やりたいことがない若者は、田舎へ行こう!

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 そして、通信制で学び始めて2年目の終わりに、その日は突然やってきたのだった。








 その日以来、僕の体はいうことを聞かなくなった。


 平日は、何とか仕事には行くものの、めまいと手足のしびれに襲われ、起きているのがやっと。

 夜は布団に倒れ込む。子どもにどんな指導をしたか、どんな関わりをしたかなんて、全く覚えていられない状態。


 週末は、起き上がることさえできず、ただひたすら寝ている日々。


 そんな毎日が2週間程続いたある日、当時の彼女(今の妻)から、「うつ病だと思うから、病院に行こう」と言われ、精神科に行くことになった。


 彼女の見立て通り、医師の診断も「うつ病」だった。


 処方された薬を飲む日々が始まった。


 薬を飲むと、少しは楽になったような気がするが、それは本当に緩和される程度、ほんのちょっと「よくなった気がする」だけだった。

 

 実際にはよくなってなどおらず、相変わらずのめまいと手足のしびれ。フラフラしながら学校と塾に通い、週末は寝るだけの日々が続いた。


 大好きだった本も読めなくなり、ただ、生きているのがやっとの状態が3ヶ月ほど続いた。





 そんなある日。


 「この病気は一体何なんだろう?」


 「このままの状態が続くんだろうか?」


 「そんなのは嫌だ」


 「どうしたらこの状態を抜け出せるんだろう?」


 そんな風に自問自答している自分がいた。




 その日は、奇跡的に体調がよかったのかもしれない。

 体調が悪いときは、こんな問いすらも立てることはできなかったのだから。


 その時出てきた答えが、「これは『教師にはなるな』ってメッセージなんじゃないか」というものだった。


 当時、『未来を拓く君たちへ』(田坂広志著)や『啓発録』(橋本左内著)などの本を読み、志を立てることの大切さは実感していたので、「自分が生きることで社会を少しでもよりよくしよう」とだけは考えていた。そして、そのための手段が「教師になること」だった。


 しかし、どうやら教師は自分には向いていないらしいことに気が付いた。


 であるならば、やるべきことはただ一つ。


 別の手段を選択すること。


 そう気付けた。




 「教師になることをやめればいいんだ」


 そう思えたら心がふっと軽くなった気がした。



 そして、その日まで、3ヶ月間飲み続けた薬を、「やめてみよう」と思えた。


 翌日から、早速薬をやめてみた。


 怖かった。「勝手に薬をやめていいんだろうか?」と不安にもなった。


 しかし、体は前日までに比べて、めまいも、手足のしびれもひどくない。視界も、それまでは膜がかかったようにぼやっとしていたのだが、それに比べたらよっぽどクリアになっていた。


 その週末は、それまで毎週のように寝たきりの2日間を過ごしていたのに、久しぶりに、布団から出て、普通に生活することができた。

 普通の生活のありがたさ、起き上がれることの喜びを実感した。


 そして今度は、「これまでは、社会をよりよくするために、教師になろうと思っていた。でも、どうやら教師は肌に合わないらしい。じゃあどうしようか?」という問いを自分自身に投げかけてみた。


 そうしたら、出てきた答えが、「食の自給率・地球環境問題を解決するために、田舎に行く」だった。


 田舎に行って、ローカルなエリアで自給自足で生活できる仕組みを作ることができれば、食の自給率の問題も、地球環境問題も解決されると、単純な僕は心底そう思ったのだ。


 早速、インターネットを使って、移住先を探し始めた。




 「田舎に行くことで、地球が抱える問題を解決したい」という想いから始まった移住先探し。

 「どこかに行きたい」という想いは全くなかったので、「田舎 移住」「田舎 住人募集」などのキーワードで移住先を調べてみた。「人を求めている土地に行きたい」と思ったのだ。


 今では「地域おこし協力隊」などもできてきて、「まちおこしのためにこんな人に来て欲しい」と自治体自らが発信するような仕組みが整ってきている。

 しかし、当時はまだそんな事例は多くなく、出てくるのは、家の情報、暮らしの情報ばかり。


 そんな中、たまたま見つけたのが、「地域おこし協力隊」のモデルとなった、「緑のふるさと協力隊」という事業だった。


 「緑のふるさと協力隊」は、「青年海外協力隊」の国内版、とでも言うべきもので、NPO法人地球緑化センター(以下、緑化センター)が、平成6年から実施している、「田舎に行きたい」若者を、「若者に来て欲しい」自治体に派遣する事業だ。若者は、月5万円の生活費と住居を提供してもらい、地域での様々な活動のお手伝いをする。(水道光熱費は役場持ち、活動に必要な備品も役場に用意してもらえる)お手伝いをしたお礼に、食材や食事などを提供してもらうという、いわば、物々交換をしながらボランティアをする仕組みだ。


 たまたま、この事業を見つけた僕は、はじめのうちは、「こんなものもあるんだなぁ」「でも自分には関係ない」と思っていた。

 しかし、だんだんと移住先が見つからないことがわかってきて、「1年目はボランティアで地域に根付いて、2年目以降、その地域の方とのご縁で、その地域、あるいは縁ある地域に住めた方が、その後につながるからいいんじゃないか」と思うようになっていった。


 そして、ついに10月、参加を決意し、申し込みをすることにした。


 書類選考、面接を経て、12月末には無事、4月から派遣されることが決まった。

 当時はまだ、自分がどこに派遣されるのか、まったくわかっていなかった。ただひたすら、ワクワク感に浸っていた。




 年が明けて1月。


 緑化センターから送られてきた「派遣先候補地一覧」に、「新潟県・粟島浦村」の文字を見つけた。

 僕は、「不思議な名前だなぁ」「人口350人の村なんてあるの!?」と驚いた。


 早速、インターネットで調べると、新潟県の北端・村上市の沖合20km程のところに浮かぶ島・粟島浦村は日本で4番目に人口の少ない村で、漁業と観光の島だが、農業も家庭用とはいえちゃんとやっていることがわかった。

 小豆と大豆も自給していて、あんこや味噌を自前で作っているということ。ジャガイモはおいしいことなどが書かれており、お米こそ自給していないが、「食料自給率」の問題から「田舎へ行こう」と思った僕にとっては、悪くないところだと思えた。


 また、その時、特に目を引いたのが、「対岸の村上市と合併の話があったが、粟島浦村が村長交代により協議離脱、自立の道を歩むと表明した」という一文だった。


 当時は、平成の大合併でかなりの自治体が合併の選択をした後だったので、住民が、「合併しない」「自立の道を行く」と決めた村であれば、たとえ人口が350人であっても、熱い人たちが生活しているのではないかと思った。


「どうせ行くなら、とことん田舎へ」という思いもあったと思う。

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