電車に轢かれて脚を丸ごと一本切断したサラリーマンが、半年後義足で職場復帰した話

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「物理的に不可能なこと以外あきらめない」

と決めたのは。


面会ができるようになり、友達が面会に来てくれた。

この時が来ることが苦しい時間を乗り越える力になっていた。

会ってなかった時間は一ヶ月半程度。それでも、ひどく久しぶりに感じた。


その時の自分の状態は、左脚はなくなり、右脚のギプスは着けたままで車椅子。

一ヶ月半前からは想像もつかない、変わってしまった姿。

それでも、みんな変わらず接してくれた。

病院一階の喫茶店で、めちゃくちゃ笑い、騒いでいた。

毎朝の気分の落ち込みは続いていたが、この時間は現実と繋がっていると感じることができた。


生きることと向き合った時間


一般病棟に移って数週間。

この頃の状態は、

・左脚:傷口が塞がらず、毎日洗浄の処置。

・右脚:植皮した皮膚が生着するのを待つ。絶対安静でギプスで固定。

・背中:全面から採皮されていて、皮膚が再生するのを待つ。

脚に痛みはなかったが、背中はひどい痛みだった。

右脚に移植した皮膚が生着しなければまた植皮する必要があり、さらに採皮の痛みに耐えなければならなかった。


そして右脚のギプスを外す時が来た。

先生が生着の様子を見る時は祈るような気持ちだった。

しかし、先生が一言。

先生
パーフェクト

楽観的なことをほとんど言わない先生がここまで言い切るのは珍しいこと。

本当にほっとした。


一ヶ月半ぶりに解放された右脚。運び込まれた時は「骨から腱からフルオープンな状態」だったそうで、そこからここまで整復してくれた先生に感謝した。


そして右脚のリハビリが始まった。

おそるおそる体重を右脚に乗せ、一ヶ月半振りに立った。

平行棒で支えて立つのがやっとで、すぐに膝からガクンと力が抜けてしまう状態だったがそれでも、自分の脚で立てた。


家族はここまで回復したことに涙を浮かべていた。

それから毎日少しずつ、自分の脚で立つリハビリが進められた。

リハビリの時間は限られていたので、病室では片脚で立ち続ける自主トレ。


恐れていたの背中のガーゼ交換。耐えられないほどの激痛。

ガーゼ交換がある日は本当に憂鬱だった。


気持ちの落ち込みも続いていた。

「なぜ生き残った?なぜちゃんと死ななかった?」

という考えが毎日頭をよぎっていた。


しかし、「生き残ったんだからジタバタしてもしょうがない。生きよう」と気持ちは揺れながらも思えたのは支えてくれる家族、友達がいてくれたから。

そしてこうして、生きることと向き合った時間が、与えられた命がある限り前に進もうという意思をより強くしてくれたのだと思う。


リハビリは立つことから始まり、少しずつ距離を延ばして平行棒の中を歩く訓練、さらに松葉杖の歩行訓練も始まった。

義足使いこなすには筋力が必要、ということで筋トレも始まった。

先生の勧めでプロテインも飲み始め、ラグビー部出身のPTの先生と一緒に筋トレの毎日。


今思えば、このリハビリは本当に正しかった。

後に義足を履き始めた時、入院前よりも筋力はついていたぐらいで義足を履く体は出来上がっていて、義足を使いこなすための訓練に集中することができた。


一方、左脚の傷口はなかなか塞がらず、洗浄の処置が続いていた。

職場復帰の目標は4月と決めていた。

義足のリハビリは2ヶ月はかかると思っていたので、時間がないと焦りもあったが、治るのを待つことしかできなかった。


転院、リハビリ病院へ


入院して2ヶ月近くが経ち、念願の外出許可が出た。

ずっと、家に帰りたい、自分のベッドで寝たいと思っていた。


久々に自宅で過ごす時間。

やっとここまで戻ってきたんだ、と感慨深かった。


脚がなくなってから、病院以外では何もかもが初めて。

一時帰宅は日常生活でどこまで前と同じようにできるのか、できないのか確認する意味もあった。

結果、ほとんどのことは松葉杖でなんとかなった。

変えなくていいんだな、と思った。


それからは毎週末、外泊許可をとって自宅に帰るようになった。

この頃から、左脚の傷口も塞がり始め、背中の傷も回復に向かっていた。

傷の具合が落ち着きを見せ始めたことで、治療の段階は終わりが見えてきた。


義足のリハビリは別の病院で行うため、2月中に転院ということになった。

少し前まで処置の痛みに苦しんでいて、転院なんて先の話のように感じていたので、この展開に自分自身ついていけなかった。


ソーシャルワーカーさんが関西中の病院をあたってくれて、股義足で歩くリハビリに対応できる病院を2つ見つけてくれた。


関西中探して2つだけ。

少ないが、対応できる病院があるということは歩けるということ。

退院後は義足で歩いて生活する以外、想像しなくなった。


義足仲間との出会い、一人じゃない


傷は問題ないぐらいにまで回復し、義足のリハビリをする転院先の病院探しが始まった。

そのうちの一つ、大阪市内にある病院。

診察には「電車で行きたい」と言った。


事故に遭ってからまだ一度も電車には乗っていない。

ひょっとしたら記憶の奥底にある事故の記憶が蘇り、恐怖を感じるかも知れない。

そう思ったが、電車に乗ることは日常生活では不可欠。

乗り越えなくてはならないことなので、早く確認したかった。

結局、その不安は取り越し苦労だった。


何も感じなかった。

自分にとって、電車には乗れると確認できたことは大きな収穫だった。


診察では先生は「歩ける」という感触を持っているように感じた。

もう一つの病院は治療が終わっていないと判断され、受け容れることはできないとのことだった。


結局選択肢はなく、2月末に大阪市内の病院への転院が決まった。

今思えば、結果的にこの病院に決まったことは自分にとって最良の道だったように思う。


この頃あった大きな出来事。

友人の友人が自分と全く同じ、左股関節離断で会ってもらえることになった。

股義足は義足の中でも極端に数が少なく、滅多にいない存在。

こんな偶然があるなんて、つくづく運がいいな、と思った。


初めて見る股義足ユーザーの彼女の動きは想像していたよりずっと自然だった。

また、彼女はスポーツ義足の第一人者として有名な義肢装具士の臼井二美男さんに担当してもらっていて、臼井さんが所属する鉄道弘済会義肢装具サポートセンター、切断者スポーツクラブ、ヘルス・エンジェルスには数多くの義足仲間がいた。


彼女から、活き活きと人生を送っている義足仲間の話を聞いた。

当時周りには切断者が誰もおらず、自分一人。

彼女は切断間もない自分に、この先の人生決して暗くはない、自分次第で明るいものにもできる、そして何より「一人じゃない」と教えてくれた。

彼女は自分にそれを伝えようとしてくれていると感じた。

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