電車に轢かれて脚を丸ごと一本切断したサラリーマンが、半年後義足で職場復帰した話

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思い思いに走ったり喋ったり。数十人の義足ユーザーが陸上競技場で走るのは圧巻の光景だった。

そんな中、臼井さんが声を掛けてきた。

臼井さん
走ってみなよ

自然で、何気ない雰囲気の一言だった。走れるかどうかなんてわからない。

しかし、臼井さんになんでもないことのように言われ、不思議とやってみる気になっていた。


今までやったことのない勢いで地面を蹴り、跳んだ。

健足で跳び、義足で着地する。

着地した時には経験したことがない衝撃が返ってきた。

走っていると言えるのかわからないぐらい、それも数メートル程度。


転んだ。


しかし、その時直感的に感じた。

「走れる」と。

走ることは、決して物理的に不可能なことではないと確信した。


そして期待どおり、たくさんの義足仲間に出会うことができた。

それまで、自分以外に切断者がおらず、とても自分が「普通」とは思えなかった。

しかし、鉄道弘済会やヘルスエンジェルスでたくさんの義足仲間と出会い、触れ合ううちに感じたことは、「脚がないだけで普通の人」だった。


また、義足について自然に語れる場が新鮮だった。

自分は友達に切断や義足のことについて話すことは嫌ではなかったが、 どこか触れてはいけないことのように遠慮されている雰囲気を感じ、居心地の悪さを感じることもあった。

しかし、ここでは切断や義足は、ニュースやテレビ、音楽などと変わらない、ただの共通の話題の一つだった。

障害について話すことがタブーではない、そんな雰囲気をとても居心地良く感じた。

ヘルスエンジェルスの練習会は、自分自身の価値観が変わるほどの衝撃で、多くのことを感じることができた。


走ることは不可能ではない。

脚がないのは不便だが、それ以上でもそれ以下でもない。

自分も含め切断者は「脚がないだけの普通の人」。


まだ入院中にそう感じられたのは、復帰して障害者として社会に出た時に自分を支えてくれたものであったと思う。


入院生活終了


鉄道弘済会でのリハビリも後半になると、歩くことの不安はほとんどなくなっていた。

残りのリハビリ期間は、日常生活を想定して、一つ一つ不安を取り除いていく作業だった。

スーツ着て革靴履いてカバンと傘を持って歩く練習をしたり、体力をつけるために長い距離を歩いてみたり。


鉄道弘済会に入所中は、ずっと楽しかった。

リハビリは順調。理学療法士さんや義肢装具士さん、義足仲間でもある患者さんと話している時間が楽しかった。考えてみれば、それまで他の患者さんと話をすることはほとんどなかった。

