24歳ニートの僕が、謎にインドネシアに行って社長になるまでの話。前編

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不景気やビジネスモデル、身につかない土地勘。

ありとあらゆる言い訳をしては、受注が取れない自分を正当化した。



責任転嫁しながら働いて半年が過ぎたころ、

なかなか成果を出せない僕を案じてか、環境を変えてあげたいという上司の計らいでグループ会社に異動することになった。工場、製造業に特化した人材派遣会社だ。



そこで僕は衝撃を受けた。



家族の大黒柱である、まだまだ働き盛りであろう40~50代の人たちが

時給700円~800円の仕事を求めてやってくるのだ。



給料の安さに驚いた。これで家族を養えるのかと。



生活をするために、子供を学校に行かせるために、「仕事をください」と言われる日々。前の会社に居た時よりも、仕事に責任を感じるようになった。


それと同時に「こうはなりたくない」という思いもあった。

心のどこかで、仕事を求めてくる人たちを見下していたのだと思う。



業務に慣れてきたころ、元々居た事務系派遣の会社に戻ることになり、

またひたすらに飛び込み営業をする毎日が始まった。





会社に行きたくない。日曜日の夜が怖い。泣きたい。毎日が憂鬱だった。



そんなある日、上司から呼び出しがあり「今度はどうなってしまうのか」と思いながら恐る恐る話を聞くと、なんと親会社への異動の話だった。



その親会社は、就活で沢山の企業を見て、唯一働いてみたいと思った会社、リクルート。




リクルートといえば、天才・エリート・凄い・スーツかっこいい・髪長くてOK・モテる。笑



就活のときはSPIで落ちてしまい、面接すらしてもらえなかった。。


どうしても諦めきれなくて「いつか異動があるかもしれない」と、グループ会社を全部受け、内定をいただいたのが事務系派遣の会社だったのだ。



入社してから1年経った2010年4月。

僕は念願のリクルートで働くことになった。




個人の裁量が大きくて、若くて、自由。

何よりもみんな楽しく働いている。


こんな人達と働ける、こんな人達の仲間になれる。

そう思うと嬉しかったし、自分の名刺を渡すのがなんだか誇らしかった。


文句なしの給料、駅から徒歩1分・新築1LDKの家、仕事も楽しい。

本当に理想的な社会人生活を送っていた。




僕の上司もまさに”理想の上司像”そのもので、

よくご飯に行ったりゴルフに行ったりしていた。



でも、そんなプライベートまで仕事まみれの上司を見て、

ふと「仕事ばかりで家族との生活はどうなんだろう?」と考えた。


単身赴任で仕事漬け、家族とはあんまりうまくいってないのかもしれないな、と思った。


何年勤めても所詮は会社員。会社の都合には従わざるを得ない。

紙一枚で北海道に配属されたときの記憶が蘇える。



僕の人生は支配されてしまうんだ。僕はどこへ向かっているのだろう。



もちろん、仕事が楽しくて仕方ないのであれば、そういう形でも良いと思う。

でも一度っきりの人生、プライベートも充実させたい。



そんなことを考え始めると、今の自分に少し違和感を感じるようになった。



いつの間にか時間が過ぎて、

なんとなく将来の自分の姿が見えてしまうことを、窮屈に感じてしまっていたのかもしれない。



「もっと可能性があるんじゃないか」

「もっと情熱的にできることはあるんじゃないか」

「今しかできない何かがあるんじゃないか」


そんな気持ちが心のどこかに芽生えて、それは日に日に大きくなっていった。


そんな気持ちを先輩に打ち明けたのは、寒さの厳しい12月。



先輩からの助言はたった一言。

先輩
うん、じゃあ会社やめなよ。






■初めてのバリ島→見切り発車で退職→ニート


こういうときって、とりあえず止めるとか、話聞くとか、そういうもんじゃないの?

予想外の反応にたじろぐ僕に追い打ちをかけるように、


先輩
明日上司に言いなよ


と、けらけら笑う先輩。


そんなこんなで翌日、上司に

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