高木教育センターのありふれた日々(10)

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著者: キョウダイ セブン

高木教育センターのありふれた日々(10)

第九十一章「無知の喜び」

第九十二章「橋下徹さんのこと」

第九十三章「おしゃべり<微積分」

第九十四章「靖国神社のこと」

第九十五章「廃業に追い込まれていく塾のワケ」

第九十六章「電卓、電子辞書、スマホ」

第九十七章「『受験』という硬い話で Youtube 38万回再生」

第九十九章「1%の支持者がいたら、それでいい」

第百章  「祝!百章」

 

 

 

第九十一章

「無知の喜び」

  赤ん坊やペットの瞳をのぞきこむと、その尋常ではない澄み方に驚嘆することがある。まるで心の中が空っぽというか、純粋そのものであることが分かる。ところが、大人の瞳は濁っていることが多い。自分も含めて、打算や妬みや謀略が渦巻いている。

  私も小さい頃は女子が天使に見えることがあった。金メダリストが偉人に見えることもあった。しかし、中学生の頃になると女子も自分と同じイジメもすれば裏切りもする。金メダリストも、自分の教え子に手を出したりする。つまり、タダの人間だと分かってくる。

  何も知らない無知の頃のように、女子をピカピカに見えた方が楽しかった。メダリストをめざして頑張る人生の方が楽しかった。しかし、もう元に戻れない。それでも、できるだけ純粋な気持ちを維持しないと人生が楽しくない。

  その鍵を私は知っている。ユタでの経験だ。ユタ州は、末日聖徒イエスキリスト教会が作った州だ。敬虔なキリスト教徒が多い。最初、ユタ州に行った時はあまりの親切さやお人好しさに驚き

「こんな人たちが日本に来たら、人を信用しすぎてすぐ騙される」

 と思った。しかし、しばらくすると

「人を信頼できる生活って、こんなに素晴らしいことなんだ」

 と気づいた。良い人たちに囲まれて生活すると人生が変わってみえる。だから、出来るだけ犯罪傾向のある人、素行不良な子、悪意の言葉などから遠ざかること。これが、自分の人生を守ることだと気づいた。

  あれ以来、私は人に何を言われても

「できるだけ素行の悪い人は避ける。運悪く出会ったら、即頭の中から削除」

 と決めている。無知で善意のある人が一番かもしれないが、無知では悪意のある人の犠牲者にさせられる。だから、勉強はするが、基本的なマナーや礼儀を欠いた人には近寄らない。

  たとえば、この地区には八幡祭という行事がある。クリスチャンである私は協力は出来ない。協力するのが当たり前という人は、信教の自由という基本的人権が見えない人だ。私はそういう人が苦手だ。

相手の心の中に土足で踏み込んでくる。

同業者からの妨害も同じことだ。正式に訴えはしないが、違法スレスレのことを平気でやる。泣き寝入りはしないが、無駄に時間とエネルギーを使いたくない。相手の土俵に乗ると自分までバカになる気がする。

自分のやっていることが分かっていない人が多いので困る。

私は、受験に真剣に取り組んでいる生徒を指導することに時間とエネルギーを使いたいのでバカの相手をしている暇はない。数列やベクトルや複素数の問題を解いている方が聖徒のためになる。それが私の仕事であって、誹謗中傷の相手をすることではないから。

第九十二章

「橋下徹さんのこと」

大阪の選挙で「維新」が勝った。でも、考えてみれば広い世界の一都市である大阪の市政と府政の二重構造を改めるだけで、橋下さんのような政治家が8年間頑張ってもムリだった。

 抵抗勢力は受験や学校でも強い。たかが「クラブ活動を自由化する」という変更さえも現役教師が訴えても、保護者が訴えても、生徒が訴えても、50年間訴えても変えられない。イジメで生徒が死んでも変わらない。

どうしてなんだろう。

だから、賢い子たちは「学校離れ」「教師離れ」を起こして内職に励むしかなくなっている。塾や予備校を頼るしかなくなっている。親の経済力で、生徒の学力や進学先が決まるのではないかと心配される状況になっている。

ここ三重県では、最大の業者テストが受験者の減少で倒産。校内順位は相変わらず自分の順位さえ隠蔽。クラブは絶対「強制」。以前よりも締め付けが激しくなっているくらいだ。

ソ連や江戸幕府にも人材はいただろうし、改革もやっただろう。しかし、結局「大崩壊」するまでに至った。結局、学校も同じなんだろうと思う。三重県は日教組が100%という。一般の人では左翼は2割もいない。教員の採用の時に思想の自由を保障しているのだろうか。それとも、採用した後で強烈な洗脳を行うのだろうか。

