言語のクラスにおいて自己表現は必要か
1.私にとって「言語のクラス」とは何か
先日(2014/4/5)、「言語教育と実践を考える会」が主催する第6回授業勉強会に参加した。今回の勉強会のテーマは、「言語のクラスにおいて自己表現って必要?」であった。以下、私が勉強会での議論をとおし、「言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」という問いに関し、考えたことを記述してみたい。
「言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」を議論するためには、その前提として「言語のクラス」を定義する必要がある。一つの例として、「言語のクラス」を「第二言語を習得するための場」と定義してみよう。すると、問いは次のように書き換えられる。
第二言語を習得するための場において自己表現は必要か否か。
上記のように問いを書き換えることによって、「第二言語を習得する」という目的に即し、自己表現の必要性を議論することが可能になる。自己表現が当該の第二言語の習得を促すということであれば、当然、自己表現は必要であるということになる。逆に自己表現が当該の第二言語の習得を促さないということであれば自己表現は特に必要ないということになる。このように考えると、第二言語を習得するためのクラスにおける自己表現の必要性を議論するためには、その前提として「クラスにおいて学習者が自己表現を行うことは当該の第二言語の習得を促すか否か」あるいは「どのような自己表現が当該の第二言語の習得を促すか」を議論する必要があることがわかる。また、それらの議論は、第二言語習得研究における自己表現と習得の関係に関する先行研究を参照しつつ、行われるべきであろう。
また別の例として、「言語のクラス」を「言語活動を行う場」と定義してみよう。すると、問いは次のように書き換えられる。
言語活動を行う場において自己表現は必要か否か。
実はこの問いはあまり意味をなさない問いである。なぜなら、(自己表現をどう定義するかはとりあえず脇に置くとしても)自己表現を全く伴わない言語活動は想定しにくいからである。言語活動が必然的に自己表現を伴う活動であるとすれば、「必要か否か」という問い自体が成立し得ない。もし問いを立てるとすれば、「どのような自己表現が言語活動を活性化させるか」といった言語活動における自己表現の位置づけを問うような問いになるであろうし、このような問いに基づく議論は必要であろう。
以上のように、「自己表現は必要か否か」という問いは、「言語のクラス」をどのように定義するかによって、全く質の異なる議論へと展開する。そして、「言語のクラス」の定義には、「何のためにどのようなクラスを創りたいか」という実践者の言語教育観が反映される。(あるいは、言語教育観そのものと言ってもよい。)そして、言語教育観が実践者により異なる以上、「言語のクラス」の定義もまた実践者により異なり、一般的な定義は存在しない。このように考えると、「言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」という問いは、本来、次のように問われるべきであろう。
私の言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か。
「私の言語のクラス」がどのようなクラスであるかが説明されれば、そのようなクラスにおいて、自己表現は必要か否か、あるいは、どのような自己表現が必要かを議論することは可能であろう。しかし、言語教育実践が実践者の言語教育観に基づいて行われる営みである以上、「一般的に」言語のクラスにおいて自己表現は必要か否かを議論することはできない。
2.私にとって「自己表現」とは何か
さて、勉強会では、「言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」という問いそのものに関する議論とは別に、「自己表現をどう捉えるか」という興味深い議論があった。そこで次に、議論をとおし、私が「自己表現」に関し考えたことを記述してみたい。なお、「自己表現」に関しては、様々な学術的な定義があるはずだが、ここではあえてそういった定義を参照することなく、つらつらと私の考えを綴ってみたい。
「言語のクラス」における「自己表現」とは、ごく簡単に考えれば、「当該のクラスで使用されている言語で自分のことを語ったり、書いたりする」ということであろう。だが、この「自分のこと」に対するイメージが人により異なるようである。例えば、ある人は「自分のこと」を自分の内面のようにイメージしていた。
私にとって「自分のこと」とは、自分の内面ではない。そもそも私は一貫性のある自分の内面が存在し、その内面こそが自分であるという考えを採らない。
かの、みうらじゅん先生も自分の内面=「自分」がないということを次のように明確に述べている。
“自分”、というものはそもそもありません。今、たまたま自分と思い込んでいる脳の作用の一種です。苦しみや、痛みや、悲しみが自分に押し寄せてくるように思いますが、それは脳による防衛本能であって、決して自分など単体では存在しないのです。環境や他人との関わりによって人間は構成されています。(みうらじゅん『さよなら私』 より)
自分の内面=「自分」が存在しない以上、「自分のことを語ったり、書いたりする」とは、最初から一貫性のある自分の内面=「自分」があって、それをことばにより忠実に再現する行為ではない。
