「死ぬまでに会いたい奴リスト」に載ってる奴らに会ってきた話 〜ローマ編〜

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私には「死ぬまでに会いたい奴リスト」というのがあってだな、正確に言うと "昔会った事があり、連絡先も無く簡単に会う事ができないけど、死ぬまでにはもう一度だけでいいから会っておきたい奴" がリスト化されており、今回はそのリストに入ってるヤツに苦労して会いに行った話しを書こうと思う。



● プロローグ


その昔、私がまだ会社を作る前にローマでよくつるんでた日本人とイタリア人混合の10人グループがあったんだ。


メンバーは日本人の私、タカ、ムネ、ゴウ、カズ、ミク(仮称)、ノリコ、イタリア人のジョルジオ、ファブリッツィオ、マルコ(仮称)の9名に加え、パスクアーレやエリサやダビデやアンジェロなど不定期参加のイタリア人数名。(仮称ってなってるのは当人達の希望により名前を出したくないという事なので一応伏せた)


家賃が割と高いローマ市内でも有数の一等地であるパンテオンやナヴォーナ広場近くにあったムネの家が私達の溜まり場だった。今思い出しても、もうそいつら当時18〜23歳と若いもんだから、みんな馬鹿で悪くて本当に楽しい奴らだった。





自分含めてイタリアに居る理由は人それぞれあってな。一般的な語学留学、絵画留学とかサッカー留学とか音楽留学以外では、まあイタリアくんだりまで来てるだけあって、日本に居られなくなって非合法組織の追手から逃げてきた奴とか、本人の意思が無いのに親の命令で強制的にローマに住まされてる某芸能人の親戚とか、卒業旅行中にローマで恋に落ち帰国するも忘れられず戻ってきてそのままローマに住み始めてイタリア人の追っかけやってる娘とか、外国人部隊の傭兵上がりで殺人慣れしてるとか、信じられない様な色んな素性の奴がたくさん居たんだ。


そして単にローマ在住日本人と言っても数百人単位で居る訳で、日本人社会と言っても色んな人が居て日本人とあえて距離をおく人も居れば日本人としかつるまない人達も居たり様々だ。




● 旅行観光業界カースト制度


当時は日本人のイタリア旅行客がかなり多く、旅行業界関係は食い扶持がたくさんあった。

湾岸戦争までを第一次ヨーロッパ観光ブームとしたら、時は1993〜2003年頃までの第二次ヨーロッパ観光ブーム時代。過去にフランスに行った人は「次はやっぱりイタリアでしょ!」っていう人が増えてきてイタリア政府観光局はキャンペーンを張り、日本の旅行会社はこぞってロンパリローマ(ロンドン•パリ•ローマ3都市周遊)とイタリア周遊(ローマ・フィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノ)を売り、女子大生は卒業旅行でプラダ本店でバックを買うのが定番行事になってたあの時代な。





この後のストーリーの理解を深めて貰う為に、ここで当時の職業別人間関係について触れておこう。

当時の旅行観光業界は独特のカースト制度が出来上がっていた。というのも、日本なら会社が終わればそんなに頻繁に仕事関係(上司部下というより取引先)の人と遊びにいく機会は滅多にないだろうが、狭い街だし行く店は限られるし、狭い人間関係しか築けない人達は、仕事関係者とつるむのが普通だった。


そして仕事の上では完全な縦割主従関係で、仕事以外での飲みとか食事は接待なのか飲みニケーションなのか遊びなのかの線引きが曖昧で結局プライベートまでその主従関係が存在してた様に思う。


勿論、旅行会社の方やガイドさんにはそんな壁を感じさせない、というより対等に扱ってくれたいい人がいっぱい居たのだが、一部にはあからさまにお前が気に食わないから、または接待されないから、または賄賂を渡さないからだから競合会社に便宜を図る…みたいなことも事実多々あった。


