伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】

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次話: 伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【後編】

生まれて初めてプレイしたビデオゲームだった。



アタリ社は、ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーの二人によって1972年に創業したアメリカを代表するビデオゲーム会社「ポン」の大ヒットにより急速に成長した会社で、その成長率は現在に至るまでそれを超えるものが無いという。あのスティーブ・ジョブズが19歳の頃、40人目の社員として採用されていたことでも有名だ。



「ポン」はアメリカで大ヒットしていた。マシン自体は当時の価格で40万円、今の価格で言えば約100万円くらいに相当する。



日本には存在しなかった「ビデオゲーム」が、アメリカから突如やってきた。

IC基板の理論を苦心しながら勉強している中、

IC基板を駆使して作成された本物のビデオゲーが目の前に現れ、

それがすでにアメリカ中の人々にプレイされているという事実。

差は歴然だった。


西角
アメリカはここまで進んでいるのか。
レベルが違いすぎるぞ・・・。


愕然としていると営業部の人たちは、一言。

営業部の人
こりゃ、売れないな

と言い放った。


西角
どうしてですか?
営業部の人
今までの『スカイファイター』のようなエレメカゲームの中はモーターが動いていたり、配線がぎっしり詰まっていて、いかにもコストがかかっているように見えるが、
このゲームは中がスカスカで値段は同じくらいと聞いているので、業者が納得しないよ。
西角
でもアメリカでヒットしていますよね
営業部の人
西角君、アメリカと日本ではゲームの事情が違うんだよ


と言って、みんなその場を離れてしまった。



ひとまず注文書処理の仕事に戻った。



しばらく経ったある日、セガが「アタリ」から輸入した「ポン」を、ゲームセンターにテスト設置しているとの知らせが入った。しかも、1プレイ30円が普通だったところを1プレイ50円にして。それを聞きつけたタイトー営業部は、倉庫で眠っていた「ポン」を試しに1プレイ50円で、ゲームセンターにテスト設置してみることに。すると、かなりのインカム(収益)をあげた。


そうなると話は変わる。営業部は目の色を変え、アタリ社から基板を購入しテレビとキャビネットを独自に調達して、「エレポン」という名で販売を始めた。セガも同様に、外見だけを差し替える方法で商品をつくり、「ポントロン」という名で販売した。


自分たちではゲーム開発できないため、中身(基板)を取り寄せ、外側だけを取り替え名前を変える......悲しくもこれが日本におけるビデオゲームの幕開けだった。アメリカと日本の差は甚だしかった。



ビデオゲーム開発へ!資材部の西角が、社内で一番ICに詳しかった



アタリが開発した「ポン」のように、ICチップが搭載されたゲーム基板が気になり、一刻もはやく解析したかった。そして同時に、危機感もあった。



アメリカで人気のゲームを買って日本で売るというスタイルを続ければ、日本のゲーム会社が出すマシンはすべて似通ってしまい、どのみち他社に勝てなくなる。

さらに、タダでさえ差があるアメリカとの差がさらに開くことにもなる。そうなれば、もうアメリカに勝ち目はないと思った。

抜け出すためには、アメリカに甘えず自分たちでゲームを開発しなくてはならない。





松平部長に掛け合い、




西角
これからはビデオゲームの時代になるような気がします。
我々は先手を打ってオリジナルのゲームを開発したいと思うのですが・・・


松平開発部長は、にっこりと笑って


松平開発部長
そうだな。やってみよう


と言ってくれた。


             松平開発部長



そうして、松平部長率いる開発部は、IC基板を活用した日本で初のビデオゲームの開発に乗り出し、パシフィック工業内でICの知識のあるものが招集された。

資材部にいたが、作業の合間を縫って自主的にずっとICの勉強をしていたため、自分よりICに関する知識を持つものは、技術部にも開発部にも誰一人いなかった

こうして、念願だった開発部に呼び戻された西角は、まずはアメリカに追いつくことを目標に、開発を推し進めていった。




打倒アタリ!打倒、技術大国アメリカ! しかし、ググれない。



まず、西角が最初にやったことは、「ポン」のゲーム基板を解析して、これを回路図にすることだった。


松平部長にもらった参考書の内容はかなり理解していたものの、本物の回路を目の当たりにすると理解が難しい。もちろん、ネットはないので、ググれはしない。日本には、ビデオゲーム基板の仕組みを理解しているものなど(西角の知る限り)誰もいなかったので、尋ねる相手もおらず自分でゼロから理解する他なかった



まず大きな白紙を壁に貼り、ゲーム基板に搭載されているIC(集積回路)を書いた。小さい基板を専用ルーペで拡大しながら、細かな回路を一つ一つ辿り、それを図示していった。

どの回路がどこと繋がっているのか、電流が流れているかどうかを調べるテスターを使いながら、回路の一つずつを調べていった



休日はほとんど返上、1か月位かかって全回路図を作ることが出来た。壁一面に広げた大きな白紙が、黒ペンで描かれた回路図でびっちりと埋まった


西角
やっとできた。


1ヶ月を乗り切って、達成感にあふれた。とはいえ、


西角
……それにしても、全然わからんぞ。(苦笑)


アメリカには歯が立たない。西角でさえそんなレベルだった。


次に、ポンに付属していた簡易的な英語の取り扱い説明書のようなものを参照しながら、少しずつ原理を理解していった。最初は意味不明だった回路は、少しずつ少しずつ理解が進み、2か月ほどかけビデオゲームの原理を習得することができた。


西角は、ポンの分析から得た知見を使って、さっそくビデオゲームの開発に乗り出すことにした。


当時、ポンが発売されてしばらく経ったアメリカでは、ポンと同じく卓球をテーマにしたビデオゲームがすでに数多く登場していた。

アメリカでのヒットも狙っていた西角は、それらと同じく卓球をテーマしたものを作ったところで現地で売れるはずがないと考え、卓球ではなくサッカーをテーマにゲームを作成した。

そうして出来上がったサッカーは、1973年、秋、「サッカー」という名で発売。




残念ながら「サッカー」は良いインカム(売上げ)ではなかったが、記念すべき国産初のビデオゲーム、国産初のサッカーゲームになった。いわば、よく見るサッカーゲームのルーツに当たる。


初のアメリカ進出


サッカーがあまり良いインカム(売り上げ)ではなかったが、西角は、

何としても面白いゲームを作り上げてやろうと、立て続けにゲームを開発していった。


1974年にバスケットボールのゲーム、続いてドライブゲームを生み出した。

ドライブゲームの開発は、米国「アタリ」のドライブビデオゲーム「グラントラック10」がつまらないと思ったのがきっかけだった。トップビュー(車体を真上から見下ろしたような景色で展開される)ゲームだったが、画面に表示されるレーシングカーはリアルとは決して言えるものでなく、プレイ感覚も見た目より難しかった。スピード感もさほど感じない。


西角は、パシフィック工業入社のきっかけとなった、高校時代にハマっていたあのドライブゲームを思い出し、よりリアルでスピード感のあるドライブゲームを構想した。


そうして出来上がったゲームは、「スピードレース」。完成後、営業部からの高評価を受けたこともあり、当時ワンプレイ50円が普通だったところを、ワンプレイ100円にしてゲームセンターで並べた。すると、100円プレイでも、お客さんが離れることはなく人気を博した。


その後、「スピードレース」は、アメリカのミッドウェイ社にライセンス提供され、アメリカでも展開され、人気となった。日本のずっと先を走っていたあのアメリカに少し追いつくことができた。西角は嬉しかった。こうして西角の海外へのステップは続いた。

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