自分らしくを大切にする人生 その5 ~受け入れてはもらえなかった、父と母へのカミングアウト~
20代後半、北海道大学文学研究科修士課程を卒業し、国際協力機構JICAに入った僕は、両親にカミングアウトをしました。
僕の実家は岡山県津山市(旧勝北町)。中国山脈にあり、このようにのどかな田園風景が広がるところです。父と母は酪農業を営んでいて、専業農家。
大学時代に生まれてはじめてのカミングアウトをした僕。友人のI君に何時間もかかっての初のカミングアウトをし、その後は同じ部活の友人、大学院の研究室の人、指導教官など、自分がゲイであるということをカミングアウトするようになりました。
カミングアウトはその行為自体がとてもセンセーショナルだったり、注目されがちですが、実はその後がとても大切だと感じます。つまり、ゲイだと正直に伝えることで、相手も僕をゲイだと認識するようになり、その上で築いていくことのできるいける人間関係があり、それを大切に作っていくこともカミングアウトの大切なプロセスの一つ。
それまでは隠していて言えなかったことを話せるようになることで、相手も僕をより深く知り、二人の間でよりいろんなことが話せるようになってゆきます。
僕は大学からカミングアウトを続けていますが、これまで否定的なことをおっしゃる方に出会ったことはほとんどなく(というか、記憶する限りゼロ。)、みなさん、そうなんだね、とか、言ってくれてありがとう、と受け止めてくださっています。
このように自分の周りにも言えるようになり、ゲイであることを隠さず生きれるようになって、新しい人間関係が周りと作れるようになった僕。その時、やはり家族のことが頭によぎりました。
また、結婚の話も話題に出るようになって、親にその話をされるたびに、自分は違うんだけどな、本当はゲイなんだけど、って何も言えない僕がとても歯がゆくも感じていました。
親にも知ってもらいたい。
僕はゲイとしてカミングアウトできて、こうしてゲイであることを誇りに思えるようになってきて、だから両親にもちゃんと知ってもらって、その上で両親といい関係を作っていきたい。
世界に二人しかいない、僕を産んで育ててくれた両親。特別な存在。その特別な二人と、もっと正直に、もっと言い関係を作りたい。
そう思うようになりました。
しかし、結果的にはそれは僕の一方的な期待で終わってしまったのですが。。。
大学で生活していた札幌ではLGBTのコミュニティがあり、当時はレインボーマーチ札幌というパレードを大通り公園で行っていたりと、とても活発な活動がありました。そのコミュニティでたくさんの人と知り合いましたが、その中に「親の会」という会もあって、LGBTの子どもを持つ親達の会でした。
その存在を知ったときとてもうらやましく思いました。
親にカミングアウトして、それで親も理解してくれて、
セクシャリティを隠さず伝えることでより深い親子関係が生まれて。
「僕も、そんな親子関係を作ってみたい。」
と思いました。
ゲイであるということは、別に選んで生まれてきたわけでもなく、ただそのように生まれてきただけ。
それでいろいろ悩んだし、自分を否定したり、高校時代は絶対にばれないようにって誓って生きていたけれども、ようやく自分を受け入れられるようになり、カミングアウトをしたりと、今は本当に幸せだから、そんな幸せな僕を知ってもらいたい。
そう思って、親にカミングアウトをすることをより具体的に考えるようになりました。
その一方で、タイミングには気をつけようと思い、
就職しないうちから親に言うと、「仕事に就けないんじゃないか」「将来困るんじゃないか」、そんな風に心配されるだろうから、就職するまでは待とうと決めたのでした。
20代後半で僕は、国際協力機構JICAの職員になりました。JICAはODA(政府開発援助)を行う独立行政法人です。倍率も高く、給料も国家公務員並みで、海外出張も多くて英語を使う仕事。
そんな仕事に就けたということで、親はとても喜んでいました。
