「七転び八起き」は実話っていう自分がイヤ!!

著者: 坂本 新子

人には様々な人生が待ち受けているもの。でも、続き過ぎると「マジで、もういいか?」と自分に問うレベルです。今まで語ることのなかった超個人的体験談を綴ります。


〜4〜

保育園時代に、「なぞ」の部分があります。

当時は、「働いているお母さん」は「保育園」に子供を入れる。

「働いていないお母さん」は「幼稚園」に子供を入れる。

そんなことは、全くわかりませんでした。

簡単にいうと、働かなくては生活出来ない=貧乏人

働かなくても子供を預けることが出来る=裕福な家庭

この図式をわからなくても、毎日の送り迎えで来るお母さん達を見ていたら、わかります。

髪は乱れて、必死で自転車に乗って、とにかく時間との戦いで、子供を連れ帰って行く。

私はわからずに、「何で、たいへんそうなんやろう?」

子供をせかすのを見て、「この子はちょっとおっとりしたタイプやのに、そない怒鳴らんかってもいいのに。待ったったらええのに、せっかちな人やなあ」

自分のこと以外では、観察するのが好きで、その癖は今でも治りません。

そのうえ、「呑気」でした。

本来は、呑気な子だと思います。あんまり深く考えない。

「ほわっと、毎日居れたらいいじゃない?」という感じでしょうか。


ある日のこと、母から「今日は車で帰るわよ」

と言われました。

それまでに、たまに車で帰る子を見たことがあります。

今ほど、皆が車を持っていない時代だったので、初めて乗ったときは、余りにも「楽」過ぎて、「夢のよう」だなあ、と思いました。


ここで、「???」です。

車を運転している人は誰?

うちは、母子家庭です。

親類付き合いもなく、一体誰なのか?

最近になって、母に問うてみても、「え?そんなことあった?」

この明快に、きれいさっぱり忘れてるのって、犯罪じゃないけど、こちら的には「犯罪」に等しい。

私には「なぞ」として、記憶があるのに、作った原因の母は忘れてる。

もちろんながら、「体罰」に関しても「本人」は忘れています。

逆ギレで、「いつまでも昔のことを、ネチネチと言うて!うるさい子やね!」

と、怒られてしまいました。

居直る人は、「覚えている場合」です。

母の場合は「忘れた者勝ち!!」

結構、腹立ちます。

こっちもキレたら良いのか?

それは、理屈がわかる場合です。

うちの母には、理論も理屈もない。

でも、「母なんです」実の。

この現実の方がキツい。

他人なら、「そういう人なんや」で済むのに、、、。


運転していたのは、男性でした。

母が知り合った人でしょう。

私の母は、いわゆる「美人さん」です。

一見すると、「お嬢さんタイプ」

「綺麗な女性」を男性が放っておくわけがない。

このあとも、数人お付き合いしていますが、現在は一人暮らし。

父との縁を「結婚」にまで持って行ったのは、母の執念?らしい。

だったら、簡単に「離婚」すんなよ、って言いたい。

子供はたいへんなんやぞ!!って、言いたい。

でも、逆ギレが来そうで、今は言う勇気がない。


閑話休題


ほんの数回で、車で帰る楽しみを覚えた私は、「今日は車かな?」

と、ウキウキモードで待つようになっていましたが、いつの間にか、なくなってしまいました。

「今日は車とちゃうの?」

「違う」

人間というのは現金なもので、「優越感」をそのときに「勝手に」感じていたんですね。

「家では、虐げられている自分」が「他の子は乗れない車で送迎されてる」

独りよがりな「誰も見てない優越感」です。

優越感は、周りから「羨ましいと言われてなんぼ」ですから、勝手に浸ってるとは、なんと安上がりな優越感でしょう。


喋れなくなっても、観察好きな私は、「観察すること」で何かしら「紐解く楽しみを覚え」もう嘆く感情は底を打ったので、「落ち込みようがなく」そのまま、保育園に通いました。

「子供らしさ」はなくなったかもしれません。

元々かもしれないけど。

園庭で遊ぶ子等を見て「子供っぽくて(無邪気で)いいな」とか、食べるのが遅かったので「(見せしめとして)縁側で食事」をさせられても、(呑気ですから)「外の空気吸いながらの方が、食事美味しいやん」といった感じで、先生から「平気なの?」と(何回やっても、他の子のように早く食べようとしないので)聞かれたとき、「こっちの方がいいです」と答えたら、先生に呆れられ、屋内で食べるように指示され、「えー、こっちがいいのに」と素振りを見せたら、「あなたは、こっちでいいの」と言われました。


そして、祖母とのやり取りの一件のあと、先生達は「いつものお絵描き時間に緊張感をビンビンにはっしながら、じっと私を見ていました」日があります。

家での状況は何も変わっていない。

それを伝えるためには、「黒色クレヨン」を再び手に取るしかない。

でも、そうすると、「お前が描かなければいい」という祖母に逆らうことになる。

あの日を迎えるだけでもたいへんだったし、迎えたらもっとたいへんだった。

ということは、さらに「たいへん」なことが待ち受けているかもしれない。

でも、「この苦しさから抜け出したい」

でも、逆らったら、家で何が待ってるか怖い。

先生達は、自分がどんな絵を描くか、ガン見している。

このとき頭によぎった台詞は「幼児にこんな場面、強いるなよー」でした。

黒に手を伸ばすかどうか、先生達、気を向け過ぎ!!

