「七転び八起き」は実話っていう自分がイヤ!!
人には様々な人生が待ち受けているもの。でも、続き過ぎると「マジで、もういいか?」と自分に問うレベルです。今まで語ることのなかった超個人的体験談を綴ります。
〜3〜
前回より、10日経ってしまいました。
出来るだけ「時系列」で行きたいので、どこの記憶を書くのか、少し迷ってしまいました。
そうそう、私は、保育園に通うのが「大嫌い」でした。
皆、ほわほわと楽しそうで、屈託がなく、親と仲がよく、明るく元気な幼児達が、バカっぽく見えて嫌いでした。
また、先生(ここでは、シスター)が、「そのように取り扱うこと」も嫌いでした。
先生が「◯◯しましょう!」
というと、皆が、
「はーい」というお決まりの返事があります。
そうしたくなんかない自分には、「反対という意見持ってないのかよ」と苛立ちさえ感じたものです。
「幼児言葉」に至っては、身の毛がよだつ想いがしたものです。
また一方で、「羨ましい気持ち」があったのも確かです。
私はいつも、何やら重っ苦しい気持ちが常にあって、「しんどかった」し「なんだろう?この気持ちは?」と思いながら、毎日、過ごしていました。
朝は毎日、試練が待ち受けていました。
私は「行きたくない」と、保育園へ行くのを嫌がります。
母は「保育園に行きなさい!」
嫌いなものは嫌いだし、行きたくないものは行きたくない。
でも、親としては「放ってはおけません」、確かに、、、
今なら、わかります。
そんなとき、母の取った行動は、「何かで殴る」ことでした。
最初は、平手だったのが、
「お母さんの手が痛いから、棒を使うことにする!」
と、宣言したのを覚えています。
「えー、親として愛情あるなら、せめて平手にしてよ」
と、このような気持ちでいっぱいでしたが、容赦なく、ほうきの柄、掃除機の柄を取ってきては、実際に叩かれたように思います。
ここで、「思う」というのは、暴力というのは「記憶に残らない」ことがあるということです。
母のあとの台詞も「炸裂音」になって、「記憶として残りません」
覚えているのは、自分の思ったことが中心になります。
そして、自分がこのような目にあうのが、「なぜ」なのか、全くわかりません。
ただ、「泣く」
それしか出来ない。
幼児に何が出来るでしょう。
そして、おそらく、抵抗することに疲れて、怠惰に保育園へ通っていたのではないかな?と思います。
さすがに、ずっと毎日、抵抗しても、母の態度はエスカレートすることはあっても、変わらないと諦める気持ちになります。
その辺りからかもしれません。
もう一人の自分が、少し上から眺めているように感じるようになったのは。
そうすれば、「痛くない」と思える自分が出来ます。
「可哀想じゃない」自分を見つけることが出来ます。
実際には、良くない状態ですね。
母は、しまいには「泣くことも禁じる」ようになりました。
住んでいるアパートの外に声が聞こえるからです。
もう、わけがわからず、
必死になって「泣くぐらい許してくれたっていいやんか!」
と言ったのを覚えています。
ですが、母曰く、
「お母さんが泣くなと言ったら、泣き声を出すな。泣き声を出さずに泣きなさい!」
「そんなこと、出来へん!」
というと、
「泣くんやったら、もっと、痛く抓るよ!」
と脅してきました。
もうすでに、つねられて痛い皮膚の上をまだ抓る気か。
何という残酷なことを敷いてるのかわかっているのか?この人は?
このときに、母は私にとって「この人」になったのです。
非常に良くない状態ですね。
母の立場で、働きに行かねばならないと「説明」さえ出来れば、私は、自分の状況を充分理解出来たのに、それを、母が思いつかないあたりが、逆に「痛い」です。
そして、後遺症というのでしょうか、
この後、私は「喋る」とか「自分の気持ちを素直に伝える」ということが、「直の言葉」では出来なくなります。
また、「自分を押し殺す」ことの限界から、「冴えない気分」が続いていて、「暗い自分」が作られていきました。
しかし、それを振り払うことが出来ず、その暗い世界から、絶えず飲み込まれそうな怖さに怯えていたのも事実です。
そこで、この「言葉では表せることが出来ない気持ち」をそのまま絵に描いたらどうなるか、と思って想像すると、自分でも恐ろしい色「黒一色」の世界がそこにはありました。
「荒廃と絶望」の色でした。
もうそれは、自分でも恐ろしくて、自分の中にそんなものがあるなんてイヤです。
でも、ある。
自分では、どうすることも出来ない「黒の世界」
そこは、先も見えず、まるで密閉され出口のない「闇の中」でした。
覗き込むと、「絶望」という名の「断崖絶壁」が待ち受けていました。
幼児がそんなことわかるのか?
