電車に轢かれて脚を丸ごと一本切断したサラリーマンが、半年後義足で職場復帰した話
退院後の生活にもちろん不安はあった。
しかし、どこまで回復するかでその形は全く違うものになる。
今は治療に集中することしかできない、と思っていた。
事故から2週間が経った頃、心配をかけている人達に自分の言葉を伝えたくて、mixiに日記を書いた。
(以下原文)
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タイトル:I'll be back。
先週月曜日の深夜、JR福島駅のホームから転落し、電車にひかれる事故に遭いました。
死んでもおかしくないぐらいの事故で、その結果俺は左脚を失うことになりました。
今はそれからずっと入院中で、退院の目処はたってない状況です。
まず、今回の事故で家族、職場の人、そして大切な仲間達に大変な心配をお掛けしてしまったことをお詫びします。
今回の事で、本当に沢山の人の優しさに包まれて生きていることを実感できました。自分は守られて生きているんだと実感しました。
こんなにたくさんの人の温かい想いに包まれて。
今、俺は自信を持って言えます。
あんな事故に遭って不運やったけど、決して俺は不幸じゃないって。
失った左脚は戻らないけど、みんなの支えがあれば、みんなの笑顔があれば、俺は生きていける。
脚の一本ぐらいなくたって今までより高く飛んでやる。
今はみんなの笑顔に会えることを何よりも楽しみにしています。早くみんなに会いたいよ。
P.S.今は救急の病棟にいるから面会NGなんやけど、一般の病棟に移れたら遊びにきてください。
あと、入院中やから各種レスが遅いのはご勘弁を。
サムズで再会できる日がいつか来ることを願いつつ…。
俺は必ず戻るから!
mixiやってなくて日記見れない人たちには、じゅんぺーがこんなこと言ってたって伝えてもらえると嬉しいです。
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本心だったが、強がっていたのかも知れない。
しかし、自分自身が日記に書いた言葉が、自分を奮い立たせ、前に進む力になったのだと思う。
年末が近付いていた。
しかし、感染の程度を示す数値は高いまま下がらなくなっていた。
それが原因となり、大きな決断を迫られることになった。
脚を落とす、という選択
主治医から治療方針の説明を受けた。
現状では感染症のリスクが高いこと、左脚の残った断端は短く、表面は植皮で義足を履く条件としては厳しいこと。
一方、残った左脚を落とし股関節離断にした場合、断端を強い皮膚で覆うことができるが、義足を実用的に使いこなすのは難しいこと。
左脚を残すか、落とすかという選択だった。
どちらも厳しい条件だが、先生は股関節離断にした方がよいと判断しているように感じた。
しかしどちらがいいとは言わず、本人に選ばせようとしていると思った。
股関節離断の場合、義足を実用的に使いこなすのは難しいということだが、「難しい」であって「不可能」ではない。
当時義足の知識はなかったが履ける義足がある以上、なんとかしてやると思った。
迷いはなかった。先生の判断を信じようと思い、即答していた。
こうして、残った大腿を切断し、股関節離断にすることが決まった。
自分で選んだこととして、納得していた。
また、右脚について。
背中から皮膚を採り、右脚に植皮する手術をする。
そして術後10日程度、全く動けなくなる。
取りうるベストな治療法と納得していたが、耐える自信がなかった。
それでも耐えるしかないと、受け容れた。
これも、自分で選んだこととして、納得していた。
こうして年内に左脚の股関節離断と右脚の植皮、2度の手術をすることが決まった。
股関節離断の手術の日。意識がある状態で手術を迎えるのは初めて。
見送る家族にストレッチャーで運ばれながら拳を突き上げて、手術室に向かった。
精一杯の強がりだった。
手術台に寝かされ、測った体重は44kg。
事故に遭う前は55kg。10kg以上体重が落ちていた。脚一本分の重み。
意識が戻って、家族に言った。
どこまで強がっていたんだろう。
年末の忙しい合間を縫って、職場の部長3人がお見舞いにきてくれた。
熱が40℃近くあって体調は最悪。またどんな形で戻れるかはわからなかったが、「現場に戻りたい」と告げた。
現場で働くことにやりがいを感じていたからだが、焦りもあった。
その時の上司の言葉が忘れられない。

泣いた。この言葉にどれだけ救われたか。
そして、右脚植皮の手術を受けた。
術後は想像を遥かに超える背中の痛みだった。
全く動けなかった。
そして迎えた年の終わり。
例年は友達のバーでカウントダウンが恒例。しかし、集中治療室のベッドで全く動けず、新年を迎えた。
来年は必ずみんなのところに戻って、一緒に新年を迎えると心に決めた。
一般病棟へ、仲間との再会
年が明けた。
植皮のための皮膚を採った背中の痛みで全く動けない状態。
人生で一番長い10日間だった。この頃の記憶は痛み以外ほとんどない。
中でも背中のガーゼ交換の処置では過呼吸を起こすほどの痛みだった。
苦しい時期だったが、股関節離断にした左脚、皮膚を移植したの右脚の状態は落ち着いてきて、手術から10日ほど経った頃、一般病棟に移れることになった。
集中治療室で過ごした時間はちょうど一ヶ月。
入院以来、離れて暮らしていた母親と妹は大阪の自分の部屋に移り、毎日面会時間いっぱい一緒にいてくれた。
父親と兄も仕事の合間を縫ってきてくれた。
一番厳しく、苦しかった時期を支えてくれたのは家族だった。
そして、一般病棟に移った。
多少動けるようにはなっていたが背中の痛みは引かないまま。
この頃は毎日朝早く目が覚め、気分が落ち込んでいた。
世の中が自分と自分以外に分かれてしまったような感覚。
テレビを見ても自分には関係ない、別の世界の話のように感じていた。
一般病棟に移ってから、義足のことを調べ始めた。
しかし、股関節離断が使う股義足は義足の中でも極端に数が少ないため情報がほとんどなく、どんな生活を送っているか想像もつかなかった。
ただ、股義足というものが存在する以上、歩けないことはないだろう、と思っていた。
この頃からかも知れない。
「自分で自分の限界を作ることはしない」
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