あんまり多くを書いてしまうと困る人が居るだろうからこの辺にしておくが、当時の旅行観光業界カースト制度をざっくりこんな感じにまとめてみた。



① 現地旅行会社のオフィスワーカー

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② 通訳ガイド

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③ 指定免税店関係者

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④ 日本食レストラン関連

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⑤ 小判鮫的モグリのお店

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⑥ ①〜⑤でバイトする学生やニート



※ ①は②の雇い主

※ ②は③の売上左右する

※ ③は①と②に頭上がらん

※ ③にとって①の支店長クラスは神

※ ④は①〜⑥全部がお客、でも中立的で本来この序列に入らない

※ ⑤は③に邪険にされる

※ ⑥は利害関係なし


①〜④までは仕事もプライベートでも交流あり=A群

⑤・⑥個人間での交流は結構あり=B群

でもA群とB群間は一部のクラスタを除き殆んどプライベートな交流がなかった。


で、話しがだいぶ逸れてしまいローマの仲間達の話しに戻るけど、そんな中、私は何処に属してたかというと仕事上は③の免税店グループに守られた⑤という特殊な立ち位置で、プライベートは自動的にA群だった。


A群って年齢は20〜65歳で中心は30代。私なんか若手中の若手で、もはや奴隷……扱いされる事はなくこの新参者を快く受け入れて頂き、ローマに来たばかりで右も左も分からない私に色々親切にして頂き感謝していたものの、なんか日本人同士ばかりでつるんでて遊び方も「それって日本でもできるやん!」って事しかしてなかった様に見えた。(実際は違ったのかもしれないけどね)


そんな人達を見ていて、俺の居場所はココじゃねーなと結構早めから薄々感じていた。


● カズとタカに会う


仕事初め、前日の20時にローマに到着したばかりで早速翌日は朝から仕事だった。愛想が悪い同居人の原チャリの後ろに乗せてもらい仕事場へ行った。職場であるお店に着くと、上司となる一人の男を紹介された。

その上司はスタンと名乗り、カナダ生まれのユーゴスラビア人だかユーゴスラビア生まれのカナダ人だか忘れたが、とにかくイタリア人じゃなかった。そいつに連れられ英語で仕事のノウハウを教えられながら、初日だけで顔と名前が一致しない30人ぐらいのイタリア人を紹介された。


もう、訳わからんよね。


で、その後スタンに連れられ原チャリ2ケツでバチカン博物館やらサンピエトロ寺院やら真実の口とかコロッセオとかローマの観光名所を周り、トレビの泉に行った。


これだけ読むと一日目観光かよ。。。って思える内容なんだが、観光業だけにお客様となる日本人が行く観光ルートが営業場所になるので、それだけ周ったが決して遊んでた訳じゃないんだ。


トレビの泉に行ってスタン行きつけのバール(カフェ)で2人で休憩がてらにエスプレッソを飲んでる時に、そのバールの中でカズという日本人に会った。彼は半年ほど前からローマで働いてるらしく、その他に何を話したかも今は覚えていないが、サクッと「宜しくお願いします」的な挨拶だけして別れた。


それからスタンと2人でスペイン広場に行き、また4人のイタリア人店員を紹介され今日の仕事はここでおしまい…となった。

せっかくスペイン広場で解放されたのだから少し周りを散策しようと噴水周辺を歩いていた。目の前には、あの映画"ローマの休日"でアン女王に扮するオードリーヘップバーンがジェラートを食べながら降りてきたスペイン階段があり、その上にはトリニタ・デイ・モンティ教会が広場を見下ろしている。


実はこの3年後に私はこの世界的に有名な観光地であるスペイン広場、しかも窓を開けると真正面にスペイン階段を望めるという超一等地のマンション住む事になるんだけどこの時は知る由もなかった。




話しは戻るけど、まあ時差ぼけMAXで且つ仕事初日で覚える事もたくさんあったせいで相当疲れていた。そして階段に腰をおろしてスペイン広場を見下ろした。

あー、俺これからローマに住むんだー

現実味が無いような、なんだか夢の中に居るようなフワフワした高揚感を感じながら、ぼーっと階段の一画に佇んでいると、ふらーっと一人の日本人が近づき話しかけてきた。ついさっきスタンに噴水前でさらっと紹介された競合店?のちょっとチャラくてガラの悪そうな悪人ヅラの兄ちゃんだった。

悪人ヅラ
さっきはどうも。夜、暇なら飯行きませんか?