 怖い話だ。

 日本社会は、明治維新も第二次世界大戦もアメリカの外圧と敗戦で体制変革が行われた。自力では些細な変更もできないらしい。

 情けない話だ。

若者に期待したい。今の大人はダメだ。選挙年齢も18歳に変更になった。大阪に変化が起これば、他の地方も変わる可能性がある。私の話を異常だと感じる皆さんは、三重県のヒドイ左翼教育をご存知ないからだと思う。

私は

「とにかく憲法第九条を暗記せよ」

「クラブは中学3年生の夏休みまで止めさせない」

「明日は給料アップのためのストだから、授業は自習」

「班を組め!分からないところは教えあうのだぞ!」

 こんな教育を受けさせられて、このような左翼大嫌いな大人になりました(笑)。

「おまえは、何様じゃ!」

  ライバル塾の人が私に投げかけた誹謗中傷のセリフです。メールや塾のHPに書かれることもある。たぶん、彼は、2つ勘違いしてみえる。

  • 自分はこういうセリフを言われるとイヤだから、こいつも嫌がるだろう。

  • 英語ができて、そんなにエライと思っているのか。

  • 私は皆さん同様、毎日掃除をしている。家の掃除、教室の掃除、ネットのいたずら書きの掃除、悪戯メールの掃除。さっぱりしてから仕事を始める。「何様じゃ!」と言われても「高木様じゃ」くらいにしか感じない。嫌がると思うのは間違い。

    英語検定1級や京大数学で7割というのは、希少価値がある。その水準まで達するのは楽ではないから。名古屋の7つの大規模塾で非常勤講師を14年間やっても、そういう講師に会ったことがない。

    でも、それは

    「旨いラーメン作りなら誰にも負けない」

     とか

    「足の速さなら誰にも負けない」

     ということと同じであって、無数の分野にそれぞれ達人がいるわけだ。何も自分が特別だとか優秀だとか認識していない。

    だから、私に対する誹謗中傷は的外れであって勘違いの意見を考慮するほどヒマでもバカでもない。つまり、全てスルーしている。腹を立てさせたいとか、傷つけたいとか意図しているのなら無駄なことだ。目的を達していません。

     

    私が相手にしているのは、ユークリッドの互除法とかド・モアブルの定理であって、そういう数学の壮大な世界の中では東大、京大、阪大、名大など全く差はない。受験生の気にするランキングや偏差値の差など無に等しい。

    ネズミが

    「オレ様のシッポの方が長いぞ」

     と言っているようなもので、まるで意味をなさない。

      ただし、人間社会ではその微細な差が大きな扱いの差になることも認識している。練習用のバイオリンと、名器と言われるバイオリンの音の差など私には分からない。しかし、分かる人にはそれが4万円と4億の違いに感じられるらしい。1万倍の違い。

      だから、違いの分かる人には私は価値のある講師らしい。誹謗中傷する人は、その価値が分からない。それだけの違いだ。

      こんな人たちに関わるのはイヤだからスルーしているが、橋下さんは戦っている。好きではないが、その点は高く評価している。私には出来ない。

    第九十三章

    「おしゃべり<微積分」

     友達とおしゃべりするのは楽しい。微積分の計算をしているのも楽しい。比較できるものではない。ただ、どうしても一方しか取れないのなら微積分の計算を取る子もいるだろう。おしゃべりを取る子もいるだろう。

     大人になっても、知り合いと飲みに行くか英語の論文を読むかの選択に迫られたら、飲みに行く人もいれば、英文を読むことを選ぶ人もいるだろう。

    私は微積分や英文を読むことを選ぶ人間だが、優劣をつけるつもりはない。ただ、よく

    「どうすれば英語が身につきますか」

     とか、

    「どうすれば数学ができるようになりますか」

     と質問を受ける。例によって、参考書や勉強方法の話になりがちだが、本当はそうではないのだ。

    人間の才能、好み、置かれた環境、生き甲斐などは千差万別だから類型とかタイプなど軽がると決められない。しかし、統計的に言うと勉強ができる子、特に理系で優れて才能を見せる子は人間関係より数字を重んじる。

    ひがんでいる子が「オタク」と呼ぶ類型だ。おしゃべりや飲み会が好きな人たちは数学や理科の勉強に向いていないことが多い。「愛」「絆」「チームワーク」が苦手で、「しょせん、他人依存でしょ」と思う子だ。

