アリゾナの空は青かった(1)ツーソン留学記´78:

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著者: Sodebayashi Costa Santos Yuko

(1)ご挨拶
1978年? ウワッ、40年ほども昔のことではないの、と思し召されるな。
今でこそ多くの日本人が海外旅行や留学ができる時代になりましたが、日本が昔からそのようなことがいとも容易くできたわけではありません。ましてや、高卒で親元を離れ都会で一人暮らしをする身には、貯金も思うように行かず。高校時代からの夢であったアメリカ移住の資金ができたのは、30代の入り口をくぐっていました。

1970年代も終わりのアメリカと現在のアメリカの世相は違い、わたしの体験は今を生きる人たちにとり、あまり参考にならないと思いますが、わたしが見てきたアメリカは恐らくアメリカンドリームの代名詞を冠した「良きアメリカ」の最後のあたりかな、と思い返しています。


広大なアメリカは、西海岸の州ひとつ東海岸の州ひとつと取り上げてみても、その距離からして、州というよりむしろそれぞれが他の国のような気すらします。

故に、一言に「アメリカ」と言っても、訪れるその場所その時々によってアメリカは違った姿を見せ、これがアメリカだ!と言い切れることはありません。

しかし、一点において「これこそが」と言えるものがあると思います。 それは、飽くこともなくいつの時代にも、ハリウッドの永遠の大女優のように、その魅惑で世界の多くの若者の心を惹きつけてきたことです。

その昔、「新世界」と呼ばれ、イギリス、イタリアを初め、本国でのうだつの上がらない生活に見切りをつけた人々が、限りない憧れと夢を抱いて苦難の船旅の末たどり着いたアメリカ 。

わたしも、それから時代はずっと後になり、20世紀も後半にではありますが、かつて映画や読書を通してアメリカに魅せられ、身代を売り払って太平洋を飛行機で渡ったひとりでした。ま、たいしたことのある身代ではなかったものの、それでも自分にとっては財産であった。

残ったのは、映画「モロッコ」の女主人公アミー・ジョリーではありませんがが、片道切符とアサヒ・ビアハウスの歌姫バイトで貯め込んだ当座の生活費、そして、ツーソンはアリゾナ大学での大学入学準備のELS (English as a Secound Language)コース受講の学生ヴィザだけです。

貧乏だった大阪の青春時代、アメリカ移住の夢を見続けて、そこまでこぎつけるにはずいぶん年月を経てしまいました。 30の歳、やっとたいして額ではないが目的額を達し、希望とガッツを胸に抱いて1978年1月、当時国際空港だった羽田をアメリカに向けて旅立ったのでした。

いやぁ、あちらでも色々やってまいりました。
では、次回からのアリゾナ留学記、お時間のある方、どうぞ読んで見てください。

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