そして特に予定もなかったし、そもそも家へ帰る手段も方角もこの辺りの地理も全く分からなかったのでとりあえず一緒に飯に行く事になった。


彼は東京の西側出身で、俺も多摩地区に住んでた事もあり年齢も近いから親近感が湧いたのを今でも記憶している。彼はローマに住んで5ヶ月程で、スペイン広場にあるカフェの呼び込みをやっているという。


"人生面白ければ何でもOK"という持論を展開して、今迄も無茶をやってきたし、このローマでも常に面白そうな奴と楽しい遊びを毎日探しているという。


飯を食いながら、ローマの観光業界のしきたり、仕事上のキーマン、ノウハウ、ローマの暮らしに関する基礎情報などを教えて貰った。これがタカとの出会いだった。



● ゴウに会う



その後、仕事をしながら色んな人に出会い、ローマに来て最初の3週間が過ぎる頃には面白い奴を探しているというタカの元には、ローマ生まれで見た目は日本人だがイタリア人のマルコ、不良イタリア人学生のジョルジオ、ファブリッツィオ、留学生のノリコ、ミク、ムネが集まる様になっていた。


ここであのカースト制度を思い出して欲しい。


ローマ観光業界カースト制度でいう俺はA群に属してたからタカを中心としたこのB群とは本来交流が無かったはずなんだ。


ただ私の一日の仕事を終える場所が、スペイン広場という奴らの溜まり場の近くだった為に必然的に毎日夕方に奴らと出くわし、そしていつしか夜はそいつらと行動を共にする様になっていた。


そんなある日、タカが「カネ(私)、また1人面白い奴見つけたよ!」(ムネやマルコの時も同じ様に言ってたっけ) と駆け寄ってきた。



スペイン広場でタカに紹介されたその日本人はゴウと名乗った。ゴウは韓国人観光客専門の免税店の営業という、このローマでは過去前列のない仕事についていたのだが、何が凄いってこの男、イタリア語、英語、韓国語が全く出来ない。つまり全く仕事にならない。だからなのか全く仕事してなかったね。

とにかく昼ぐらいに眠そうな顔してスペイン広場にやってきてはタカと話すか、栗売りのバングラデシュ人のモニール君の周りをうろちょろしてるか、階段に腰かけてボーっとしているか。そして夜になりタカや俺の仕事が終わると一緒にムネの家に行って…で一日が終わる。こんな毎日を繰り返していたのに給料は貰っててクビにならない。本当に不思議なヤツだった。


これは後から聞いた話しだけど、結局のところとうとうオーナーの堪忍袋の緒が切れて4ヶ月後にクビになるのだった。そりゃそうだ。



● ローマの遊び方 1


グループ最後のメンバーであるゴウが加わった頃は陽が少しずつ短くなり涼しくなり始める10月中旬だった。


私たちは基本夜中に踊りに行くのが皆好きで、系統でいうと、いわゆるロッテルダムとかロンドンからやってきた文化でガバトランス系のレイブが好きだった。こういうイベントはイタリア国内でも有数の悪いヤツらの集まる場所だった。





当時のローマだとピラミデ(市内南の方にあるピラミッド)の近くにあった老舗クラブ"Radio Londra"とかもよく足を運んだが、基本的に日本のいわゆるクラブの様なそういう合法のまともな店では楽しめない人達だった。

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