やりたいことがない若者は、田舎へ行こう!
また、かつて、博多にいた頃には島を訪れる旅が大好きだった。
船から降りて、島に上陸した際の、「異国」に来た感覚、異文化に触れる感覚が好きだったことを思い出していた。
そんなこともあり、派遣先の第一希望に、僕は「粟島浦村」と記入した。
1ヶ月後、無事に粟島に派遣されることに決まった。
粟島に派遣されるまでは、「どんな匂いがするんだろう?」「どんな音がするんだろう?」とまだ見ぬ新天地を想い、ワクワクしっぱなしだった。
4月になり、同期45名との1週間の事前研修を受けた後、粟島に向けて出発した。
新幹線で新潟駅へ行き、特急に乗り換えて1時間で村上駅へ。
さらに、村上駅からタクシーで20分ほどのところにある岩船港に到着。
岩船港から35km、高速船で55分、フェリーだと1時間30分のところに、粟島は浮かぶ。
フェリー乗り場に着き、「ここが島の玄関口か~」と思いながら、待合室の戸を開け、まだ乗船1時間前なのに、既に集まっていた10名くらいの人たちに、「こんにちは。今日からお世話になります協力隊です」と挨拶をしたら、「お~! 待っていたよ!」と、恰幅のいい男性から声をかけられた。
アイヌ民族のような、立派な体躯と穏やかな表情をされたその男性こそ、今回、新潟で初めて、漁村で初めて、離島で初めて、協力隊の受け入れを決めた村長だった。
村長は、挨拶を終えたら、待合室の中にいる島民の方々を一人ずつ、順番に紹介してくださった。
一人ひとり、すごく丁寧に。
みなさん、「よく来てくれたねー」と嬉しそうに対応してくださり、これから始まる島での暮らしを思い浮かべ、ワクワクが止まらなかった。
「粟島に派遣されることになってよかった」と改めて思った。
そして、16時ちょうど。
高速船は粟島に向けて出港した。
協力隊は、派遣期間中、一度の帰省休暇と中間研修以外は、基本的に派遣先から出ない、というルールがある。
そのため、僕は「次に本土の大地を踏みしめるのはいつ になるのだろう?」と、ちょっとだけ不安に思った。
16時55分、無事に船が粟島、内浦港に到着。
人口350人、日本で4番目に小さな村のイメージと比べると、漁村で家が密集しているためか、そこまで寂しさをは感じない。
船から降りると、役場の担当の利浩さんと準さんがお迎えに来てくださっていた。
そのまま、徒歩2分の役場へ向かい、役場の皆様へご挨拶。
「おー、がんばってくれや」「元気だのー!」などなど温かい言葉をかけてもらい、終始笑いの絶えない雰囲気に、いわゆる公務員のイメージはどこへやら。「とっても素敵な役場だなぁ」と思った。
その後、1年間お世話になるアパートへ。
元教員住宅として使っていたらしい2階建て。間取りは、3DK。ひとりで住むには十分すぎる広さと、築15年ほど経ってはいるがきれいな部屋に、ほっと一安心。荷物も、無事に届いていた。
その日の晩は、利浩さんのお宅(民宿)でごちそうになることになり、その前に「ひとっ風呂浴びてきたらいい」と言われ、島にある温泉に向かった。
実は温泉があることも、派遣先選びの重要なポイントの一つだったのだが、この温泉で、島の洗礼を受けることになる。
塩味たっぷりのお湯に旅の疲れを癒して、温泉から上がった。
更衣室を出て利浩さんの家に向かおうと思いながら、番台の脇でビールを飲みながら語らっていた3人の親父さんたちに「こんばんは」と声を掛けた。
すると、「お前が今日から来るとかって言ってた協力隊か!?」と早口で言われ、「ま、座れや!」「まず飲めや!」とお誘いを受けた。
「基本的に断らない」と決めてきた上での島生活だったので、喜んで座らせていただき、ビールを頂戴した。
何をしに来たのか、島に着いてどうか、などなど、聞かれながら、ビールを勧められるがままに飲んでいたら、気が付くと缶ビールを3本も空けていた。
とっても気持ちよくなっていた。
「時間なので・・・」と言って、退席させてもらったが、お腹はパンパン。
利浩さんのおうちでのご馳走、本当はとってもおいしいものだったはずなのに、味は全く分からなかった。
島というと、閉鎖的なイメージがあるかもしれない。そんなイメージは、一切感じなかった、島初日だった。
粟島での最初の一週間は飲み会続きだった。
初日の温泉での歓迎、役場での歓迎会、さらに弁天様のお祭りと、いろんな方とあいさつをさせていただいた。
特に印象的だったのは、俊夫さんという漁師さんとの出会いだった。
俊夫さんとは、弁天様のお祭りの時に初めてお会いしたのだが、他の方が「がんばれよ」「期待してるぞ」という言葉をかけてくださる一方で、唯一、「自分の心の声に正直に、『やる』と思ったらやればいいし、『やらない』と決めたらやらなきゃいい。自分を大切に、1年間、がんばってくれ」という言葉をかけてくださった。
もちろん、僕は俊夫さんと話をした時には、既にベロンベロンに近い状態まで酔っ払っていたので、正確な言葉は覚えていない。
しかし、「この人すごい!」「さすが、自然から学んでいる漁師だ。哲学がある!」と思ったものだった。
俊夫さんと出会い、そして、温泉で初日にお会いした金宝さん(金宝丸という漁船を持った漁師さん)からは「漁の手伝いに来たらいい」と言われたことから、島の暮らしに慣れる間もなく、朝5時くらいから、漁業用のカッパを身にまとい、港を歩き回るのが日課になっていった。
島の漁法は、小型船では、刺し網という漁法が主で、夕方、網を沖に刺しに行き、明け方、その網を上げに行く。すると、網に掛かった魚を獲ることができ、港では、その魚を網から外す作業が必要になる。そのお手伝いをしに行くのだ。
とはいえ、「素人の手伝いなんて、必要にされるのだろうか」、と不安に思いながらも、「金宝さんにも誘われたし」と思いながら、港を歩き、金宝さんの船が戻ってくると聞いた場所に行ってみると、既に一艘の船が港に戻ってきており、魚の網外し作業をしているところだった。
「金宝さんの船が戻ってくるまでだけでも手伝おうか」と思って、「手伝いましょうか?」と声を掛けると、初めてお目にかかる方だったが、「うん、手伝って」と言われて、あっさりと手伝うことになった。
僕の記念すべき漁業デビューとなったのは、今太郎さんとスマさんご夫婦の「今丸」だった。
その日、まずまずの魚が獲れたらしく、「ちょうど人手が欲しいと思っていたところだったの」とスマさんは喜んでくれた。
僕は、ただ手伝いたい一心で朝から港に来たわけだから、こんなにも喜んでもらえて、とっても嬉しい気持ちになった。
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