場所
場所
①
もし、無宗教で死の問題を解決する方法があったとしても、そこには受け入れなければならない死生観は存在しません。これまでに解決の例を紹介してきましたが、それらを受け入れようとする方法ではありません。もし、そのように考えるなら本末転倒です。自分の問題は解決してみなければ、どのように解決するか分からないのです。
もし、無宗教で死の問題を解決する方法があるなら、それを教える場の話題は技術論ですから、ある程度の無価値観が達成されます。たとえば、スポーツジムでスタジオレッスンを受けるときの話題は手の振り方やステップの踏み方など体の使い方が中心です。そこには身体に対する哲学が背景にあったとしても、個々の価値判断の入る余地はほとんどありません。
もし、無宗教で死の問題を解決する方法が、がん心理を扱う学問の技術となり、その方法の移転が可能であれば、外来のような場所が方法を伝える窓口になります。すると、窓口は全国どこにでもあるわけですから、特定の場所に出向くための時間と場所の制約は少なくなります。
また、方法とは自転車でいえば補助輪の役割です。補助輪とは自転車に乗ることではじめて補助の役目を果たします。そのため、自転車に乗ろうとするときが「その場、その時」ですから、場所と時間を選ないのです。仕事と治療と問題解決は両立できるようになるかもしれません。ただ、補助輪に動力はありませんので、ペダルは自分でこがなくてはいけません。しかし、熱心にこいで距離を走れば、その分だけ解決に近づいているのかは分かりません。分かる人がいれば教えてもらいたいものです。
方法自体にコストはかかりません。道具も薬も不要ですから、費用はほどんどかかりません。誰かの支出の削減は、誰かの収入の減少です。それを生業とする組織は存続することができません。価値観を打ち出すわけではありませんので組織は必要ではありあせん。組織がありませんので、何かに所属する必要もありません。そうなれば無価値観化はさらに達成されるでしょう。
②
がんの告知によって、死を察知した命は危機を回避しようとします。一方、死を察知した命の震えは、個人差はありますが、死の問題として私たちの前にあらわれます。
この局面において、死の問題を解決するために死を見つめることは、死に近づこうとする一面がないとは言えませんが、決してそれだけではなく、死の問題という仮想の死を解決することで、死の回避を願う一面もあるのではないかと思います。
それを考えることで解決しようすると2つの問題に直面します。ひとつは「どうのように考えれば良いか」というHOW TOの問題です。それにこたえようとするのが無宗教での死の問題を解決する方法です。
もう一つは、死を考えると必然的に経験することになる孤独の問題です。原因は自分、他人、文化、そして、それらの背景にあるものが複雑に関係しているのですが、結局は自己防衛と自己規制にあります。
無宗教で死の問題を解決する方法を伝えるときの話題は、悩みの内容ではなく「悩み方」や「考える仕方」ですから、テレビのカウンセリング番組のように自己開示をあまり必要としないはずです。それに伴う勇気や他人への配慮もあまり必要としないはずです。そのため、自己防衛と自己規制の構えをあまり崩さなくても、「どのように考えれば良いか」という話し合いが可能になるかもしれません。
闘病記には治療時の問題解決集という性格があります。死の問題を考えようとすれば直面するHOW TO と孤独という問題。それをクリアできるかもしれない「死について安全に話せる場所」。安全とはナイーブなこころが傷つけられないという意味です。それがどこにあるかという問題は、ついに解決できませんでした。
もし、無宗教で死の問題を解決する方法があるとすれば、それを伝える場は無価値観です。変則的ではありますが、無価値観という場に、死の恐怖、死の回避、自己防衛、自己規制という四本の動かしがたい線にふれないように引いた「死について安全に話せる場所」が存在するのかもしれません。
●コメント1
無宗教で死の問題を解決する方法のアタリはついています。
●コメント2
最終回です。最後まで読んで頂いてありがとうございます。
著者のhataya kazunoriさんに人生相談を申込む