生きづらいと感じているすべての人に宛てるインドからの手紙
私には大切な友達がいます。
みなさんにもいるでしょう、すべてをなげうってでも、助けなければならない人が。
その大切な友達が生きあぐんでいるときに、綴った手紙です。
I
インドにバラナシという町がある。
ガンガー(ガンジス河)のほとりにある、ヒンドゥー教(シヴァ派)最大の聖地で、毎年100万ともいう巡礼が、この町を目指してインド中、世界中からやってくる。
ガンガー沿いには80を越える、ガートと呼ばれる階段状の沐浴場があって、巡礼者は朝な夕なにガンガーに身を浸し、罪を清め、巡礼の喜びに打ち震える。
ダーシャシュワメート・ガートという最も賑わうガートのすぐ近くに、マニカルニカー・ガートと呼ばれる火葬場がある。
そう、ここは死者が集まる町でもあるのだ。
ここで焼かれるためにインド中、世界中から遺体が集まり、24時間365日火葬台から火が消えることはない。
死者だけでなく、不治の病に冒された死を待つだけの病人や、死期を感じた乞食が、最後の力を振り絞って、あらゆる手段を使ってこの町を目指してやってくる。
ここで焼かれ灰になって、母なるガンガーに抱かれてヒマラヤに帰るのがヒンドゥー教徒の夢なのだ。
シヴァ神の住まうという、チベットの聖山カイラスへ。
かつて日本政府が、まったくの善意からだと思うが、衛生状態を懸念してか、最新鋭の火葬台の設営を申し出たことがあるという。
呆れて言葉も出ない。
火葬場の側では、死を待つ乞食たちが、自分が死んだ時に焼いてもらうための薪代を集めるために、物乞いをし、祈りながら最期のときを待っている。
そして、彼らに施すことで、ひとつ罪滅ぼしができた、と心が軽くなる巡礼者がいる。
ここに祈りの本質がある。
薪代を集めることは、来たるべき最期の旅への支度であり、ひとつの儀式なのだ。
小銭のずっしりとした感触に、彼らは安堵し、平穏に最期のときを迎える心の準備がととのっていく。
物乞いと施しという人間臭いやりとりが、死を介することで、崇高な儀式へと昇華される。
インドの神々は、一介の乞食の今わの際さえ、あだや疎かにはなさらなかった。
たしかに薪では生焼けかもしれないが、薪で焼かれることに意味がある、否、薪でなければならないのだ。
そのプロセスに計り知れない叡智がある。
最新鋭の火葬台?死を生活から切り離し、囲い込み、追い詰めた愚かな日本人の考えそうなことである。
インド政府はおそらく、死を軽んずる傲岸で蒙昧な民族を半ば嘲笑し、半ば憤りつつ、丁重に断ったことだろう。
日本人はいつから死を、穢らわしいものとして、見て見ぬふりをするようになったのだろう。
灰を流す横では、人々は洗濯をし、子供たちが泳いでいる。
日常と非日常が隣り合っている。
否、ここでは死は生活の一部なのだ。
焼くことのできない幼児、妊婦、聖職者の遺体はそのまま流される。
何世紀も前から無数の死者を抱いて滔々と流れ続ける深い河。
ガンガーの聖なる流れの前では、人はみな平等、カーストさえも無力。
ここは神々が統べる聖なる大地インド、生と死が交わる町、バラナシ。
II
遺体を焼いた後、男性の場合、胸の骨だけ焼け残る。
なぜだと思う?
