発達障害児を含む3人の子育てを、歌いながら乗り切った話

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著者: 松本 恵

若い勢いで、コロンビアの音楽教師に


四半世紀くらい前の話です。


私立の音大を卒業して就職したものの、

先に夢が見いだせずにいた頃、

「青年海外協力隊」で音楽教師も募集している

ということを知りました。


人生には冒険も必要と応募してみたらあっさり受かり、

南米コロンビアへ赴任することに。


当時は麻薬とマフィアで悪名高かった国でしたが、

そうとも知らず派遣前訓練所に飛び込みました。



申し遅れましたが、松本恵といいます。

東京生まれ、北海道育ち。

父の仕事の都合で転校経験が多く、集団のなかで自分だけアウェイでも、

さほどストレスを感じない方向に育ちました。



さて、協力隊の任期は2年間。

途上国での仕事や生活は「想定外」の連続です。


数々の失敗を乗り越え、刺激的な体験を積みました。

その頃のびっくりエピソードは機会があればまた書きたいと思いますが、

ともかくかけがえのない日々の果てに、

同期の仲間でヴィオラ奏者のユタカと結婚の約束までして、

2年ですべての細胞が生まれ変わったかのような

自信と希望に満ちた心持ちで帰国します。


平凡な幸せから一転、奈落の底へ


帰国・結婚後まもなく長女を授かりました。

新居といってもふるぼけたアパートからの出発でしたが、

家で音楽関係の翻訳などをしながら過ごす満ち足りた日々。


さらに2年後に長男誕生。

4000g以上ある元気な赤ちゃんでしたが、

その4ヵ月後からコロンビア時代どころではない、

予期せぬ、本物のアドベンチャーが始まったのです。


ある夜のこと。

ふと異様な気配を感じてベビーベッドに目をやると、

仰向けに寝ていた生後4ヵ月の弦(げん)が両腕を真横にして突っ張り、

顔を紅潮させて息を止めています。

そのまま10数秒。

そして、ふーっと息を吐いて、コクンと眠ってしまいました。


「何、今の???」


数日後、大きな病院での検査の結果わかったこと、

それはウェスト症候群、別名「点頭てんかん」という、

脳障害に由来する乳児特有の難病の発作でした。


自分の生んだ子に脳障害!

しかも将来的に高率で知的障害を伴うという!


そんな現実、とても受け入れられるわけがありません。

入院治療に付き添いながら、本気で親子心中を考える日々。

恵麻を残してはかわいそうすぎるからと、

弦を背負い恵麻を抱いて、

自宅から近い荒川に橋の上から飛び込むイメージを

入院中のベッドで弦に添い寝しながら、

何度、心に描いたことか。


ただ救いだったのは、夫ユタカが本当に冷静だったこと。


「この人はこの過酷な状況に真っ正面から向き合っている」


弦の発作の再発におびえ、

将来に向けて絶望的な思いを抱えながらも、

やがて私も少しずつ現実を受け入れ、

日常をとりもどしていくことができました。


後に、夫婦げんかで何か月も口もきかないなどということもありますが、

いつも最後に私が思い出すのは、

いざというときに逃げずに私を支えてくれたあの時のユタカの姿です。

(子どもに障害があるとわかった途端に、「オレのせいじゃない!」と逃げる父親がいかに多いか、後から知りました)


弦にはさいわい、その後の発作はありませんでした。



3人目誕生で大混乱のなか、弦の療育を本格化


弦が2歳のときに、3人目の佳那(かな)を授かります。


2歳違いの3人きょうだいですから、ただでさえ育児は大変。

どうやって毎日過ごしていたのかほとんど記憶にありません。


しかも弦は言葉も動作もすべてスローで、

「キャッチアップは難しいかも」という主治医の予言どおり。


今ほど療育のための施設がなかった時代、

弦が3歳のときに専門家の指導を受けながら

自ら療育を始めました。

早朝の散歩(パパの出番)から始まり、

保育園に遅れて登園するまでの朝の2時間、

知覚・感覚を刺激するさまざまなプログラムを毎日実行。

記録を付け、定期的に先生に指導を受けるという生活は、

弦が小学校卒業まで続くことになります。


弦はチェロと出会って、道が拓ける


あれから20数年。


弦はチェロ専攻で私立音大に進学・卒業。

今、プロを目指して引き続き大学院で学んでいます。


小・中と特別支援学級に週2回通級していた弦が

ここまで来られたのは、

まずは恩人というべき先生の指導による療育のおかげ。


そして小3の時にユタカが与えたチェロが、

弦に上手くはまったから。


言葉のコミュニケーションが苦手でも

音楽でコミュニケートできることを

本人が自覚したのを感じて、

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