海外あちこち記 その15 モスクワ空港の通関で係官とカレンダーの引っ張り合い。
1)ソ連がイルクーツク港などの港湾荷役設備を、日本の円借款で買い付ける商談が昭和50年代中頃にいくつかありました。商社経由の引合いに見積を出しておくと、ソ連の運輸省から仕様説明に来いと呼び出しがかかることがあります。設計課の技術屋さんと商社の人で4、5人のチームを組んでモスクワへ何度か行きました。
モスクワへの飛行機はソ連の国営アエロフロートだとメンテが悪く、機内の冷たい風がいつも首もとに流れ、機内食も塩味が濃いのでJALが取れるとほっとしたものです。成田からの飛行機の眼下に何時間見ても変化がないシベリアの広大な赤茶けた泥地に、アムール川(黒竜江)がのたうつ情景は何度見てもあきることはありませんでした。
井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」という大黒屋光太夫を主人公にした小説で、彼ら一行がペテルスブルグの宮廷までこの原野を沿海州から横切っていったことを読んでいたのでその上空をあっと言う間に移動するのは不謹慎な感じがしました。
仕事で行くようになる10年ほど前に、私的なことで3日程、モスクワに滞在したことがありましたが、ビジネスで行くとなると、パスポートチエックの高い窓口から、こちらを見下ろすウブ毛が光る若い係官の無機質、無表情の顔に出会った時から、早くも共産国に来たと何となく緊張します。
2)昭和50年代半ばのあの頃、通関では日本から持ち込むお客さんへの手土産が、いくつか必ず検査官に抜かれるので、目減りする分だけ余分に持っていかないといけませんでした。特にクリスマス前の日本のカレンダーは、その品質から装飾用や贈答品として人気が高いとのことで、トランクを開けるとカレンダーだけ探され、いつもより多く抜かれるので女の検査官と渡せ、渡さぬと両端を引っ張りあいになったこともあります。
鼻薬というか、アンダーテーブルというかは別として、このような検査官の行為は、マルクス・レーニン主義とは関係ない封建社会ルーツ社会の宿痾であり、また潤滑油でもあるみたいです。
公務員の清廉さで言えば、交通違反の現場で警官が現金を受けとって違反者を見逃すということがない、世界でも数少ない国である日本は、例え警察の上層部が捜査報償費の名目でやりたい放題でも、現場の警察官は現金の受取りをしない伝統を(当たり前のことですが)ずっと続けて欲しいと念じるのみです。 ところでジャカルタ篇でも触れましたが、召し上げた現金や品物は個人でポケットに入れるのではなく組織でプールしておき、年末やお祭りの時に役所の安月給を補う為に役職に応じて組織内で皆で配分すると聞きましたので念のため。
3)ホテルにつくと各フロアーのエレベーターの前にフロントがあり、24時間人が詰めていて出入りをチエックしています。フロントの人はこんなに肥ってもいいのかというオバサンが多かったです。(このフロアーシステムは中国でも昭和57、8年頃までの北京飯店や友誼賓館でも同じでした。)パスポートをフロントに渡してからチエックインの手続きをし、半日くらいして返されます。パスポートを持っていかれるというのは何度経験しても手元に戻るまで落ち着かないものです。 どこの国でも荷物の整理が済むと誰かの部屋に集まり、最初は商社の担当駐在員からその国の仕事の心得のオリエンテーションがあるのは同じですが、ソ連の場合は内容がかなり違いました。
(1)商談が始まると、どの部屋で内部打ち合せしても盗聴装置があるから、肝腎な話は筆談ですること。どうしても話しをして相談したいときは屋外に出てすること。
(2)最終の原価表は常に身につけて置くこと。部屋のトランクの中に鍵をかけて置いておいてもハウスキーピングの時に全部開けて見られるからと。
(3)ホテルから歩いては出ないで欲しいが、もし歩いて道路を渡る場合は青信号でも十分注意すること。
車は党の幹部など特権階級の乗り物だから一般人民をひき殺しても殆ど罪にならないので、専属運転手は猛スピードで飛ばしているからなどなど。
日本の全国紙や「リダーズダイジェスト」という昭和20、30年代のアメリカの反共月刊誌で共産国のイメージをたっぷりインプットされている若手貿易マンにとっては、さもありなんと素直に納得でした。ソ連邦が崩壊したいまのロシアの事情はどうなのか大いに興味があります・・。
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