挫折した映画青年と、社会から疎外された少女の、再生の物語

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10年前の大学生の当時、僕は何をやってもダメだった。


僕は自分自身に絶望していた。




何をやってもうまくいっていた高校時代。「自分は凡人ではない」と証明する高校の日々から、大学は「自分は凡人に過ぎない」と確認する作業の連続だった。


何をしてもうまくいかない。そのたびに自分の無能さを痛感しなくてはならない。


僕は行動するのが怖くなった。人と話すのが怖くなった。


大学の授業にもロクに出ず、毎日家とバイト先であるコンビニをただひたすら往復していた。


マニュアルで決められた言葉しか喋らなくてよかったコンビニのバイトは心地よかった。




あの頃、僕は間違いなく人生のどん底にいた。








僕は映画好きの両親の影響もあって、物心ついた時から将来映画監督になろうと決めていた。決めていたというよりも、僕には他の選択肢が思い浮かばなかった。小学生の頃からビデオカメラを手に取り、家族で旅行に行けばそれを撮って編集したりしていたし、中学生の頃はデジカメのムービー機能を使って友達と1分程度のショートムービーをいくつも制作していた。高校では自ら映画研究部を設立し、部員ゼロの状態から瞬く間に10人以上の仲間を集め、一般の人間に混じって映画祭に作品を出品。高校生ながら出品すれば必ず賞を受賞していた。


高校では僕のことを知らない人間はおらず、周りも「あぁ、あの結城って人、将来映画監督になるんでしょ」という認識だった。僕も当然そうなるものだと思っていた。日本でトップの映画監督になることは当たり前すぎて考えにも及ばず、「どの段階でハリウッドに渡ろうか」。そんなことを考えていた。


高校での勉強はというと、大学は日本大学藝術学部の映画学科に進学するつもりでいたため、入試科目である英語と国語は偏差値60オーバーであった。勉強時間は進学に必要最低限しか割きたくなかったため、他は赤点ギリギリという状態。ただ日藝に合格するのはほぼ間違いなかったので問題はなく、万が一落ちたとしてもバイトをしながら浪人するつもりだった。








日藝の入試は僕なりには完璧だった。


・・・だが結果として落ちた。


日藝の不合格通知が来たところで両親からこう告げられた。


「今うちでやってる事業がこの先どうなるか分からない。すまないがどの大学でもいいから現役で入って、家から通ってくれないか?」


うちの父親は自営業をやっており、それまではかなり裕福な生活をしていた。当時僕は関西に住んでいたのだけれども、予定では日藝に行って一人暮らしをするはずだった。だがここにきて父親の事業の雲行きが怪しくなってきたのだ。


高校時代はロクに勉強もせず、ずっと映画に熱中してワガママ三昧した身だ。これ以上親に迷惑はかけられない。親の言葉に従った。


だが僕は日藝に向けて2教科しか勉強しておらず、2教科だけで受験できる大学など限られていた。その上に日藝の不合格通知が来たあとからでも出願できるような大学など本当にごく一部。


結果として僕は家から片道2時間もかかるFランク大学の文学部に通うことになった。




意外なことに僕は落ち込んではいなかった。確かに当初の志望校に通うことは叶わなかったが、別に映画を作るのはどの大学でもできる。僕には一度ゼロから映画研究部を作り上げたノウハウがある。それに片道2時間かかる通学の時間も、映画に関係する本を読めばいい。


大学の映画研究サークルに鳴り物入りで入会すると、1年生ながらすぐに僕が監督で短い作品を一本作ることになった。


高校の時と同じようにスタッフに指示を出し、役者に演技をつけていく。高校の時と同じやり方だ。何も問題はない。


初めてのメンバーで撮るということもあり、僕はワンカットごと仕上がりを細かく確認していった。だがやはり初めて組むスタッフということもあり微妙に求める画とは違うものが上がってきた。「これが高校の時の撮影担当の岸本だったら、『あそこから撮っといて』って言うだけで完璧な画が上がってくるんだけどな・・・」などと考えながらも、粘り強く演出をしていった。


だが初日はついに1つもOKカットが出ることなく終わってしまった。


当初の予定であればこの作品は一週間程度で撮影が終わるはずだったが結局一ヶ月近くかかってしまった。編集をしてみれば出来上がりの作品はガタガタそのもの。とても人に見せられるレベルのものにはならなかった。


すべてが終わったあと、スタッフの一人である先輩から言われた。「お前の指示は、分かるようで分からん。」


「(僕の指示がわからないだって? 分かってないのはそっちだろ)」


僕はこのサークルに見切りをつけた。レベルの高すぎる僕の指示は、彼らにとっては難解過ぎたのだ。


僕は別の大学の映画研究サークルに入ることにした。




別のサークルで同じような演出方法用いるものの、ここでもやはりどうにも出来のいいものが仕上がってこない。そして撮影が全て終わる頃にこう言われた。


「お前の指示は結局具体的にどうすればいいのかというのが分からないんだよ」。


「(・・・だからどうすればいいか分かってないのはお前らだろ)」


僕はまた別のチームで映画を撮ろうとした。


だがやはり結果は同じだった。


「なんで俺の言ってることが分かんないんだよ! 俺の言ってるとおりに撮ればいいだけじゃねぇか!」


「だったらお前がカメラやってみろよ!」


僕は怒りながら撮影担当からカメラを奪いとった。


そして構えた。


その時に気づいた。




撮れない。


なにをどう撮っていいか、分からない。


漠然としたイメージはあるはずなのに、カメラをどこに向けていいか分からない。


いや、ここに向ければ思い通りの画が撮れるはずなのに、そこに向けても空虚な画しか映らないのだ。






その時気づいた。


僕は空っぽだ。


僕は、自分で映画を作ったことがない。


人に指示を出すだけで、結局自分は何も作り出してなかった。


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