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16/4/5

facebookでメッセージを送った相手が次の日死んでしまった話 カネ無し・コネ無し・コトバ無し・英検5級で海外で仕事②

Image by Olia Gozha



台風YOLANDA(台風30号)の情報は

インターネットやテレビを通して知りました。


ホストマザーはなぜ亡くなったのか?…

他の人は無事なのだろうか?…様々なことを考えます。






そうだ、フィリピンへ行こう」

思っていても始まりません。

とにかく任地へ戻りたいと思いました。


しかし・・・落ち着いて、冷静に考えます。

11月8日に台風が上陸し、11月中旬、下旬にレイテ島へ向かったらどうなるだろう?


恐らくそのままレイテ島へ向かっても、

被災者の水や食料、寝床やトイレを供にしなければ、ただの足手まといになります。

災害直後に現地へ行ける人は「医者」「救助隊」「自衛隊」くらいです。

自分で寝床や水、食料を持って行けない人は、災害直後被災地へ入るべきではないと思いました。


はやる気持ちを押さえ、今できることを真剣に考えました。

まず自分が「出来ること」「やらなくてはならないこと」は何か考えました。


殆どの日本人にとって観測史上最大の台風が上陸したフィリピン共和国のレイテ島なんて、知らない島に違いありません。そのため、まずは多くの方に今回の災害を知ってもらうことから始めました。


1度に多くの方へ知ってもらう方法・・・何かないかな?

色々考えた結果「多くのメディアを通し、多くの方に知ってもらう」との結論になりました。


1度に多くの新聞社、テレビ局へ配信される共同通信へ情報提供し取材してもらおうと考えました。



共同通信は共同通信加盟社へ情報が送られるので、うまくいけば日本全国の新聞社へ台風30号の詳細情報が送られます。


そう思っていたところ、青年海外協力隊時代の共同通信の繋がりや、JICA経由で共同通信から私の携帯電話に連絡がはいりました。


共同通信「共同通信の○○と申します。土田さんの携帯で宜しかったでしょうか?」

「はいそうですが?(思っていたら本当にかかってきた・・・)」


思っていたら、本当に共同通信から連絡が入り吃驚しました。


その後レイテ島で活動していた隊員として、NHKやテレビ朝日のモーニングバードに電話出演させてもらい、地元新聞も大きく取り上げてもらいました。


また、日本経済新聞へ掲載させてもらい、大きな反響となりました。

(当時の記事)

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1300K_T11C13A1CC0000/
















さらに数日後、私の携帯電話へ知らない番号から電話が入りました。

電話に出てみると・・・





「あqswでfrgthyじゅいkぉつーちーだーんさ」


「なんだこれは・・・」





私はイタズラ電話だと思い電話を切ってしまいました。

その後もう1度同じ番号から電話が入りました。恐る恐る出てみると大人の男性からでした。




「園児がいきなり電話に出まして大変申し訳ございません。」


その電話は徳島県のナーサリー富田幼児園の園児からの電話でした。

詳しく園長先生から話しを聞くと、幼児園では新聞を使った教育を行っており、園児が地元新聞(徳島新聞)の中から私(土田)の記事を発見し、手助けしたいと申し出てきたのだ。


台風30号でレイテ島が被災し、土田が「多くの日本人にレイテ島の惨状をもっと知ってほしい」と言っている。園児達で出来ることは無いだろうか?じゃあ土田さんに電話しよう!!


