した僕は、今度は「日本」をテーマにすることにした。

 その時にちょうど先輩にボランティアに誘われたのが、大阪の「釜ケ崎」(通称:西成・あいりん地区)だった。そこがどういうところなのか、僕は詳しく分かっていなかったが、そこに行って僕は今までの価値観を揺さぶる大きな衝撃を受けた。


 なにが衝撃だったのか。

それはまさに僕が見たインドと変わらない光景だったからだ

ありえないほどのホームレスで溢れており

労働者が仕事を求めて列を作り

拾い物やガラクタを路上で売って生活する

 ここが日本であるとは、にわかには信じがたい光景だった。

そして、世界に目を向けていたが、「日本にもこれだけ貧困で苦しんでいる人たちがいる」というのは僕にとってハンマーで頭を殴られたようなものすごい衝撃だった。まさに灯台下暗しである。


 今自分の目の前や、周りに貧困などで苦しんでいる人たちがいるのに、それを無視して、世界に目を向けて大きなことをやろうとすることに、自分の中で大きな矛盾や葛藤が生まれた。


  当時、国連や国際機関を目指すためにイギリスの大学を目指していた僕だが、これを機に自分の進路や社会問題に対するアプローチを大きく見つめ直すことになる。(ちなみに、国際機関で働くための語学力などが大きく欠如していたのも理由の一つである。英語も努力しても報われなかった。。。。)



人力車とカリスマとの出会い

 また、退院と同時に、それまでやっていた飲食店のバイトリーダーを辞めさせてもらい、新しいバイトを探した。

 その時に出会ったのが『人力車』という仕事だった。これなら、日本の文化や歴史も学べるし、人と違ったことが好きな自分にとってはこの上ない仕事だった。僕は「人力車のえびす屋」の門をたたいた。

 

 研修が終わり、現場にデビューした僕は、「こんなに楽しい仕事があっていいのか」と思うくらい、夢中で働いた。自分で営業して、おもてなしをして、そしてアフターまで1人でやる。

 不手際があれば、自分に責任が問われるが、その分いい仕事をすれば自分に返ってくる。

 そこに大きくやりがいを感じた。


 そして、そこでまた大きく人生を変える出会いをする。

僕の師匠である「北川麻世」氏との出会いである。


   麻世さんもまた波乱万丈の人だった。

 大学で教師を目指し、教員免許を取るも、教師になることに違和感を感じる。当時アルバイトでやっていた人力車で運命の「相方」に出会い、2人でお笑い芸人を目指し上京M-1に出場するも予選敗退し、夢をあきらめ、再び人力車の世界に戻ってきて、当時全国1位の成績を誇るカリスマ車夫だった。


 人力車の車夫としてデビューした僕に、新人担当として付いてくれたのが幸運なことに麻世さんだった。一番近くで麻世さんのすごさを見ていた僕は「逆立ちしてもこの人には敵わない」と感じた。

 麻世さんにかわいがってもらえたことと、負けず嫌いな性格のおかげで、苦戦しながらも、徐々に成績は伸びていった。

 そして、自分なりに成績をあげるにはどうすればいいのかを考えて、分析した結果、

  売上 = 単価 × 件数(客数)

 という方程式に分解し、単価をあげるにはどうしたらいいのか、件数を増やすにはどうすればいいのかと突き詰めて考え、理屈で理解することによって、自分の成績をあげることができた。

 そのおかげで、デビューして半年ほど経った頃には、全国TOP10の成績に入れるくらいにまで成長し、ちょうど1年目には2位の銀メダルももらえ、初めて自分が努力したことで報われた高揚感を味わった。


突然の告白

  大学4回生になった僕は進路に迷っていた。当時就活は全くせず、大学院に行ってとりあえずもっと勉強しようと考えていた。しかし、どうしても院に行きたいわけでもなく、本当にそれでいいのかと思い始めていた。

 そんなときに麻世さんから、ちょっと話があると言われた。


麻世さん 「今度、オレが代表で、新しく人力車の店舗を作ることになってん!」

渕上
マジすか!?すごいっすね!!
おめでとうございます!

麻世さん「でな、その立ち上げメンバーとしてお前にも来て欲しいねん!」

。。。えっ!?僕ですか!?

麻世さん「そうや。再来年新しい店舗ができるとき、社員として企画・運営から一緒に手伝ってほしいんや」

 正直嬉しかったが、複雑な心境でもあった。大学に入った時から、大学院進学を前提に勉強もしていたので、簡単にあきらめることができなかったのと、親にその話をしたら、「そんなつもりで苦労して大学に行かせたわけではない」と大反対されたのだった。

 

1週間考えさせて下さい。

 そう言って僕は席を後にした。

 しかし、心の中でほぼ答えは決まっていた。

 僕は基本的に直感人間だ。行動指針は「おもしろそうかどうか」で判断する。大学院は社会人になっても入りなおせるけど、会社・店舗をゼロから作ることに携われるチャンスは滅多にないし、考えただけでワクワクした。

 リスクはとっても、後悔だけはしたくない」その思いが僕を突き動かした

 僕は1週間後、「やります。」という返事と、自分の気持ちを書いた手紙を麻世さんに渡した。それが更なる苦悩への始まりだとも知らずに。



瞑想での学び

 大学を卒業して、新店舗ができるまでちょうど1年準備期間があった。更に経験を積むため、「小樽店」などに出張した。朝から夜まで現場に出て、本当に「寝るか、走るか」という生活は軍隊さながらだった。


