思い出のバスに乗って:海の幸山の幸

著者: Sodebayashi Costa Santos Yuko
大正14年生まれだった母は9人兄弟であった。

その長兄は太平洋戦争で若くして死んだと聞くから、戦後生まれのわたしは知らない。母を筆頭に8人兄弟となり、7人がわたしの叔父叔母になる。わたしと妹は、このうち二人を除いて5人の叔父叔母と、祖母が構える弘前下町の大所帯で、幼い頃を共に暮らしたことになる。

母のすぐ下の叔父は当時すでに結婚していて独立、そして、女姉妹で一番若い叔母が東京に出ていて結婚も間もなかったころであろう。わたしは、この叔母の若いころに似てるいるとよく言われたものだ。わたしは祖母の初孫にあたるのだが、母は食い扶持稼ぎに、なにかとその日の小さな仕事を見つけては家を空けることが多く、留守をまもる祖母が母代わりであった。

その祖母は、秋になると山菜採りに山に入るのである。弘前の町からバスで小一時間も走るのであろうか、岩木山の麓の嶽(だけ)へ温泉に浸かりがてら、キノコ、筍、ワラビなどの山菜を求めて入山するのだ。祖母が採る山菜はごっそりとあり、それらは塩漬けにされ長期保存食料となり、時折食卓に載る。何と言ってもおいしかったのは、細い竹の子を入れたワカメの味噌汁である。

後年この祖母の慣わしを引き継いだのが母とすぐ下の弟だ。母も叔父もその季節になると、山へ入って行った。そしてどっさり採った山菜をカゴや袋に入れて抱えて来る。だが、決して二人が一緒に同じ場所へ行くことはない。それぞれ自分だけが知っている秘密の場所があるのだ。これは釣り人の「穴場」と同じである。叔父は釣り人でもあったので、山菜採りがない週末などは、数人を連れて早朝に川へ車で乗り付ける。海の幸山の幸を知る人たちであった。

その叔父は、知り合いの工場に頼み込んで、採った山菜を瓶詰め缶詰にするに至った。わたしが帰国する度に、弘前から缶詰の細長い竹の子やワラビなどが、宅急便で届けられるのだ。

さて、母は60を過ぎてからの晩年、所沢にある妹夫婦の家族と共に暮らしたのだが、そこでも近隣の林や森に入って山菜探しが始まり、いつの間にかしっかりと自分の秘密の場所を見出して、秋に入るとキノコ、ワラビを採ってきては所沢のご近所に配るようになった。毎年それを楽しみにする人もいた。所沢に移ってからも、70半ばまで脚が元気なうちは、弘前の田舎へ帰り毎年のように山での山菜採りは続いていた。

母より若い山菜ライバルの叔父が先に身まかった時、言ったものである。「とうとうわたしに秘密の場所を明かさないで、あの世まで持って行った。」と。そういう母も、叔父には自分の持ち場を明かすことはなかったようだ。

母が亡くなった今、祖母からの、いや、恐らくはそれ以前のご先祖さまの時代からの
山菜の見つ方、見分け方、そして秘密の場所の秘伝は途絶えてしまったことになる。

都会に出たわたしは、母や叔父が採ってきては、味噌汁や煮物にした、かの細長いしなやかな竹の子を一度も見かけることはなかった。母や叔父の秘密の場所はいったいどこだったのか。なんだか可笑しさがこみ上げて来ると同時に、わたしは時々、倉本聡のドラマ「北の国から」の最終回で、主人公、黒板五郎が二人の子供にしたためる遺言の言葉を思い浮かべる。
「金など欲しいと思うな。自然に食わせてもらえ。」

海の幸山の幸を自ら捨て去り葬って来たわたし達現代人には、到底書けない素朴でありながら重みのある遺言である。

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