top of page

16/1/4

子持たずの記(5)

Image by Olia Gozha

 さて十年目にやっと出来た子を育てるのってどんな感じだろうか。甘やかしすぎ、過保護、絶えずその子に注がれるビームのような視線。もしかして喜びの余り、自制心を失って親バカそのものになって、せっかくの子をとんでもない問題児にしてしまったかもしれなかった。その危険性は充分あったと思われる。しかしそれを防いでくれたのは、三年間、長男を育てた経験だった。 

 今思うと里子を育てるには若干客観的であることが必要だった。生まれてから三年半の間の情報が全くないというのは、育児には凄いハンデである。そのため極力冷静になって、周りから学びながら子育てをしなければならなかった。これが後々、次男、そして三男を育てるのにどんなに役に立ったかしれない。


のんびりやには、さらに五年が必要

 なかなか子供の出来ない人でも一回できると続いて出来るものと言われるが、二年経っても三年経ってもそれらしい兆しは見えなかった。ぶつぶつ不満をつぶやく私に、次男が言った。

「僕が生まれるときは、ママが神様にお祈りしてくれたんだろう。どうしてまたお祈りしないの? ぼくが代わりにしてあげようか」

 ほっぺたをぶん殴られたような気持ちだった。

 神様は私にあまりにもすばらしいプレゼントを下さったから、これ以上欲張ったお願いは遠慮しようとか、神様を試すみたいで怖いとか、いろいろもっともな理由を付けてはいたものの、正直言って幼い子供の素直な心には脱帽だった。

 そして五年経ち、ただしを身ごもった。四十二歳であった。

 だれもが私の体を心配した。クリスチャンの母でさえも、体の方が大切だからと反対した。しかし私たち夫婦の決心は揺るぐはずはなかった。十年以上もの長い間、ひたすら赤ちゃんを下さいと祈ってきた。どうして今更「もう遅すぎます。今回はご遠慮申します」なんて言えるだろうか。

 予定日は九月二十三日で、一番大変な時期に真夏を超さなければならなかった。毎朝目が覚めると「ああ、良かった。今日も生きて新しい朝を迎えられた」と思ったほど、毎日が命がけだった。注意に注意を重ねたつもりだったが、十日以上も早く破水してしまい直ちに入院。その夜遅く、三番目の子、ただしが生まれた。全身麻酔は胎児に危険なのでもう出来ず、腰椎麻酔だけで帝王切開が行われた。胃袋からおなかの中の臓器まで全部が引きずり出されるような痛さで私はワァオワァオとわめいていた。その時水の中で出しているようなくぐもった「アワアワ」という声に続いて、勇ましい産声が響き、「男の子です」の一言が耳に飛び込んだ。

 それを聞いた途端、何にも分からなくなった。

 入院中次男がくれた手紙には

「ママ、おめでとう。ぼくはおにいちゃんになった。おにいちゃんは、おおにいになった」と、たどたどしい字が躍るように並んでいた。

 それ以来、長男は「大兄(おおにい)」に、そして後に次男は小さい兄ちゃん「ちいたん」と呼ばれるようになり、今日に至っている。 

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page