大学2年生、あなたは戦争に行くと決意できますか? ~55年歳の差の父から学んだこと~

私の父は大正生まれ、昭和、平成を生きた人です。平成14年に86歳の時に亡くなりました。

そして、当時の沖縄からは珍しく、10代の時に上京し、早稲田大学在学中に出兵し、満州、ロシア、カンボジアを経て、インドネシアにいたときに終戦を迎ました。

 

私は父が54歳の時に生まれました。(私は父との血の繋がりはありません)

父が55歳、私が1歳の時、養女として、伊佐家にやってきました。

 

父は小さいころの私を何枚か撮っていますが、ほとんど日付がありません。

一枚だけ・・日付がなくてもいつか分かる写真があります。
沖縄にとっても記念の日だったからでしょう。日本の旗をもっている私の写真が一枚。
1972年5月15日。 沖縄復帰の日です。

父は戦後、沖縄に帰郷してから、いろいろな書き物を残してきました。

たくさんの議論や論争もあったようですが、私が小さいこともあったのか

父は自分が戦争にいっていたころのこと、若いころの話を一切、家ですることはありませんでした。

むしろ、いつもよく言っていた言葉があります。

 

「世界を見渡してごらん。素晴らしい世界にあふれているよ。

今の時代は自由だ!!

なんでも好きなことできる。                                                         

好きなことしなさーい。」

 

でした。。

                                                                                                             

私はその言葉通りに好きなことばっかりしてきたような気がします。

私にも子が生まれ、父が亡くなって、はじめて、父の書いた書物を読む機会ができました。

出兵前の久留米での訓練の様子、インドネシアで数年間、当時オランダの植民地だったインドネシアの義勇軍の指導官として生きていた20代の父の姿や体験談を読み、そんな時代があったのかと感銘を受けました。
沖縄戦を体験した側ではなく、出兵した日本兵として過ちを2度と繰り返さないようきつい口調で書いている場面もあれば、戦争を見てきたからこそ書き留める平和のありがたさを綴っている場面もあります。
摩文仁の丘での父の回想がとても心に刻まれているので、一部紹介します。

                ★★★★★★★★★★★

 

 私が復員して、沖縄に帰ってきたのは終戦の翌年、1946年であった。
さらにその翌年、私は、知念の丘にあった、沖縄民政府の財政部で仕事をするようになった。
ある日、民政府の職員たちと南部戦跡を見に行ったことがある。

たしかトラックを1台か2台つらねていったのだが、同行した人が誰々であったか、ピクニックのつもりだったのか調査か何かお役所の仕事だったのかただ一緒に連れて行ってもらっただけなのかもよく覚えていない。

 

あのころは、私たちの意識の中で戦争の記憶が生々しかった。
私は沖縄戦の体験者ではないので、ぜひ、戦場の跡を見ておきたかった。

 

摩文仁岳に登った。

日本軍司令部の最後の陣地があった所である。
陣地後の洞窟の入口になっているという崖の斜面をのぞいてみた。
ちかくには牛島司令官と長参謀長の墓があった。

自分の立っている、その足下に、ほんとに二人の将軍の遺体が埋められているのか!と

思った。
表面をセメントでぬりたくって、お粗末な墓碑が立ててある。
久留米の野砲隊にいたとき、馬の墓というのをみたことがある。

軍馬が病死して、中隊長に引率されて墓参り(?)をさせられた。

そのとき見た馬の墓は、いま自分が見ている墓より、もっと立派なものだった。

しかし、考えてみるとこの粗末な墓が当時は破格の待遇だったのだ。

 

島尻の山野に十数万の遺骨が野ざらしにされている。

住民や兵隊の遺体が埋められもせずに殺された場所でそのまま腐朽して、土になっている。

どこにも墓標など立っていない。二人の将軍の遺体だけが、せいいっぱい丁重に葬られてあるのだ。

これは当時としては最大級の処置であったにちがいない。

                                                  