 そして、新店舗ができる直前、僕は京都の山奥で行われるヴィパッサナー瞑想のプログラムに参加した。そのきっかけは人力車の先輩との会話だった。

先輩
渕上くん、外の世界をいっぱい見てきたと思うけど、内の世界もすごく広いよ。
渕上
内の世界って何ですか?
先輩
精神世界のことだよ。
瞑想をやることで、それが少しだけ見れるんだ。

 僕はその言葉を聞いて瞑想に行くことを決めた。

 アフリカまで行ってある程度色んな世界を見てきたつもりだったが、精神世界というのは、僕にとってまだ未開の地であったからだ。


 瞑想は非常にストイックなものだった。コース中はケータイや本、ペンなどが没収されるだけではなく、参加者とは喋るどころか、目すらあわせてはいけないし、朝の4時起床という厳しいルールを守らなければならない。そうやって完全に外からの情報をシャットダウンすることで、自分の内側に集中するわけである。 


 何をやるのかというと、ほぼ一日中ひたすら座禅を組んで座り、自分の感覚をひたすら観察する。

ずっとやっていると新しい感覚が出ては消え、まるでスーパーサイヤ人にでもなったかのようにオーラに包まれているような感覚になる。

 それによって、「諸行無常」というこの世の原理、 つまり、とどまることなく、全てが移り変わっていくということを自分の体で経験するのである。自分の体の中で新しい感覚ができては消えということが繰り返されるが、 それが実は外の世界で起こっている、何かが出てきては消える根本的な構造でもあるのだ。

 

 その原理を学ぶことにより、僕は努力しても報われない過去が楽になった。

 この世はとどまることなく時間流れているのだから、いくら過去を嘆いてもその時間に戻ることもできないし、流れを止めることもできない。大事なのは今という移り変わりの一瞬一瞬を大事にして、先に現れる未来をベストにすることだ。そう自分の中に落とし込むことができるようになった。



新店舗・宮島

 そして、つい新店舗をオープンする日が来た。選ばれた場所は広島の「宮島」だった。

 当時の立ち上げメンバーはこの4人。左から

がまちゃん:EXILEのSHOKICHI似のえびす屋きってのイケメン。

麻世さん:宮島店店長。カリスマ車伕であり僕の師匠。

稲さん:宮島店副店長。麻世さんの漫才の時からの相方。

渕上:さかなクンのものまねを得意とするバラエティー担当(笑)


 意気揚々と立ち上げた僕らだったが、やはりスムーズには行かなかった。「宮島」という場所は島ということもあり、大変保守的であり、僕らのようなイケイケで新しいことをする者は拒まれた。

 まるで、江戸時代にペリーが黒船で、島国である日本にやってきた時のように、僕らは島の人たちに何事かと見られ、挨拶をしても返してもらえず、時には罵声もあびた。

 それでも、僕らが、毎日挨拶をし、島中を掃除し、祭りや飲みにも積極的に参加していくことで、徐々に島の人たちは心を開いてくれるようになり、終いには、

「お前たちが来てくれたことで、島が活気づいた、来てくれてありがとう」

とまで言ってもらえた。よく、「街を変えるのは、よそ者、若者、バカ者」と言われるが、3拍子揃った僕らは、少しはそれに貢献できたのかもしれない。



就活でフルボッコ

 2年目には大河ドラマの「平清盛」ブームもあり、宮島店の売上は順調だった。

そして、当初から立ち上げを手伝うのは2年間だけと決めていたので、転職活動を始めた。

 大学院に行くことを辞め、僕が目指していたのは、IT企業だった。

 世界そして、日本の貧しい国々を見てきて、僕の頭の中で、貧困を是正できるアプローチはITにあった。

 しかし、受けた企業全てにおいて全滅した。

人事A
あまりにジャンルが違うよね?


人事B
人力車頑張ってきたのは分かるけど、んで何ができるの?
人事C
君みたいなタイプはそもそも労働者として向いてないよ。起業したらどう?


と言われ、自分の行きたい会社に見向きもしてもらえず、更には人力車の仕事にも疲れ果てていたため、ボロボロに傷つき、ついにガソリンが完全に切れてしまった。


 自分の今までの努力や人間性・価値観が全否定されたようで、何がしたいのかも分からなくなり、自分の存在意義すら見失い、「躁うつ病」と診断され、元から生に執着のない自分は、危うく自分の命を絶つ手前まで行きかけてしまった。


 その時、絶望の淵から救ってくれたのが、あの瞑想の教えだった。

「諸行無常」。

あらゆる事象は移り変わっていく。


就活はうまくいかなかったけれども、今という時間を大事にしてベストを尽くせば、未来は開ける。

僕はそう信じて立ち上がった。

 

 そんな時に、「投資関連の仕事で独立しないか?」という話がくる。人事に言われて、「起業」というものを考え始めていた僕は、人力車のえびす屋を引退し、思い切って独立することにした。

 このあと、詐欺師との大きな戦いが待っていようとは知らず。。。


次回へ続く。

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