    人間の社会は様々なタイプの人間が必要だから、それでいいのだが、受験勉強に限って言うと

    「友達の必要性がわからない」

     と言うタイプが強いことは明らかだ。おしゃべりやスポーツに打ち込んでいたら勉強時間がなくなる。他人に手を貸すことばかりやっていたら勉強する時間がなくなる。

    「目の前の一人に手を貸すより、研究者になって何万人の人を救う」

     と考える子がいる。そういう子は「冷たい」と言われることが多いが、「温かい」子より結果的に多くの人を救うこともある。そして、私はそういう子を育てるのが得意で使命だと考えている。

      目の前の一人に手を貸す人も必要だし、研究室にこもって何万人を救う人も必要なのだ。優劣はつけられない。つまり、どちらを批判する必要もない。塾講師も、落ちこぼれを救うのが得意な講師もいれば、浮きこぼれを助けるのが得意な講師もいるわけだ。

      ただ、両立は極めて難しい。特別な才能のある子以外は不可能だ。地元中学校では「クラブと勉強の両立だ」と言うが、実態は勉強放棄となっている。おしゃべりが好きというのは、受験の場では私語が多いダメ生徒と呼ばれるだけだ。

      ここで誤解が生じることが多い。私は、塾講師として書いている。人としては書いていない。成績を上げるため。合格するため。その目標を達成するための方法であって、人としての生き方など書いていない。

      別に誹謗中傷をされても構わないが、めんどうくさいから。

     

    第九十四章

    「靖国神社のこと」

    私の父親は戦中派だ。私は父が中国で何をしてきたか尋ねたことがない。しかし、父には無条件で感謝している。靖国神社に祀られていないけれど、父の同世代の方々にも深く感謝している。

    坂本竜馬たちも祀られているそうだが、そういう多くの方たちの尽力の上に今の生活があると思っている。意見の相違はともかく、爆弾騒ぎを起こすことは許されない。無関係の人が巻き込まれて死亡する危険さえあった。

     戦後、日本は左派勢力が大きくなり手ぬるい雰囲気が社会に蔓延している。「目には目を」のやり方が常に有効とは思わないが、行き過ぎの話し合い主義は相手になめられて今回のようなテロを誘発する。

     ものには限度がある。

    靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。

     今の日本は民主主義国家だ。だから、生徒も

    「恋愛が人生で最優先!」

    「学問の研究で生きていく」

    「サッカーを仕事にしたい」

     とバラバラ。それで良いと思う。社会にはいろいろな人が必要だ。みんなが同じでは楽しくない。だから、靖国神社を大切に思う人もいれば、好きになれない人もいるのが正常な状態。違いを受け入れなければ、民主主義国家は成立しない。

      自由をはき違えて

    「爆破するのも、オレの勝手だろう!」

      と言う輩が増えてきた。以前なら、

    「この大ばか者!!」

     とゲンコツが飛んできただろうが、教師の体罰が禁止されて生徒はやりたい放題だ。そのなれの果ての大人も愚かな人が増殖している。受験指導の場では、モンスターペアレントと呼ばれる人が増えている。

      今は学校でコントロールできない状態なので、警察が犯罪として処理することもある。先日も選挙の場で選挙管理委員に暴力をふるったため逮捕されているが、暴力団顔負けの因縁をつけたらしい。

      私の塾でも

    「今、ここで娘を合格させると約束しろ!」

     と言った保護者は何人もみえた。

    「支払った月謝分だけテストの点数を上げるのは当たり前だろう!」

     と迫られたこともある。こういう人たちは、どうしたらいいのだろう。私は丁重に塾を去ってもらった。私の場合はスルーできるほど軽い相手だから問題はないが、靖国神社ではそうはいかない。

      何十万人に一人の犯罪者のために、靖国神社を訪れる無関係の人たちが迷惑を受ける。これは、ハイジャック犯から万引きまで同じこと。1%程度の犯罪者のために巨大な警察組織を必要としている。必要経費なのだろうが、愚かな話だ。

      私も必要経費だと考えているのであまり腹も立たないが、困った子チャンではある。サッサと捕まえて刑務所に隔離して欲しいものだ。

    第九十五章

    「廃業に追い込まれていく塾のワケ」

      30年も塾経営をしていると、目の前でいくつもの塾が廃業していくのを目の当たりにした。子供もいたので、私は倒れていく塾の経緯を研究していた。たとえば、よく保護者から

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