4年目の3.11に想う、僕が予備自衛官を志すまで

3.11に想う


まるで船上にいるような、ゆったりと長く、奇妙な揺れだった。

大学3年も終わりに近づき、ひたすら家賃の安い家に引っ越そうと決意し、近所の不動産会社に敷金の交渉をしに行った時の事だった。


「東北で震度7らしいです。」不動産の受付の女性が、パソコン画面を見つめながらつぶやく。2011年3月11日、14時46分。奇妙な横揺れが僕の住む町を揺らした。


幸い僕の住む街の震度は4程度で、たいした被害も無く、「たまにある、大きめの地震だろう。」その程度の楽観的な気持ちで僕は自宅へと戻りテレビをつけるとそこで驚愕の光景を目にする。


テレビは大津波警報が出され、壊滅的な状態の東北の情報が飛び込んできた。一瞬、目を疑った。


そして僕はただちに、仲の良かった東京の友人に連絡をとった。なんとか連絡が繋がり、状況を聞いていると、東京も地震でパニックになっているようで、ロビーを解放してくれたビジネルホテルホテルの中で暖をとっているようだった。コンビニの食べ物という食べ物も全て、売り切れになっていたようだった。


交通インフラも壊滅的で、復旧を待つ以外に選択肢は無く、テレビから流れてくる報道を信じ、友人には「原発もやばいらしいから、三島に帰ってきた方がいいよ」そう伝える事しかできなかった。


緊張のまま数日が経過し、在来線もなんとか復旧し、友人が街に帰ってきた。

街はまるでゴーストタウンと化していて、車の通りも全くなく、近所から人っ子一人の声もしない。


僕は途端に怖くなり、仲のいい友人2人を家に呼び寄せて3日ほど、一緒に暮らす事にした。


生活サイクルはいたって単純で、夜を恐れていた僕は、深夜から朝にかけて3人で共に過ごし、辺りが明るくなるとそれぞれの自宅に戻り、風呂に入り、食事を済ませ、辺りが暗くなると僕の家に集まって過ごす、という生活を繰り返した。


この期間中、テレビは常にオンの状態にしていて、僕たちはせわしなく入ってくる新たな情報に注意しながら、ひたすら部屋でおとなしくしていた。


NHKのライブカメラが福島第一原発の様子を常に映していた。

しばらく凝視していると、原発の建物の上部が、爆発のようなもので吹き飛ぶ様子が放映された。


「今のみた?やばくね?」友達と目を見合わせた。

その時は、水蒸気爆発という説明だったが、素人からしたら原発が爆発したと解釈しても仕方のないような映像だった。


いよいよ鳥肌が立ってきた。

町は相変わらず車の通りも無く、計画停電で信号も止まり、車もお互いに気を使いながら走行しなければならなかった。テレビを見ると、信号が機能しない為に、交通事故が発生し、死者もでたようだった。


コンビニは店頭の明かりを消して営業を続けていた。

こんな時にカップラーメンが役に立って、しきりにコンビニに通う日々が続いた。レジ近くの募金箱には、尋常では無い数のお札が詰め込まれていた。僕や友人も、3000円ほど突っ込んだ。用途は未だ知らない。


東北と比べると震度はまったく、大きくなかったが、間接的に日本がただならぬ雰囲気になっている事だけは感じた。


当然、静岡県も計画停電の範囲内に入り、僕が昼間にシャワーを浴びているといきなりお湯が水に変わった事もあった。身をもって体験したので、今でもこれだけは覚えている。


夜になると、計画停電が行われている場所がくっきりわかるほど、光が分断されていた。


水や食料を買いに、沼津のドンキホーテに向かうが、駐車場は車で満杯になっていて、食べ物という食べ物は買い尽くされていた。結局、何も買わずに帰った。



余震が続く中、3月15日、震度5の地震が静岡を襲った。

東北の地震に連動して起こった事は明白で、アプリの震源地マップを見た時には富士山が震源地近くということと、震源が周辺に集まっている事に対して、驚愕した記憶がある。


不謹慎という言葉もよく使われるようになり、巷には自粛ムードが漂った。屋内で気を紛らわせる為にゲームをする事すら、不謹慎なんじゃないか?と思うほど、僕の気分は落ちていた。


震災から3ヶ月たち、地元NPO主催で、宮城の学生に勉強を教えるボランティアに20名ほどで参加する事になった。バスで東北まで向かった。


当然の事だが、震災以降、学校も機能しなくなり、授業を行うことが難しい状況だった。


そんな学生達に勉強を教えることが、僕たちのミッションだった。

宮城県の石巻市に入ると、そこには津波の影響で壊滅的な街の光景が広がっていた。

(写真は載せません)


屋根の上に死んだ魚が乗り、道路には津波に運ばれた砂が散らばる。

ずれた道路。目だけではわからない、強く腐敗した匂い。まるまると太ったハエの大群。避難生活を続ける人々の苦痛をはまったく想像できなかった。


当初は子供達に勉強を教えるはずだったが、肝心の子供たちにまったく落ち着きが無く、計画を変更して、グラウンドでの遊びに切り替えた。少しバイオレンスな印象も受けたが、相当なストレスが溜まっていたのだと回想する。


もちろん、全力で一緒に遊んだ。

強行スケジュールであったが、市街地をバスで通る事もあった。

ところどころ、迷彩服をきた集団がひたすら、がれきの除去を行っていた。

そう、陸上自衛隊である。


自衛隊のミッションには、災害派遣というワードもある。

日本で、唯一衣食住を自己完結できる組織が、自衛隊であった。


東北に親戚はまったくいないけれど、いてもたってもいられなくなり、何か自分にできることはないだろうかと参加した東北のボランティアだったが、強い無力感に苛まれた矢先に、自衛隊の瓦礫除去作業を目の当たりにしたのだった。


銃を人に向けることは死んでもしたくないが、災害派遣部隊としてがれきの除去や、お風呂の設営、野外炊飯などで直接的に支援可能な組織に僕は強い憧れを持った。


大学4年で進路に迷った僕は、自衛隊への就職を視野に入れ、自衛隊を受験した。結局はその道に進まなかったが、民間で働きながら、緊急事態の際に国から招集される「予備自衛官制度」がある事を知った。


幸い、「予備自衛官」の受験には合格していて、晴れて僕は予備自衛官の訓練生である「予備自衛官補」になる事が出来たのだった。


その後、横須賀の自衛隊基地で3ヶ月もの教育訓練を受け、僕は晴れて予備自衛官になった。民間人として普段は働きながら、国家の非常時には招集がかかるシステムである。年に5日間は、最寄りの基地に出頭して訓練を受ける義務がある。


日本は地震大国であるし、世界的な周期でみても、生きていれば大災害は必ず起こりうるし。僕が予備自衛官であり続けることは、その時に僕はただテレビを眺めている事しかできなかったあの日の自分を繰り返さないための、意思表示だった。


きっと究極の形、人間は一人だけでは生きていけないし、いざとなっては手を取り合い、助け合う事ができる生き物が人間だと思っている。


震災から4年。僕は、僕の大切な人たちと、何より自分の命を守る為に、あの出来事を教訓にして、日々過ごす必要がある。いつか来るその日の為に。


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