私は、「自分」をことばによるやりとりをとおし、事後的、かつ刹那的に構成されるイメージであると理解している。したがって、私にとって「自分のことを語ったり、書いたりする」とは、「自分」というイメージを構成する行為である。
さて、「自分のことを語ったり、書いたりする」が自分というイメージを構成する行為であるとすると、そこで「語ったり、書いたり」される「自分のこと」とは、どのような内容であろうか。私は、「自分のこと」とは、「私が周囲のヒト/モノ/コトと関わった過程」であると考えている。
一例を挙げる。「アメトーーク!」というテレビ番組がある。この番組に共通点を持った芸人を集めてトークを展開する「くくりトーク」というシステムがある。「くくりトーク」では、「家電」や「ガンダム」といったある共通の興味・関心を持った芸人を集め、トークが行われることも多い。そこで語られる内容は、「家電」や「ガンダム」そのものに関する情報ではなく、各芸人がいかに「家電」や「ガンダム」と関わってきたか/いるかである。「家電」や「ガンダム」といった興味・関心の対象としてあまり一般的ではないモノと私との関わりに関する悲喜こもごものエピソードが自虐的に語られる。おそらく出演している芸人同士は、お互いの語りややりとりをとおし、お互いのイメージを構成している。また、ここで展開されるトークは、視聴者が特に「家電」や「ガンダム」に関する知識を持っていなくても楽しめる。(そうでなければ、多くの視聴者から指示を得ることはできない。)おそらく視聴者は、各芸人の語りや芸人間のやりとりをとおし、各芸人のイメージを構成することにより、芸人個人の個性や面白さを発見できるという点に楽しさを見出している。
以上をまとめると、私にとって自己表現とは、「私が周囲の人/モノ/コトと関わった過程」をお互いに「語ったり、書いたり」することにより、お互いにとっての自分のイメージを構成する行為である。そして、実はこれはそのまま人間関係を構築するということにほかならない。
3.私にとって「言語のクラス」における「自己表現」とは何か
これまでの議論を踏まえ、「言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」に関し、私の考えを述べる。
私は「言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」という問いを次のように問い直したい。
私の言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か。
なぜなら、言語教育観が実践者により異なる以上、「言語のクラス」の定義もまた実践者により異なり、一般的な定義は存在しないと考えるからである。私は「私の言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」を論じることはできる。しかし、「一般的に言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」を論じることはできない。
「私の言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」を問うためには、「私の言語のクラス」と「自己表現」を定義する必要がある。(当然ながら、この定義にも実践者の言語教育観が反映される。)
私は「私の言語のクラス」を次のように定義する。
参加者がある言語を媒介に何らかの活動をともに行う場
また、私は「自己表現」を次のように定義する。
「私が周囲のヒト/モノ/コトと関わった過程」をお互いに「語ったり、書いたり」することにより、お互いにとっての自分のイメージを構成する行為
以上をまとめると、「私の言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」という問いは、次のように書き換えられる。
「参加者がある言語を媒介に何らかの活動をともに行う場」において、「「私が周囲のヒト/モノ/コトと関わった過程」をお互いに「語ったり、書いたり」することにより、お互いにとっての「自分」のイメージを構成する行為」は必要か否か。
実はこの問いはあまり意味をなさない。なぜなら、「クラスへの参加者がある言語を媒介に何らかの活動をともに行う場」において、参加者は、必然的に「自己表現」をとおし、他の参加者との間に関係を構築しようとするからである。要は、よく知らない相手と一緒に何かをするのは難しいので、お互いに「自己表現」することにより、お互いを知ろうとするということである。同時に「自己表現」をとおし、当該の場における自身のイメージ(キャラと言ってもいいかもしれない)も形成されていく。
このように考えると、「必要か否か」という問いは、私とってあまり有効ではないかもしれない。私にとっては、当該の場で「自己表現」が行われることを前提として、「活動をともに行う場をどのようにデザインするか」を問うことが重要になる。
以上、「言語のクラスにおいて自己表現は必要か否か」に関し、考えてきた。この問いに限らず、教育実践に関し、議論する際、「私の」という観点を外して議論することは実はあまり有効ではないように思う。一見遠回りのようであっても、普遍的で万能な教育実践を探ろうとするのではなく、お互いに「私の」という観点でお互いの教育実践を語り合う。それを積み重ねることで結果的にお互いの教育実践が豊かになっていく。
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