牛島中将と長中将は古式にならって割腹し、介錯をうけたらしくその首はとうとうみつからなかったといわれるから、首なしの死体がそこには埋められているわけだ。

その後、私はある仕事に関係して軍司令部の最後の模様や牛島司令官と長参謀長の自決の様子などをくわしく調べる機会を持った。二人の将官が立派な態度で死んだことがわかった。

―――――中略――――

この南の岩の果てまで、よくも戦いつづけたという感慨と、逃げられるところまで落ち延びて窮地に追い込まれたあげく、司令官は「死」以外に事態から逃れる術がなかったのではないかという疑問がぶつかり合った。

その後、摩文仁を訪れたことはないがあの時私がそういう疑問をなぜ追求しようとしなかったかそれにはもう一つの理由があった。

摩文仁岳の生々しい戦場に立つとまだ砲煙の香りがし、追い詰められた人たちが生死の境をさまよう姿が、生々しいイメージとなって脳裏に浮かんだ。

しかし、そういうものを忘れさせるほどの強烈なある感情に私はとらわれていた。

 

それは、戦場とは最も対照的な感情だったが、今でも忘れ得ない印象となって思い出される。

 

私が同行した人たちはみな沖縄戦の体験者であったが、ピクニックのような気持ちで摩文仁岳のあちこちを歩きまわっていた。時々、笑い声を立てて明るい表情をしていた。

 

戦争の暗い影など、どこにもなかった。

 

自然は、もっと明るかった。快晴の天気で、野の色も海の色も実にあざやかだった。

とてつもなく明るい空からは柔らかく、温かく、ふんだんに、春の光りがそそいでいた。

空気が春で無限にふくらんでいるようだった。

これほど、ぜいたくに、光の洪水をあびたことはなかった。

 

 

すべてが平和で静かだった。

私たちをとりまく自然は甘い叙情のようなものをいっぱいふくんでいた。

平和はこんなにすばらしいものであるかと恍惚とさせられるような瞬間であった。

 

牛島司令官の墓から遠くないところに平坦な原っぱがあり、岩石の上に草が青々としげり、その向こうで、太平洋の波が、遠くまでキラキラと輝いていた。

私は生きていることの美しさと、自然のすばらしく、やさしい表情に感動してしまった。

心のヒダヒダまで明るく照らしだされるような、その明るさ。

 

清潔で、甘い空気!

 

私はひとつの草むらを見つけて腰を下ろし、波の輝きをいつまでもみつめていた。

二十代の青春を、軍隊と戦争の中で失い、運命に打ちひしがれたように帰ってきた故郷はさらに過酷な運命の試練をうけていた。
そして、沖縄戦の断末魔の声をきくような、この摩文仁岳の上に立ってみると、自然は何という美しい表情をしているのだろう。

まるで信じられないくらいである。

悪夢をみたあとのようなおとろきと安らぎがひたひたと私をひたした。

 

これがほんとの生命だ。

生きることは、こんなに美しいことなのだ。

戦争はウソのように忘れられ、自然は無関心に、平和でやさしく、人間をつつんでいた。

 

                          ~太田良博著「沖縄戦の諸相」からの一部抜粋~

                    ★★★★★★★★★★




今の摩文仁の丘には父の言う戦後間もないころの原っぱや牛島司令官の粗末なお墓もありません。立派に整備され、石碑たくさんがたっています。

石碑は悲劇を繰り返さないために人間が建てたものです。

自然は美しいと感じる心は生きてこそ存在します。
憲法の改正や安保理の問題が直接戦争に向かわせることが無いようひとりひとりが意識してもらいたいものです。

今の日本の若者は出兵することなく、なんでもできる自由と好きなことができる時代を生きています。自由に生きる権利を持ち、安心して生活できる社会を次世代に繋げていくバトンをひとりひとりが担っていることを忘れないでください。

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