大学生までABCしかできなかった私がヨーロッパで働いている話~現在進行形~まとめ前編
個性溢れすぎな面々でした。
なかでも元売人のルームメイトのクリスはホテル到着後にお金をもっていなかった私にお金を貸してくれたり、カナダの危ない部分を教えてくれたりいろいろと世話になりました。
皆さんには絶対お勧めしませんが、そんな環境にいると3日もすれば慣れてきます。
バーバラ
この人に会えたから今の自分がある、そう言っても大袈裟ではないと思います。
彼女はここに来る前、世界でも指折りのホテルチェーンの部門マネージャーでした。
黒人(南アフリカ出身)というどうしようもない事で差別を受けた事もあったそうです。
自国が貧しいため移民としてカナダに渡り、様々な困難に耐えながら今の地位を築いてきました。
なにより人の使い方がものすごく上手い。
人をかなり削ったにも関わらず一人一人の負担はほぼ変わらず、自ら率先して動きます。
これがマネージャーのあるべき姿だと初めて実感しました。
そしてある日バーバラに呼び出されます。


その時点でカナダに到着後3ヶ月、英語はやっと60%ぐらいわかってきたかな〜っていうレベルです。
当時は全然意味がわからなかったですが年を取るにつれてバーバラの思いが今になってわかります。
『立場は人を作る』やってみないと管理する側の気持ちはわかりません。
姉さん!フィリピン人がいう事を聞きません!
前に書いた通り職場には多くのフィリピン人が働いていました。
仕事に関しては積極的とは言えない人が多かったんですが、もともとお国柄として彼らの意識には『年功序列』というものがあります。
そこに、来て3ヶ月程度、しかも二十歳そこそこの私が昇格した為余計に不満だったんだと思います。
それまでフレンドリーだったフィリピーナ達が急によそよそしくなり、私が管理する日には仕事の内容や進捗も悪く完全にイジメに合っていました。
もちろん支持の出しかたや各個人の能力などもバーバラと幾度も話し合いを重ね1日のプランをたてるわけですがなかなか上手くは行かず、初めて悔し泣きしたのを覚えています。
結局仕事に関してはマシになっていったものの、私に対する対応は変わりませんでした。
そんな時ホテルのGM(ゼネラルマネージャー)からビザの延長を提案されます。
ですがそのとき実はホテルをクビになった時の為にレストランでもバイトをしていました。
ホテルのマネージャーからビザの延長を提案されるとほぼ同時にレストランのマネージャーから寿司シェフをやらないか?と言われます。
朝から夕方まではホテルで働き、1時間休憩してレストランでキッチンヘルプとして夜中まで働くという生活を続けていたのですが寿司シェフになると仕込みがある為ホテルでは働けません。
悩み抜いた末、帰国後食品関連の仕事を考えていた私はビザの延長を断り、ホテルの仕事を辞め、寿司シェフとして働く事を決めます。
この選択が今でも大きく役に立っている事はいうまでもありません。
特に外国人のイメージとして日本食=寿司
必ずと言っていいほど寿司作れる?って聞かれます。
特に海外の寿司は日本人が食べるのとは異なり、全く新しい発想で創られるものも多く貴重な経験となりました。
現在ヨーロッパのシェアハウスに住んでいますが、今の家が決まるときも私が寿司を作れるというだけで倍率40倍の部屋を見つける事が出来ました。
1年間のカナダでの生活を終え、帰国
このストーリーではだいぶ端折ってますがかなり密度の濃い充実した1年間がついに終了しました。
帰国する日は朝4時のバスというにもかかわらず多くの職場の方や友人が見送りに来てくれて改めて来て良かったと実感しました。
そして帰国するわけですが大学を休学してカナダに来た為あと1年また大学生に戻る事になります。
新卒の方が就職しやすいだろうという考えだったのですが帰国してニュースを見るとリーマンショックの影響で『就職率過去最低!』の文字が。。。
ちょっと心配しつつ大学の就職相談課に行ってここまでの経緯を説明すると、職員の方にある程度の会社ならどこでも行けるぞ!と心強いお言葉。
冒頭に教授が言っていた通り私が通っていたのは学力で言えば3流
私の学力はそれ以下かもしれません。。。笑
事実、私が卒業する際の大学就職率は約30%でした。
ですが企業はそれ以上に経歴を評価してくれたみたいです。
結果、早く仕事を決めたかったのであまり就活はしませんでしたが書類選考はほぼ全社通過、4月には何社か内定を頂いていました。
もちろん一般の生徒と比べると2年遅れなので偉そうには言えませんがスムーズに就活を終えられたのはラッキーでした。
後編に続く
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