フェンスの外の高校野球~実る努力の3つの条件~

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著者: 田中 翼

日本の夏の風物詩、高校野球。

毎年夏になると球場には球児たちのプレーを一目見ようと人が集まる。

決勝大会の甲子園は全国放送され、球場だけでなくテレビの前にも人が集まる。

大会期間中は特番が組まれ、球児たちの裏側やプレーに込めた思いが語られる。

しかし、気持ちの強さは勝負には関係ない。

結果を決める要素は別のところにある。それが現実だ。

それを意識しない我武者羅な努力は、結果にも結び付かない。

これは、僕が我武者羅な球児だった時の話。





野球を始めたのは小4の頃でした。

友達に誘われて地元の軟式野球のスポーツ少年団に入団しました。

その頃の僕はいわゆる、おデブで足も遅くて運動神経はお世辞にもいいとは言えませんでした。

しかし、体を動かすのは好きで野球もすぐ好きになりました。

小6になるとそれなりに野球もできるようになりましたが、それでもおデブが必死にプレーしている程度。本人が思っているほど体は動いていません。

レギュラーにはなれませんでしたが、しっかりしていたキャラクターだったからなのか背番号0で副キャプテンという特殊な立ち位置をもらいました。

もちろん副キャプテン翼といじられましたが悪い気はしないですね。




中学に上がり軟式野球部に入部します。

練習はそこそこに、試合では代打で出るような選手でした。

守備は下手でしたが、打撃をかわれて背番号は11。最後の試合では代打で出て僕のヒットを皮切りにチームに勢いがついたりすることもありました。

その時のヒットの感触と嬉しさをまた味わいたいと思い、高校でも野球を続けることを決意しました。




高校を選ぶ時、僕は弱い高校でチームを引っ張れる選手になりたいと思っていたのですが、

そのことを父に話すと

それは強い高校に行った方がええよ。

と言われたので「そんなもんなのかな」と思い、県内で甲子園にも出場している強豪高に入学することにしました。




勉強は普通ぐらいだったので入試も苦労せず通り、野球部に入部しました。

しかし流石強豪校。僕を含めて23人の1年生が入部しました。

恐らくその中でも一番下手だったのが僕でした。

入部してすぐは体力をつけるためにランニングが主な練習でした。

僕は、これからは体力がいるから今のうちに全力で練習しておけば早く体力がついて後々練習がしやすくなるだろうと思ったので、ランニングも真面目に取り組みました。



中学校から同じ野球部で野球をしていた北村(仮名)が同い年の中では一番に先輩たちの試合に出るようになりました。

中学でキャプテンも務めていた彼は試合でも活躍し、僕たちの代では将来的にチームの中心になるであろう人物でした。

他にも同い年でも上手い人は先輩たちの試合に呼ばれる中、下手だった僕は裏方の仕事しかできませんでした。


そんな状態が続いていた時、北村がケガをしたと聞きました。

でもスポーツにケガは付き物だと思っていたので、気にも止めませんでしたが、

ある日、北村が野球部をやめると言い出したのです。

ケガが原因なのかはわかりませんが、本人のやめる意思は固いようで、皆止めてはいましたが、結局北村は野球部を退部しました。


彼を含めて合計5人が退部していき、3年生になる頃には僕の代は18人になっていました。



やめていった5人は、僕より野球が上手くて、運動神経がよかった。

野球が上手くなりたい僕は、悔しかった。もっと練習しようと思った。





野球部と言えば練習中は声を出さないと怒られるイメージだが、僕の高校もその通りで常に腹の底から声を出して全力疾走を心掛けるように教えられていた。

僕は教えられた事に忠実にいつも声を出して全力疾走していた。


入部してしばらく経ち1・2年のチームになって、Aチームが遠征に行っている間にBチームは練習したり試合をしたりしてAチームを目指す仕組みになりました。

もちろん僕はBチームで、Aチームへの昇格を目指す日々でした。


秋の大会、同い年の数名と先輩たちのAチームが勝ち進み、僕の高校は春の甲子園に出場することになりました。

しかし、ベンチ外の僕たちは甲子園の土を踏むことはありません。

全国でも屈指の強豪校を2校も倒し、ベスト16をかけた試合で惜しくも敗退してしまいますが、リベンジを誓い、甲子園を後にしました。

と、いうのはAチームのお話で、僕は早く学校に帰って練習がしたくて仕方ありませんでした。







そして2年生になり、後輩が入ってくるのですが、その後輩は中学の硬式野球で日本一になった世代だそうで、まぁ・・・・メチャメチャ上手い。


先輩が引退して新チームになった段階で既にAチームに上がる後輩、Bチームにいる僕。

試合でも活躍する同い年、後輩。できない僕。

それでもチームを盛り上げるために、練習では一番声を出していた。

とにかく練習しないと上手くなれない。そんな焦りを抱えながら誰よりも練習に真面目に取り組んでいました。

その頑張りはチームメイトもわかってくれていたようで、チームで一番の努力家として認めてくれて、試合で結果が出ないときには励ましてくれたり、熱く語ってくれることもありました。






ですが、いくら練習しても結果は出ません。そんな2年の冬、僕は大きな決断をします。

チームで一番の努力家と言われる程に練習を頑張ってもレギュラーになれる道はなさそうだと思った僕は、監督に直接電話をして思いを伝えることにしました。


高2の僕
あの、僕頑張ってもレギュラーになれそうに無いので、裏方に徹しようかと思うんですけど・・・。


これでチームのために働ける・・・と安心していたのですが、

監督からの答えは当時の僕にとって意外なものでした。

監督
それはお前が決めることじゃない。
わしが決めるんや。

本当に意外でした。

僕はてっきり監督も僕みたいな下手くそは早めに裏方に回ってくれた方が楽なんだろうと思っていたので、断られるとは思っていなかったのです。

結局まだ続けることにした僕は、それなら打撃に特化しようと、バッティング練習だけをするようになりました。

そんな我武者羅な努力を続けて少しバッティングも上手くなってきたとき、Aチームの練習試合で代打で呼ばれるようになりました。

上手く結果が出ないときがほとんどですが、たまにヒットも打てました。

しかしそれではAチームには上がれません。




結果を出したいと焦っていたある試合で、



代打で呼ばれた試合で、フルスイングした打球がレフトへ大きな弧を描いて飛んで行きました。




高校野球で初のホームラン!努力が実った!と思われましたが、レフトはフェンスのギリギリのところで打球をキャッチ。レフトフライでした。




フェンスを設置する位置がいつもより広めになっていたと言ってくれる仲間もいましたが、結果が出なければ意味のない話です。レフトフライに変わりはありません。

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