ようやく、気持ちに余裕ができていたのかも知れない。


復帰してからの生活も現実感を持って考えられるようになってきた。

きっと仕事や日常生活でできないことはほとんどなく、ほぼ変わらない生活ができる、という自信も持てるようになっていた。

しかし、リハビリだけでは限界があって、職場復帰前には日常生活で慣らす期間も必要だと思っていた。


退院から復帰まで、慣らす期間を2週間作ろうと決めた。

義足も最終調整を終えて完成した。

そして、鉄道弘済会を退所した。3週間という短い間だったが、刺激に満ち、密度の濃い時間だった。


こうして、およそ半年間の入院生活が終了した。

できることはやった。

入院生活でやり残したことはなかった。


入院生活を通じて自分を支えてくれた家族、職場の方々、友達、病院のスタッフの方々には感謝の気持ちでいっぱいだった。

この方々の支えがなければ、入院生活を乗り切ることは間違いなくできなかった。

素晴らしい方々に出会えて自分は本当に運が良いな、と改めて感じた。

ここから復帰への道は自分との戦い。

あと少しで戻れる、もうひと踏ん張り、と感じていた。


復帰


大阪に戻ってきた。

それから復帰に向けて一つ一つ、復帰してからの生活を想定して確認する作業をしていった。

朝起きてスーツを着て徒歩、電車で通勤ルートを辿って職場まで行ってみた。


街に出掛けてみたりもした。

よく行っていた店で買い物をしていると、前から好きなものは変わっていないことに気付いた。

変わらないんだな、と思った。

事故後に行ったことのないところに行ったり、経験していないことをやる時はいつも不安だった。

それでも、やってみてできないことはなかった。


前と全く同じ、というわけにはいかない。

でもやってみて、考えて工夫すれば本当に不可能なことはほとんどない、という自信がついてきた。


そして、復帰に向けて上司と話をすることになった。

久し振りの会社。

会う人はみんな驚き、喜んでくれた。

事故前のプロジェクトのマネージャーからは人づてに伝えられていた。

マネージャー
「前のプロジェクトに戻りたい」と言え

いきなり入院でいなくなり多大な迷惑を掛けた自分に、そんな言葉を掛けてくれることが嬉しかったし、それは自分自身望んでいたことだった。

自分
もし受け入れてもらえるのであれば、前のプロジェクトに戻りたいです

と話した。上司との面談を終え、復帰が決まった。


やっとここまできたと清々しい気持ちだった。

同時に、ここがスタートだと思った。


冬の日の事故。左脚を失い、障害者としての人生が始まった。

夏の日に戻ってきた。「生きててよかった」と思えた。


事故からちょうど半年の日だった。


最後に


何不自由なく充実していた日常から一転、生死の境目に叩き落とされ、左脚切断、右脚大怪我、くも膜下出血と、事故に遭った当初は先のことが考えられませんでした。


それでも前を向いていられたのは家族、友人、職場の方々、そして出会った病院関係者の皆さん、義足仲間の支えがあってこそ。

言葉では言い表せない程感謝の気持ちでいっぱいです。


つくづく、自分は恵まれています。

半年間を振り返り今、周りの方々によって最良の道に導いて頂いたのだと思います。

それは復帰後も変わらず、今も周りの方々に導かれて進んでいっています。


あの半年間は自分の人生最大の転機。多くのことに気付かされ、自分の価値観が大きく変わりました。

入院してしばらくは「なぜ死ななかった?」という思いが頭をよぎる日々でした。

それが時が経つにつれて「生きててよかった」に変わってきました。


苦しくても。思いどおりにいかなくても。

「現状は変えられない。今自分にできることをやる」ともがいた日々がそう思わせてくれました。


自分は「片脚がない」というわかりやすい問題を抱えています。

しかし、自分が特別大きな悩みを抱えているとは思っていません。

悩みの種類も感じ方も人それぞれ。

まったく違った形で自分より大きな悩みを抱えておられる方もおられると想像します。


しかし、自分は死に直面し、全く先が見えない状態からでも立ち上がれるという一つの可能性を提示することで、情報を受け取った方が少しでも前向きになるきっかけになればと思い、体験を綴らせていただきました。


最後に、この半年間、そして復帰後の生活を通じて自分が感じていることを挙げさせて頂きます。

・物理的に不可能なこと以外はあきらめない

・現状は変えられない。今自分にできることをやる

・怖くてもやってみる。できないならできる方法を考える

・失ったものは脚しかない。得たものだってたくさんある

・意思あるところに道は開く

この自分の体験を読まれたことがきっかけとなって、一人でも多くの方が自分らしく、前向きに人生を送っていかれることを願ってやみません。


ありがとうございました。


※このストーリーは、私のブログ「それいけ股義足」に綴った内容を短くまとめたものです。

こちらから全編も読んでいただけると幸いです。

http://gohdp.net/comeback-report/



【補足】

この一連の体験や、義足での生活にまつわることは自分のブログに綴っています。

それいけ股義足

http://gohdp.net


かつて自分が義足仲間にたくさんの希望をもらったように、今度は自分がお返しをする番だと思っています。

今自分が取り組んでいる陸上の話も綴っています。

よろしければご覧ください。


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