もちろん言葉ではわかりませんでした。
でも、「これって、絶対アカンよね?」
それくらいはわかりました。
そして、周りにいる子達は、全くそんな「自分」とは違う。
だから、「バカじゃない」かと思う。
そう思っていられるときは、まだ良かった。
決定的な出来事が起こりました。
母は自分の母、つまり、私からみて、祖母と同居します。
私は、祖母から「お母さんをあんまり困らせるんじゃない」
ーーーう〜ん、言われたことあるかなあ?
どうにも記憶が曖昧です。
とにかくランダムに、母か祖母がお迎えに来るのですが、その日はたまたま祖母でした。
私は、いつも通りにそれまで、隣の子の絵に合わせて、それよりちょっと上手いくらいに、描いていたのですが、色塗りしている最中、とうとう耐えきれず、「黒のクレヨン」を手に取って、思いっきり、画面を黒で塗りつぶしていきました。
先生達は、わーっと慌てる様子で、中には、「何をしてるの!?」という声もありました。
止めようとした先生もいます。
そのとき、他の先生が「気が済むまで放っておくように」と言い、放っておいてくれたのが、私には嬉しかった。
これが、私の本心です。私の本当に描きたかった絵です。
「イヤ」であろうが「暗い」ものであろうが、「本当」のことでした。
「気が済んだ?」
というシスターの言葉に、「はい」と答えて、黒クレヨンを置きました。
あのスッキリした感じは忘れられません。
そして、先生達は上を下への大騒動になりました。
私は、自分の任務を遂行し、完遂したような気持ちでホッとしたのでした。
この日のあとのことは鮮明に覚えています。
お迎えに来た祖母が、シスターや先生に連れて行かれ、長い時間私のところへ来ません。
私は「任務遂行」後の満足感と「不安感」から開放され、自由に、これからは「自分らしく」生きられる、と思って期待に胸をふくらませていました。
しばらくして、祖母が来ました。
やたらに、先生達に頭を下げています。
しきりに謝っています。
私は、「本当のこと」を伝えただけなのに、なんでそんなに謝るのか?
理由がわからず、祖母が余りにも謝りまくるので、少し腹も立ちました。
さて、園の門を出て、まだ塀の横を歩いているときでした。
祖母がこちらを振り向いたかと思うと、こう言いました。
「二度と、◯◯描くんじゃない!」
何を描くな、と言ってるのかわからず、
「え?なんて?」
と、聞き返しました。
祖母は、
「おばあちゃんは、恥をかいた!二度と、あんな絵を描くんじゃない!」
頭の中は、?????だらけになりました。
でも、絵を描いたことで何か注意されたのは、明白です。
「あのさ、おばあちゃん、人はね、意味もなく描くことってないんだよ。意味があるんだよ」
どうも、祖母には話しが伝わってないことがわかって、私は焦りました。
祖母は繰り返し、
「こんなに恥をかいたのは、初めてや!お前が絵を描いたのが原因やろが」
私は、これはヤバい、っと思い、
「先生はなんて言ったの?」
と、先生達の指導力に期待することにしました。
祖母がいったのは、
「なにか専門の先生に診てもらえやて。アホらしい。お前はまだ、子供やのに」
私はそこに行きたかったわけです。
そこで、自分の置かれている状況を話したかったのです。
「先生に言われた通りにしなくていいの?」
祖母が、世間体をものすごく気にするのは知っていましたから、そこを突いてみました。
このときの言葉が今でも杭となって抜けない。
「お前が、この先、あんな絵を描かんかったら、済むこっちゃ」
今までの私の我慢や、他の子と余りにも違い過ぎる自分を取り巻く環境。
その溝を埋めたくて、必死に頑張ったのに、
ー「私が描かなければいい」ー
この一言で、私の中で何かが壊れました。
なんとか、気を持ち直して、食い下がってみようとしました。
でも、祖母は「早よ、行くで」
と、さも自分は災難にあったとでもいうように、もう終わったことにしようとします。
もうこれ以上、頑張られへん、、、。
そのとき、空を見上げたのは覚えています。
「この世は不平等や。空は同じに見えるかもしれへん。けど、地上では、同じじゃない」
自分が、この世にとっては、どうでもいい存在だと思いました。
それと同時に、心の奥で音がハッキリ聞こえました。
「パリーン」とか「カシャーン」とかいう割れる音です。
祖母はスタスタと前を歩いて行きます。
私は、子供ながらに「この日のことで、私の人間として『大事な何か』が致命傷を負ったな」と確信しました。
それが、どのような形で現れるかは想像もつきませんでした。
ただ、「心って割れるんや」
そして、祖母の歩みを見ながら、そして、周りの人が過ぎて行くのを見て、
「人って叫ばんとわかってくれへんし、叫んでみたけど、アカンかった。この先どうなるのやろう」
「自分自身の将来」に不安を覚えました。
祖母は、母が、私を叩いているのを知らなかったのです。
そして、私は、言葉が出ないので、誰にも伝える方法がなかったのに、最後の手段に失敗したのでした。
一緒に暮らした兄弟の誰一人として、「母に叩かれたり」「抓られたり」していなかったと知ったのは、大人になってからです。
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