明らかに、見ています。

手を伸ばしたら、「!!!!!」みたいな空気が流れる。

その時点で何を思ったかというと、

「君たちは、私に隣の子と同じような絵を描いて欲しいんやね」

この状況には、自分は何も悪いことしてないのに、何なんだ!?と思いました。

祖母もむちゃくちゃやけど、先生達だって、私を心配しているんではないんだ、

「何もなければいい」

そういうことなんやな。

大人達は、「一人の幼児の気持ちなんか、どうでもいいんや」


またそれとは別に、黒色を使ったとき、正直イヤな感じでした。

それまでの、綺麗な世界が、瞬く間に潰される感じ。

気持ちは黒だけど、絵を描くのに、色として使うのはイヤ。

自分でも知らないうちに、自分の絵に世界観が出来、その「作品」を、「作品」のせいではないのに、「潰す」ことを「これは、違うな」という気持ちが出てきた。



周りの皆は、いつも通りのお絵描きの時間で、なんで自分のお絵書きが「ガン見」状態なのか?

同じ場所に居ながら、立場が違う。

別室で「好きなように描いてご覧」

今思えば、なんでこれくらいのことが出来なかったんだろうと思います。

園児の中には、大人が動揺する空気を感じてる子達もいました。

それを、私は「自分が原因で巻き込んでる」と思い、そうしたくて描いたわけじゃないから、その場を凌ぐには、普通の絵を描くしかない、と判断しました。

描く前に、深いため息をついたのを覚えています。

「幼児にため息つかすって、ええん?」

くっそー!!

と思いながら、

綺麗なお花の絵を描いたのです。

いつにもまして、

花は、綺麗でした。

その世界は美しかった。

ですが、私の心とは、別の世界。

でも、キレイ。


先生は、私の絵をのぞいて、「きれいなお花ね」と言いました。

そして「今日は、黒色使わないの?」

と言いました。

私は「黒色好きじゃない」

と言いました。

先生は、片がついたといった感じで、他の先生達の元へ行きました。

私は、自分の置かれた状況が堪らなくて、こらえきれず、泣きました。

誰にも気付かれないように泣きました。

保育園児が着るブルーの服に、涙が染みて行きました。

隣の子が「大丈夫?」と声をかけてくれました。

私はそのとき、びっくりした。

そんなふうに思ってくれている子がいて、びっくりした。

嬉しかった。

「うん」

一瞬、救われましたね。

気持ちがぱっと晴れたような気がしました。

ーーー今、書いていて、声をかけられたことを思い出しました。

そのときの同級生の気持ちをずっと感じられる状況があったら、何か違っていたかもしれないと思います。


私はすぐに、「理不尽な要求をした祖母と何もない状況を好んだ先生達」に「不信感と怒り」を感じました。

台詞で書くとこういうことです。

「大人なんて、対したことない。自分らに都合が良ければいいんだ。こんな絵を描いただけで、騙されるなんて、無能だな」

これを、幼児でも思うんです。

中学生じゃなくて。

残念なのは、せっかくの暖かい言葉も、その台詞によってかき消されてしまったことです。

優しい言葉をかけてもらったことがない、褒められたこともない、愛情って何?、「声かけ」も「ハグ」もないそれが当たり前の日常で、与えられた状況を飲むしかない、

私は余りにも、「無頓着」な子になっていたのです。


家庭環境は大事です。

その子の基礎になるからです。

「基礎」とはいわゆる「暖かい家庭」とか「会話のある親子」とか「暴力のない、平穏な家庭」とか「貧困でも愛がある家庭」、いわゆる「普通の家庭」だと思います。


家に帰ったら「お母さんがお帰り」と言う。

優しく頭を撫でてくれる。

「今日の学校どうやった?」と声をかけてくれる。

お父さんが「ただいま」という。

書いていて、目眩がしそうなくらい「オールナッシング」で育ったな、私。

環境に振り回されるのが当たり前で育った私には、「普通」という言葉は「パニックワード」なのです。本当に残念ですが。

概念でしかわからないから。

こればっかりは、自分では手に入れることは出来ない。

過去は変えられない。


本当に毎日、ずっと暴力にさらされる家庭では、取り返しがつかないことがあると思います。

子供が大人になる、親になる場合、特に。

今、こうやって文章を打っている私は、どうやら「一線を超えずに済んだ」ようですが、、、。



次回〜第五回〜は、「就学前児童検診」のときを綴ります。

著者の坂本 新子さんに人生相談を申込む