そんな姿を見て、このタイミングなら親も心配しないだろう、と思い、
ある正月の帰省の時に、両親にカミングアウトをしたのでした。
言い逃げは嫌だから、
帰省する期間の前半で言おう、そしてその後ちゃんとフォローが出来るように、
と思って、帰省した2日目くらいにカミングアウトすると決めました。
夕食の後、両親に、
「話があるんだけど」
と切り出した僕。
テーブルに二人座ってもらって、話し始める僕。
これまでそんな切り出し方をしたことがなかったので、とても心配そうな顔になる両親。
勇気を出して僕は、
「実は僕ゲイなんだ」
って言いました。
「そうか、まあびっくりだけど、お前が幸せだったらいいんじゃないか」
そんな言葉を期待していたのですが、
両親とも一気に顔が曇りました。
そして父親も母親も心を取り乱して、いろんなことを僕に言ってきたのでした。
父親は、
「これは両親に対する裏切りだ。」
と言いました。
「これまで小さい時から大切に育ててきて、高校、大学、大学院と行かせて、お金も支援してきて。これから結婚していくと思っていたのに。」
「だめだ。」
と。
母親は、自分の運命を恨んで泣いていました。
「嫁いできて、しんどい思いもいっぱいして、そしたら今度は子どもがこんな風になって。」
「私の人生はとっても不幸だ。」
と、ワンワン泣いていました。
理解しあえることを期待していた僕は、もうどうすることもできませんでした。
「ゲイっていうのは別に病気でもないし。僕はお父さんとお母さんにも感謝しているんだよ。」
「これからもがんばって生きるから」
と言ったことを伝えても、
とにかく二人はシャットアウト。聞く耳を持ってくれませんでした。
結局話し合いは途中で終わり、それぞれの部屋に帰っていきました。
僕は部屋でふとんにうずくまり、どうしたらいいのか本当にわからなくなりました。
自分の生まれた家なのに、両親の反応もあって、ものすごく居心地が悪くなり、真っ暗な夜スーツケースを持って飛び出そうかと思いました。
もちろん飛び出しても冒頭の写真のようにただ田んぼと山が広がる田舎。どこに行くこともできません。
ただただ、涙が出てきて、胸が本当に苦しくなりました。
わかってもらえない。
裏切りだと言われた。自分の運命をうらまれてしまった。
これまで周りの友だちや知り合いにカミングアウトをしてきてとてもいい関係がつくれるようになっていたのに、両親に対するカミングアウトはこんなに違った。その現実をどう受け止めたらいいのかさっぱり分からず、気付くと、札幌の知り合いに泣きながら電話をかけていました。
そして深夜遅くになって寝ようかと思ったとき、母親が部屋に入ってきて、
「さっきの話だけど、治らないのか?」
「ずっとそうじゃないだろうし、いつかかわるから、決め付けないで治そうとしなさい。」
そんな風に言われました。
「治るもんじゃないんだよ。自然にそうなっただけなんだよ。」
と言っても、母親も全く引き下がらず、
最後は僕は、
「もう寝たいから出ていってくれない?」
と母親を部屋から追い出したのでした。
たまたまゲイとして生まれてきて、自分は別にゲイになろうと思ったことなんて一度もなくて、
気付いたらゲイだっただけ。
それなのに、親から「治せ」と言われる。
それまでの人生でこれほど両親と衝突したことがなかったので、ここまで親にしかられ、泣かれ、つらそうな顔をされるというのは本当にきつかったです。
逃げ出したいと言う気持ちにしかなりませんでした。
ただ、母親は少し理解のある発言をその後してくれたのでした。
カミングアウトから二日後東京へと戻るため、母親が岡山空港に送ってくれたのですが、その車の中で、
「考えてみたら確かに女のことばかり遊んでいたし」
と。
さらにびっくりだったのですが、母親も悩んだのでしょう、
「親戚のおばさんや、牛飼いの知り合いの~~さんにも相談してみた」
って言うのです!
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