「死ぬまでに会いたい奴リスト」に載ってる奴らに会ってきた話 〜ローマ編〜

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俺らが夜な夜な遊びに行った中でも特に思い出深いのは3つあるかな。



第三位 文化祭後夜祭の学校




その年が初めての試みだったらしいのだが、とある学校で先生含む学校関係者の大人全員と真面目な学生を立入禁止にして、私たち含む部外者の人間を呼んで文化祭の日に深夜の学校を解放。


体育館に巨大なスピーカーを持ち込んでレイブを開催。私立だけあって体育館は巨大。体育館の中央では踊ってる学生、体育館の周りの壁にへばり付いてる学生達はずーっと引っ切り無しに回ってくる葉っぱを吸ってるという異様なパーティだった。結局あまりの騒音に午前3時頃に近所の人が通報して警官隊が突入して逮捕者を多数出しその日は解散。翌日学校関係者更迭など結構な問題に発展して翌年以降開催される事はなかった。



第二位 廃教会のトランスレイブ



ローマでは有名な、屠殺場があったテスタッチォというエリアには美味いローマ料理を出すレストランが多いのだが、そのエリアのテベレ川沿いに、とある廃教会がある。


住宅街から少し離れた場所にあるこの廃教会の敷地はかなり広く、教会に似つかわしくない高い外壁に囲まれている。もしかしたら屠殺場跡地なのか、イメージでいうと刑務所とか精神病院とかあったかの様な佇まいだ。


夜22時頃に集合して現場に到着。教会の入口で寄付金という名目の入場料を支払って中に入ると、大掛かりな舞台が設営されててDJが数名、会場前方には音楽に酔いしれ踊ってるグループがあり、後方には踊らずに1グループあたり5〜15名ぐらいのイタリア人男女が輪になって座談会をやってるのが7〜8グループあったかな。


私たちも踊らずに曲を楽しみながら後ろで輪になって色んな話しをしてた。舞台から離れたところにできた複数の輪は、色んなヤツが入れ替わり、いつの間にか日本人は私一人になってた。


まあこんなイベントに来る様なぶっとんだ日本人にみんな興味があったんだろうな。色んなヤツと一所懸命慣れない言語で話してその日一日で相当鍛えられた気がする。最後に一緒の輪になってたヤツらは、今日初めてあったばかりなのに変な団結力と昔からの知り合いだった様な奇妙な友情みたいなのを感じていた。



第一位 トンネルレイブ




何回かローマ郊外で開催されるレイブには参加したんだけど、合法なのか非合法なのか今でもこのシステムがイマイチ分かってない。


まず、毎回開催場所が判明するのが当日の夕方。


今夜の場所の情報入った?
ジョルジオ
いや、まだ情報来ねーよ。。。



こんな感じ。聞いたところによると警察対策で主催者が戒厳令を敷き、直前に一部の人間にしかリークしないと…って事はやはり非合法なんやろな。


で、やっと開催場所の情報を手に入れたのは21時を過ぎていて早速2台に分かれて8人で現地に向かう。途中タカが運転する車とはぐれたり色々あって現場に到着して驚いたね。


田舎道とはいえ行政管理の県道を完全封鎖して、トンネルの両端を特殊な板で塞いで箱にしてたのよ。これがトンネルにスピーカー持ち込むとまあ音響効果がハンパない。この日が最も記憶に残った最高のレイブだった。実は細かく書こうと思えばこの日も色々あったんだけどそれは割愛しよう。


結局その後ロンドンやアムステルダムや東欧や北京など世界中のクラブにも足を運んだけど、この会場以上の箱には出会う事はなかった。まあこういう事ばかりやってたもんだから普通のクラブじゃ物足りない身体になっていた。



● ローマの遊び方 2



今思い起こせば、このメンバーとはレイブ以外にも色々あったね。


真夜中のサンタンジェロ城でかくれんぼをしたり、ムネの家にあるビデオを漁ってたら「ミナミの帝王」が出てきて、それを見たいというイタリア人にみんなで滅茶苦茶拙い同時通訳してあげたり。





「萬田はん、何いうてまんねん?」


「Signor Manda, ma che cazzo dici?」


まあ、今振り返ると幼稚園児レベルのイタリア語だったわ。


あとこれはローマならではの文化なんだろうけど、徹夜明けの早朝午前4時頃にみんなで有名な焼きたてコルネット(クロワッサン)を食いに行ったりもした。

ミラノだったら深夜に運河沿いでブリオッシュにジェラート挟んで食う文化があるし、東京なら深夜に環七ラーメン並ぶみたいなもんやな。


またある時は、雑談の中でパスタの話しになり「俺の作るカルボナーラが世界一美味い」っていうヤツが4人も現れ、そのまま4人でマルコの家の厨房を借りて料理対決をした事もあったね。因みにカルボナーラは代表的なローマ料理な。


