自分らしくを大切にする人生 その9 ~アメリカで婚約した恋人と別れ、お金も、夢も、家も失う。でも本当の僕までは失わなかった。自分らしくより強くなれた経験です。~
カレンキングストンのガラクタ整理セミナーを受け、ガラクタ整理をとことん行うことで、人生が好転。ガラクタ整理師になり、本も出し、その後、オーストラリアで知り合った男性とアメリカで生活。しかし、ある日突然別れがやって来ました。
ガラクタ整理を知ったことで僕の人生は本当に変わりました。
自分の気持ちがいいものだけ残して、自分の気持ちの下げるものは手放す。それをどんどん実行していくと、あんなにものでいっぱいだった家がみるみるすっきり。そしてその経験を知り合いに話したことがきっかけで、講演をする依頼をいただくようになり、講演を続けいていたら本まで書くことになり。
3冊の本をPHP出版さんから出させて頂きました。
このように人生がどんどん変わる中で、
オーストラリアとアメリカの瞑想の学校にも僕は通うようになりました。これはクレアビジョンという西洋の瞑想の学校。オーストラリアとアメリカに本拠地があります。
2009年に始めたクレアビジョンで習った瞑想も、今年2016年で7年目。7年間毎朝瞑想を続けています。瞑想により、自分の中心の軸にもどってくる感覚があり、心が落ち着きますし、思考もクリアになりました。
そんな瞑想の学校である年、オーストラリアの学校の敷地にキッチンを建設するため、「ビルディングチーム」というボランティアが募集されたことがあり、僕はそれに参加。
1年近くのボランティアで、
この2階建てのキッチンをみんなで建てたのでした。
ちなみに、プロジェクトリーダーはエンジニアでしたが、それ以外はみんな素人。全くの素人が世界中から集り、1年かけてこの2階建ての建物を建てた、というのは本当に今振り返ってもすごいことだなあと思います。
このビルディングチームで僕はあるアメリカ人の男性と出会いました。そしてその彼と付き合うようになり、ビルディングチームを終えた後は、彼の故郷のアメリカに二人で住みました。
移り住んだのは、このケーブルカーでも有名な、サンフランシスコ。
彼との生活はいろいろけんかもあったりと大変なこともあったのですが、お互い本当に惹かれあい、2014年の年末には僕がプロポーズもして、婚約しました。
当時もアメリカでは同性婚が合法で、男性同士でも結婚が出来たのです。
これから二人で一緒に暮らしていこうね、と将来を誓い合い、サンフランシスコの生活は幸せな楽しいものでした。
しかし、それがある日急に終わりを迎えました。
ある日、夜Bart(バート)という、サンフランシスコあたりのベイエリアを走る電車に二人で乗っていたときのこと。
ある男性がやってきて、急に彼を平手で殴ったのです。
本当に急な出来事で、僕も何が起こっているのか、怖いし、びっくりでしたが、僕はその男性と彼との間に入ってとにかくもう殴られないようにびくびくしながら立っていました。
するとその男性は次の駅で降りていきました。
まわりのお客さんたちもびっくりで、大丈夫かと声をかけてくれて、
ある人が警察も呼んでくれました。
ある人はたまたま氷を持っていて、それを差し出してくれて彼の頬をその氷で冷やしました。
彼もその時は大丈夫だ、と言っていて、
特に大きな傷もあざもなかったので、そのままにしていたのですが、
10日ほど経ってから、彼に異変が起こるようになりました。
精神的にとても不安定なのです。
でも僕はちょうどその頃日本に一時帰国しなければならず、
飛行機も予約していたので、とにかく僕は帰国することになりました。
しかし、その予約していた日、彼もとても精神的に不安定で、いつも一緒だった二人ですが、サンフランシスコの空港まで僕は1人でいくことに。
そしてサンフランシスコからロサンジェルスに飛び、ロサンジェルスから日本への飛行機に乗ろうとしていたら、空港のアナウンスで僕が呼ばれました。
スタッフの人に声をかけると、
「~~という方からメッセージがあります。」
と、僕の彼からメッセージがあったのです。
そこには、電話をして欲しいと。
飛行機の搭乗時間も目の前で、もう乗り始めた人もいたのですが、
急いで僕は彼に電話。
すると彼がとても不安そうな声で、
「帰ってきて欲しい」
と。
でももう飛行機は搭乗中。
どうしよう?
「本当に帰ってきて欲しいの?」
と聞くと、
「うん」
と。
僕はどうしようか、本当に迷いましたが、彼が帰ってきて欲しいというなら帰ろうと、
搭乗手続き中のスタッフの方に、
「飛行機をキャンセルします」
と伝えました。
すると、スタッフの方も本当に驚いて、
「今からですか?できますが、本当にいいんですか?」
と。
「お願いします」
と伝えると、すでに飛行機につんである僕の荷物を降ろすよう、荷物を載せるスタッフの人に連絡。
僕の荷物が戻ってきて、僕はその荷物とともに、サンフランシスコに帰ることにしました。
こんな搭乗手続き中の最終の段階で飛行機をキャンセルすることになり、
不安も出てきて、ロサンジェルスの空港を歩きながらただただ涙が出ていた僕。
でも、とにかく帰ってきて欲しいという彼を思うと、一緒にいてあげようと僕はサンフランシスコに帰りました。
その後1週間ほどサンフランシスコで彼と一緒にいて、日本へ。
新しくフライトも予約し、お金も余計にかかってしまいました。
そして日本に帰ってきて、僕は講演会など出来る仕事をしていたのですが、
彼がどんどん不安定になっていくのです。
そしてある日、あるアメリカの友人から、
「~~が行方不明になっている。キヨは行き先を知らない?」
と。
彼が行方不明になってしまったのです。
彼の家族もとても心配していて、僕にもお母さんから連絡がきました。
彼の実家にも何度もお邪魔していて、彼のお母さんもお父さんも僕ら二人のことをとても大切にしてくれていました。
そのお母さんもまさか息子がいなくなって、連絡も取れなくなるなんて思ってもいなかったから、
「キヨどこか知らないか?」
と本当にパニック状態。
結局ご両親が警察にまで通報し、彼を捜索。
何日か後彼は見つかりましたが、本当にやせほそっていて、昔の彼とは違う様子だったそうです。
周りは彼をサポートしようと必死だったのですが、
おそらく脳震盪(のうしんとう)だったようで、彼も冷静な判断も出来ず、
人のサポートにも全然耳を傾けず、悪くなってしまったよう。
そして、彼からメールが来て、
「もう二人の関係は終わりにしよう」
と。
僕らは本気で、アメリカで結婚して、二人で生きていこうと誓っていました。
それがある日の暴力事件がきっかけで、こんな風に一気に生活が崩れていきました。
僕はアメリカのビザを持っているわけでもなく、お金の余裕があったわけでもなかったので、日本にいて応援することしか出来ず、何もできませんでした。
彼との別れは本当につらく、毎日のように泣いていました。
あんなに愛し合っていた二人だったのに。
サンフランシスコで幸せに暮らしていこうね、って言っていたのに。
結局、二人が住んでいた家も家賃も払えなくなり、退去。
退去する時も彼は荷造りが全部できなかったようで、僕らの荷物は部屋に残されたまま。
著者の竹内 清文さんに人生相談を申込む
- 1
- 2
著者の竹内 清文さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます