自分らしくを大切にする人生 その5 ~受け入れてはもらえなかった、父と母へのカミングアウト~
早!
相当ショックで母親としても相談せざるを得なかったのでしょうね。
僕もきつかったですが母もきつかったのでしょう。
ただ、この会話を最後に、現在39歳ですが、今まで全く自分がゲイであると言うことについて、両親と会話をしていません。
だからといって絶縁関係になったわけでもなく、今も両親とはいい関係で、僕のことを応援してくれてもいるのですが、ゲイということについてはノータッチを続けています。
僕は、今のところ、これでもいいのかな、と思っています。
当事者の子どもからすれば、「理解してほしい」、「ありのままを知ってほしい」、「その上でいい関係を作りたい」、と思いますが、それはあくまで子どもの勝手な期待なんだな、って今は冷静に思っています。僕がそう期待しても、両親がそうあってくれるかなんて、まったくわからないもの。
血は繋がっていて、お互い応援しあっていても、お互いに理解できないこともある。
血は繋がっていても、別の人格。別の人。
また、僕は2年前までサンフランシスコで半年ほど生活しましたが、
例えばこんな風に男の子同士が手をつないで歩いていても、全く目立たない、だれも特別視しない環境がサンフランシスコでした。
あの田んぼと山に囲まれた田舎で、酪農業をずっと営んでいる両親ですが、
もしこうしたサンフランシスコに生まれていたのなら、きっと全く違う考え方を持ったと思うのです。
つまり、環境や社会によって、何がいいのか、悪いのか、も全く違ってくると思います。あの田舎で育った二人に、いきなり「ゲイ」のことを理解しろ、と言ってもそれは難しいことなんだな、と今は思えています。
ですから、無理に今は両親にこの話を蒸し返したり、理解してもらおうとすることはなくなりました。
でもだからと言って、自分がゲイであるという生き方を変えようとは全く思わないですし、自分は自分がゲイであることを誇りに思っています。
そうであっても理解してもらえないこともある。血の繋がった両親と言っても別の人。
しかし、それでも大好きな両親でもあり、尊敬の念を抱いています。
父は酪農業一筋ですが、僕が小さい頃は田舎でもたくさん酪農家がいましたが、自由化の流れでどんどん小さな酪農家はなくなっていき、今では町でも数件しか残っていません。
また酪農は休みがありません。毎日、毎朝、毎晩搾乳をして、24時間牛の管理をしなければいけない大変な仕事。
それをずっと続けて着ている、つぶれないでやり続けているというのは、父親は本当にすごいなと思っています。
また、人気者でもあるようで、例えば中学校の頃大人の人に町で話をして、「どこの子だ?」と聞かれて、父親の名前を出すと、みんな「あー、~~さんの息子か」と知っていたのにはびっくりでした。
そのくらいみんなとのネットワークを持っている父。だからこそ、この厳しい酪農業で、破綻もせず続けて来られているのだと思います。その人間力には脱帽です。
また、母親はとても天然で、愛情いっぱいの人。
東京で1人暮らしをする僕によく食べ物を送ってくれるのですが、僕からは実家で作っている米を送ってね、とお願いしても、
届いた荷物は、このとおり、
米が見えません。これを掘ると米が出てきました、笑。
そのくらい食べ物でいっぱい。
昔は、何でお願いもしないものまで送ってきて、なんてひねくれたことを思っていたのですが、
「これが母の僕に対する愛情なんだ。」
って思えたときから、なんてありがたいことなんだろう、と感謝の気持ちしか出てこなくなりました。
息子のことを思って、出来るだけたくさんの食べ物を送ってやりたい、という純粋な愛情。
その見返りを求めない愛があふれる母親にも脱帽です。
と、ゲイであるということについては、あれほど相容れなかった両親と僕ですが、今も良好な関係です。本当に二人には感謝の気持ちしかありません。
両親に感謝の気持ちを込めて、今回のストーリーの筆を置きたいと思っています。
ps ちなみに、家族の話をすると、僕のおばあちゃんはとっても元気。
大正生まれで、今年で92歳。
足腰も強く、実家の2階に住み、階段を上がり降り。畑で野菜を育て、グラウンドゴルフに毎週出かけ。
ぼけることを知りません。
昔川で釣ってきた魚を庭の池に放して飼っていた僕。ある日の夕ご飯で魚のから揚げが出てきて、どこの魚かおばあちゃんに聞いたら、
「池の魚だ」
と言われたときは、もうこの人、人間じゃない!!!
なんてぶちきれたものですが、
そのタフさが、この祖母を92歳にして、この元気さにさせていると思うと、これも感謝ですね。
笑。
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