そんなことで、色々なコネを使い私の携帯電話番号を探し当て、電話してくれました。今思えばよく探してくれたと思います。


↑(幼児園で作ってくれたフィリピン新聞)


そして園児から質問が来ました。

園児「どうしたらフィリピンの人達を助けられるの?」

「そうだね、お父さんやお母さんに新聞のことを説明したりして、沢山の人に知ってもらうことが大切だよ。」

園児「その後は?」

「・・・募金活動などかな。」

園児「わかったー!!」


園児の力と行動力は、驚くものがあります。

数日間で多額の募金を集め、私に台風の被災者のために使ってもらいたいと申し出てきました。


私は「このお金を被災地へ必ず届ける」と約束し、フィリピンへ向かう計画を立てました。

そして2014年3月。被災地が落ち着いてから、私はレイテ島へ戻ることにしました。







しかし

「戻りたいけど戻りたく無い」





気持ちは複雑です。

きっと凄い盛大なドッキリでホストマザーは普通に生きている。

いや、台風が上陸したなんて、まだ信じられませんでした。


そして私は1週間休暇を取り、フィリピンへ向かうことにしました。

名古屋国際空港(セントレア)からフィリピン(マニラ)へ。マニラで1泊し、マニラからレイテ島へ向かいました。


タクロバン空港へ到着すると、空港の荒れ果てた姿がありました。

空港へ続く道も大きく変わっております。


台風から5ヶ月経ちましたが、潰れた家が多く、復興はまだまだです。

よく使ったレストランも、柱と屋根枠しか残っておりません。




道路の中央分離帯に墓地が沢山ありました。


地元の方に聞くと、台風後に遺体を埋める場所が無かったので、仕方なく空いている道路の中央分離帯へ墓地を作ったのだと。


今回の台風で多くの方が亡くなったのですが、墓標の数が少なく違和感を感じました。


墓標をよく見ると、1つの墓標に多くの方の名前や家族の名前が刻まれております。

つまり1人の墓標でなく集団墓地でした。



本当に改めて多くの方が亡くなったことと、

台風の悲惨さが身に染みて分かりました。


そして2年半お世話になったホストファミリーの家はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)

から支給されたテントを使ってました。


私もこちらのテントで数日間供に寝泊まりしましたが、昼間このテントとても熱く、その熱さ(余熱)が夕方まで残り、寝苦しい夜とデング熱を持つ蚊に悩まされながら過ごしました。