全員で4人分のカルボナーラを試食した結果、調理した4人全員が「やっぱり俺のカルボナーラが一番だったな」って言ってたが、あんなにカルボナーラを大量に食べたのはあの時が最後だわ。





● 約束の地



まあ、そんなこんなで昼間は真面目に仕事しながら、時には意見が合わずぶつかり合いながらもいい歳こいて夜は超がつく程の馬鹿な事ばかりやってたような悪仲間だった。


そんなある夜・・・・


私たちは深夜のスペイン広場が好きだった。昼間あれだけ人ゴミでごったがえしていたこの広場には私たちの様な夜更かし組が1組居るか居ないかの時がある。シーンっと静まり返る広場。



いつもの様にみんなでスペイン階段に座って雑談してた時にふと私がこんな提案をしたんだ。


将来みんな何やるんだろうね。イタリアに留まるのか、日本に帰るのか、別の国に行くのか?
ノリコ
将来どうなってるのかお互い知りたいよね!
だったらさ、丁度"10年後の今日この時刻にこの場所"で集まろうぜ。



その約束の日に、互いにどんな職業でどんな重要な会議や商談があろうと仮に家族の葬式があろうと、絶対に、絶対にこの場所、つまりスペイン広場に来なければならない…っていう約束をした。



日本に居たらこんなクサい約束しちゃうような関係って社会人になってからできなかったと思う。慣れない異国の地だからこそ、また私たちの精神年齢が異常に低かったからこそ生まれた友情だったんじゃないかな。


しかし、そんないい感じの関係はそう長くは続かなかった。




● ミラノへの転勤、そして散り散りに




年が明けて3週間ほどが経った頃、突然俺はオーナーに呼ばれた。


オーナー
カネアキ、来週ミラノに転勤な。
マジっすか?!


えーっっ!来週ってあと4日しかないやん。。。その日から早速仕事の引き継ぎと、仕事関係者に挨拶を済ませ荷物を纏めて、そしてローマ最後の日。あんまり覚えてないがみんなと飯を食いに行ったと思う。


みんな別れを偲んでくれてるなか、相変わらず空気を読まないゴウだけは


ゴウ
カネ、ミラノに左遷 wwwww

って、喜んでた。 あの野郎。。。。。



その後グループの中心人物でもあり一番の問題児でもあるタカは賃上げ交渉が決裂して店のオーナーと揉めて仕事を辞め、元働いていた店から告発されて脱税容疑?で財務警察から追われる身となり住む場所を失い、仲間の家を転々と移り住んだ後、結局日本に帰国した。日本に持ち込んではいけないモノを身体に忍ばせて。


そしてジョルジオやファブリッツィオは受験とか就職活動が忙しくなりあまり顔を出さなくなった。


ゴウは仕事をクビになり、ゴウとマルコとミクはローマから姿を消して行方知れず、カズもタカを追う様に帰国、ノリコも「私、添乗員になってローマに戻ってくる」とか言って帰国したらしい。相変わらずコイツだけは何を考えてるかわからん。

ミラノに転勤する時は、いつでもスペイン広場に行きさえすれば絶対に誰かに会えるだろうと安易な考えだったから日本の連絡先もお互いに知らないままだった。


たまにミラノからローマ出張に行った際も、2年後に再びローマに戻ってきてからも、結局当時のメンバーで会えたのはまだローマに残っていたジョルジオとファブリッツィオとムネの3人だけで後の人達は噂でどうなったか聞けるだけになり完全音信不通となった。

そんな教訓からムネだけは連絡先を持っていたので、日本に帰った後6年程前に一度だけ会いに行った。



● そして10年後


そして時は経ち10年後、私は帰国してからずっと仕事がアホみたいに忙しく、あの時の約束はすっかり忘れ去られていた。でもある日曜の夜にテレビを見ていた時に画面にスペイン階段が映った。「イタリアかー。。。ローマいいねー。。。スペイン広場。。。。ん? あーー!!!


んぬぁあぁああああーーーー

ってなったね。


基本的にこの手の約束事は確実に守るタイプなんだが、今回ばかりは本気ですっかり忘れていたんだ。気付いたのは良いが時既に遅しで、その後誰とも連絡してないから、実際に覚えてて約束の刻に約束の地に行った奴が居たのか未だに謎。


まあイタリア人はロケーション的に問題はないだろうが、何しろ世界有数のいいかげんな人種だしな。


私以外の全員が行ったかも知れないし、もしかしたら全員すっぽかしてたかも知れない。なんせ日本人も含めて飽きれるくらいイタリア的にいいかげんな奴らだったし。


こうして自ら提案した約束を私は自ら破ってしまった。


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