インドは今でも肉体労働中心の社会。
過酷な労働で強靭に鍛え上げられた心臓を支えるために、周りの骨が頑丈になったのだという。
これはひとりの男が、命を削って、生きるため、愛する家族を養うため、働き抜いた証だ。
ひとりの男が、紛れもなく最期まで戦い抜いた証。勲章。
名もなきひとりの男の生きざまが、その死に際し結晶化したのだ。
一方で、女性の場合、骨盤だけ焼け残る。
なぜか。
インドは多産な社会。
ひとりの女が、命を紡ぎだすために、先祖から連綿と受け継がれた血を未来へ繋ぐために、命を懸けた証。
新たな命の導き手として、この世に生をもたらした印。
女たちの、果てしなき戦いの墓標。
母が愛する息子のために、妻が愛する夫のために、泥水の中から、まるで手品のように真っ白なYシャツを洗いだすのを幾度となく見たものだ。
ひとりの人間の生きざまが、死してなお明らかになる。
子や孫は、父が、母が、祖父母が火葬台の上に残していった、愛の結晶を目の当たりにする。
親は骨となって、なお無言の愛を語り、子はそれをしかと胸に刻みまた明日からの人生を生きてゆく。
火葬台は、繰り返される命の証言台であった。
死は生を賭して人を導く人生最後の授業。
何世紀、何世代にもわたって繰り返されてきた愛の儀式。
III
インドには厳然とカーストが残っている。
日本で苗字を聞けば、武士か公家か、豪農か小作か、鍛冶か漁師か、出自が分かってしまうように、名前を聞けば出身カーストが分かってしまう。
とはいえ批判されがちなカーストであるが、その実は、カーストの中で自分の分を守っている限り、生活を保障される相互扶助システムであった。
話は逸れるが、ヒンドゥー教は牛をシヴァ神の乗り物である聖なる動物であるとして、これを殺し食すことを禁忌としている。
これは人口稠密のインドにおいては極めて理にかなっている。
牛を食べずに生かしておく方が、より多くの人間を生かすことができるのだ。
というのも一頭の牛を肉として食べてしまえばそれで終わりだが、生かしておけば、乳をとることで多くの人間に長期的に栄養を供給することができ、また牛耕に利用することで生産性が飛躍的に向上するうえ、牛糞は燃料として利用することができる。
他方、イスラム教が豚を不浄として、飼育することさえ禁じているのは、豚を飼育していると人間が豚に食い殺されてしまうからだ。
豚は牧草を消化できないため、人間と穀物において競合 関係にある(もちろん搾乳・耕作には不適)。
このように宗教には優れて合理的で科学的な側面がある。
カーストはヒンドゥー教と密接に結びついた制度である。
たしかに職業選択や婚姻にかんして自由はないが、牛の話同様、人間を生かしておくのには極めて合理的なシステムであった。
靴屋の息子は靴屋にしかなれない。しかしながら、村に一軒しかない靴屋は、他との競合の心配なく、村人全員の靴をまかない続けている限り、その一族は確かに未来永劫に亘ってその生存を保障される。はずだった。
ところが近代に入り産業革命を経て、工場による大量生産の靴が登場するにいたり、村の靴屋は職を失った。
熟練職人であった靴屋は、単純労働者として都市になだれ込む。
屋根のある仕事に就ければまだいいが、人の足元を扱ってきた靴屋が就ける仕事はなく、やむなくリキシャーワーラー(自転車の人力 車)として炎天下のなか、客を乗せて自転車を漕ぐほかない。
インドでは今でも簡単にカーストの存在を肌で感じることができる。
食堂に行くと無駄に従業員の数が多いが、まったく動いていないものもまた多い。
彼らに、フォークを持ってきてほしいとお願いしても、たとえそれが彼の目の前にあっても、絶対に持って来ず、待ってろ、と言って別の従業員に持って来させる。
なぜなら、彼は人が食べる前の食器に触れることができないのだ。
床を掃く者が食器を洗ってはいけないし、逆もまた然りなのである。
ひとりでできる仕事を10人で分担する。従って給料も10分の1になる。
これがカーストが批判される所以。
IV
インドでは異常にリキシャーワーラーの数が多い。
彼らのほとんどは田舎から出てきた出稼ぎである。
大都市に出てきてはみたものの仕事はなく、やむなくリキシャーワーラーとなる。
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