そして青年海外協力隊時代にプロジェクットを立ち上げ作成した、魚の養殖場へ行きました。

レイテ島へ来る当初から気にしてましたが、どうなってるのか心配でした。


しかし養殖場へ行く前から既に漁民の雰囲気で心配です。



「確か空が見えないほど、ココナッツの木があったと思うけど・・・」

漁民「台風で倒れたり、折れたりして無くなっちゃったよ。」

「・・・。」

この時点でそうとう凹む。

そして恐る恐る養殖へ行くと・・・


養殖場は台風の影響で全滅。


苦労して刺した竹枠も、雨の中取り付けた網も無くなってしまった。

私は落ち込み、他の漁民も落ち込む。


漁民「・・・。」

「・・・。」


しかし落ち込んでも仕方が無い。

漁民皆で集まり、今後どのように構築するのかミィーティングを行うことにしました。


「仕方ない。とりあえずミィーティング開くから漁民の皆集めて。」

漁民「ミィーティングはいつやるの?」

「いつまでも待っていられないから今日の午後1時から!」

漁民「今日の午後1時!?わかったよ。皆に声かけてみる。」


急遽決めたミィーティングであったが、何と20人近く漁民が集まった。

どうやらレイテ島に私が来たことが町の噂になっていたらしい。


そこで漁民みんなのやる気を確認し、養殖場とレイテ島の未来について語り合った。

大切なことは、指示することでなく、やりたい事を聞き出し支援すること。


指示したものをやらせても、私が居なくなったりリーダーが不在になった場合、プロジェクトが止まったり無くなってしまう恐れがあるからだ。


もし彼らのやりたい事を支持し、本当にそれで収益が向上したら、彼らの自信につながる。

「漁業以外でも収益を得られた!」と自覚し、意識の改善が起きるからだ。


意見を聞き出し、本当に「養殖場を復活させたい!」という意見が多く出た。


私に出来ることは、被災地への義援金を上手く養殖場修理へ回すことや、JICAやNGO関連に情報を投げ支援をしてもらうこと。


そして幼児園から預かった大切な募金を渡すことぐらいだった。


募金は青年海外協力隊隊員が被災地で活動する際の、子ども達への活動費や文房具費に当てることにしました。


日本の子ども達の支援が海を越えフィリピンの子ども達への支援に繋がる。



「少しは役に立てたかな?」そう思い、最後の目的地に行く決意ができました。














最後までホストマザーの墓場へ行くことは躊躇しましたが、

やはり自分の目で確認しなければなりません。


そこには確かにホストマザーの名前が記載されておりました。

何というか「不思議な感覚」です。


ただ単に名前が記載されている「何か」を見た感覚です。

しかし、その夜。


確かに無くなったことを確認させられました。



それはホストマザーの娘が「GOHAN DESUYO(ご飯ですよ)」と私に夕食を持って来たのです。

「GOHAN DESUYO(ご飯ですよ)」という日本語は、ホストマザーが私へ使っていた言葉です。


それをホストマザーの娘が私へ”ホストマザーの真似”をして使っていました。


それを聞いた私は「無理して真似してくれてる。あぁ…確かに、もう居ないんだな。亡くなったのだな。」と感じました。






・・・泣きました。

亡くなったことと、亡くなったことを認めたことに泣きました。


その夜、テントの中でレイテ島のために日本に居ながら何が出来るか考えました。

フィリピンだけでなく、日本のためにも出来ること。






狭く汗とカビ臭いテントの中で考えました。

幸い考える時間は沢山ありました。






どうしてこうなったんだろうと、昔のことを少し考えてみました。

・・・思えば東京でデザイナーとして働いていたあのとき。




青年海外協力隊の試験を受けたとき、私の人生は人のために始まったと思いました。







あのとき、漫画を描いてなければ

あのとき、東京の会社に就職してなければ

あのとき、美術館に行かなければ

あのとき、映画を見なければ

あのとき、試験で鉛筆を転がさなければ

あのとき、英語ができなければ

あのとき、現地語を頑張らなければ

あのとき、facebook をやらなければ





これは私のリアルなストーリーですが、変わった人生だと思います。

そんなことをテントの中で考え朝を向かえました。





結論として、日本の仕事を頑張りつつ、養殖場を復活させ被災前より大きな養殖場にする。

そう思い、私はフィリピンを後にしました。






そして台風から数年後、レイテ島タナウアン町の養殖場は各国の支援を受け大規模になりました。

【2015年の状況】

http://www.jica.go.jp/mobile/topics/2015/20160229_01.html






遠い国からのニュースと町の人々の笑顔を見て

あのとき英語が出来なくても志だけで立ち上がり、行動して良かったと思いました。


諦めなければ、人も、地域も、自分も、未来も変えられます。

もし、このストーリーを読んだ人がいたら感じてもらいたい。


人生はあなたが思っている以上に素敵なもので、未来は明るい。


生きる上で様々な迷いや誘惑があるが、遠くの大きな目標さえ決まっていれば寄り道したっていい。

人生は大海原を進む小さな舩みたいなもの。


遠くの島がゴールだとして、目標が決まっていれば迷っても着くことができる。

迷っているようで、遠くを見ていれば最短距離になる。


だから、このストーリーを読んだあなたは、もし生きる上で迷いや戸惑いがあったら迷わず進んでもらいたい。





そしてあなたの未来を想像してほしい。

そこには過去を後悔していない貴方が居るはずだ。
















最後に
兵庫中学校3年4組の生徒に送る。





誰も未来は分からない。

夢が無くとも未来を恐れず、今を全力で生きてほしい。






今を全力で生きれば未来は明るくなる。

こんな僕がそうだったのだから。






もう一度言います。

あなたが思っている以上に未来は明るい。






(長文・駄文 失礼しました。)

土田 哲也



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