【襟裳の森の物語】第十夜

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〔声のカルテ〕

 新年度が始まった。私が音楽の時間にまずしたことは,子どもたち全員が校歌をしっかりと歌うことができるようにすることだった。

 子どもたちには校歌というものが特別な存在であり,この学校に所属したものでなければ歌うことが難しいこと,校歌の中には音楽的に難しい部分があり,これに挑戦することなくして歌の上達ははかることが難しいこと,NHKの番組に応募して,自分たちが校歌を歌うところをテレビ放映してもらうつもりでいることなどを伝えた。子どもたちは校歌への取り組み方をすぐに改め,素敵な歌声を響かせてくれた。指導者の気持で,子どもの歌声はこんなに変わるのだという好例だった。

 次に私が取り組んだのは〔声のカルテづくり〕だった。この提案が私からされた時,担任の先生方も子どもたちも,何をするのか,それにどのような意味・意義があるのかを理解することができなかった。


平均でない,現場に則した指導のために

 教科書には,平均的な子どもたちが歌うことの可能な音域で歌唱曲が設定されている。しかしそれはあくまでも“平均的”なものであり,子どもたち全員が歌唱可能かどうかは分からない。子どもたちの実態に則した指導を行うには,この部分に工夫が必要だった。

 どうすればよいのかというと,子ども一人ひとりの音域を把握し,楽曲によっては歌う部分を限定したり,逆に大きな声で歌わせて不足部分を補わせたりするのだ。その情報を正確に得るために必要なのが〔声のカルテ〕というわけである。

 しかしこれは,多くの時間を要する作業だ。学級担任を持っていれば,カルテ作成の時間は生み出せない。国語や社会,算数の指導計画を作り,理科の実験や図工の事前制作などに時間を割くことを余儀なくされる学級担任には,時間がないのだ。学級担任を持っている時に〔声のカルテ〕を発案した私も,発案当時は実践することができなかった。

 音楽専科になった私が〔声のカルテ〕を作り始めたのは,以上の経緯から当然のことだった。では実際には,どのような項目があったのか。


〔声のカルテ〕の実際

 まず一つ目は,音域の記入である。これは子どもたちが発声可能な音域に加えて,楽に出すことのできる音域=魅力的に響かせることのできる音域の記入も行った。

 二つ目は,好きな曲の記入だ。ジャンルの違いにより,歌い手の発音方法は異なる。近頃のJ-POPがお気に入りの子どもが,合唱にふさわしい発音をしているわけがないし,ジャズがお気に入りの子どもは,比較的低めの音程で歌おうとする傾向がある。この情報も重要だ。

 三つ目は,こちらからの情報提供として,声部の分け方の参考例を載せた。例えばソプラノは音域が高音部だというだけではなく,オペラでは女性の主役を演じることが多く,アルトは音域が低くて魔法使いの役を演じたりする,というように。構成上,女声と男声に分類してはあるが,役割によっては男女が逆転する場合もあるということも掲載した。合唱の世界ではよく,〔女声は性別ではなく頭声の表現,男声は胸声の表現〕と言われている。


 子どもたちに白紙のカルテを渡した時,

「カルテの内容は,どんどん変わっていくものです。ですから必ず,記入日を書いてください」

と指示した。そして氏名と記入日,好きな曲を記入できた子から,ピアノの前に来てもらい,実際に音域を確かめていった。

 これは時間を要した。一時間そればかりやるわけにはいかないから,音楽の授業の残り時間で音域調査を行っていった。家庭訪問期間は私の空き時間になるので,放課後に残ってもいい子は,カルテづくりをしたりもした。カルテ完成には二ヶ月を要した。


(つづく)

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