第3話:11歳で母を自殺で亡くした若者が生きることを諦めなかった『からあげ』の話。
後悔と自分を責める思い
母は、優しい人だった。いつも『まぁくん、まぁくん』と声をかけてくれた。
僕は、母親っ子だった。幼稚園の連絡帳には『お母さんが一人で寂しい思いをするからと、遊ぶ約束を断ってきたようです』『お母さんにプレゼントすると折り紙を折っていました』と書かれている。随分と甘えん坊の子どもだったようだ。
母の様子が変わったことを感じとったのは、小学校5年生、林間学校を終えて夏が来たときだった。
その頃、僕は少年野球を始めて1年が経とうとしていた。プロ野球では助っ人の選手がホームランを量産していて、「すげーよな!」と友達と言い合ながら練習に励んでいた。
初めて異変に気付いたのは、母の髪の色が変わったときだった。黒い髪は、明るい茶色になっていた。寝込む日が増え、料理ができなくなった。僕は、冷凍食品やレトルト食品を電子レンジで温めて食べるようになった。
次に、母は煙草を吸い始めた。当時の僕は、煙草が大嫌いだった。息苦しくなり、不機嫌になってしまう。そのことを母はよく知っていた。なんで母が煙草を吸い始めたのか父に聞いた。
「お母さんは煙草を吸っていた時期があった。子どもができて、子どものためにやめていた。」
『子どものためにやめていたって、子どものことはどうでもよくなったから、また吸い始めたの?』
僕は受け止めることができなかった。僕が煙草を嫌いなこと、知っているはずなのに。
髪を染めたり、煙草を吸い始めたのも、気分を変えようとしていただけのかもしれない。母はうつ病とパニック障害を抱えていた。でも、様子が変わっていく母親の様子に理解を示すことができなかった。
母は離婚の話も切り出した。このままだとどうにかなってしまいそうで、家族と距離を置きたかったらしい。母は、姉と僕に話をした。
「離婚することになったら、お姉ちゃんとお兄ちゃんはお父さんについていくのよ。私や弟とは別々になってしまうけど、どうか許して。」
心の中で僕は怒った。
『お母さんが体調を壊して大変なことになっているのに、自分たちを置いて離婚をしたい?ふざけるな!』
その後も、母の体調は悪化していった。寝込む姿を何度か見たが、ひどいときは嘔吐して寝ていた。体調のムラがあり、調子の良いときは『まぁくん』と声をかけてくれる。調子が悪くなると、僕を忘れてしまったかのように無言で目も合わせてくれない。
どうしても母に優しくなれなかった。時には「なんやねん!」と冷たい言葉も投げかけてしまった。
しかし、冬、母は僕をぎゅっと抱きしめてきた。
「離婚するのは、やめた。まぁくんが言ってくれたように、家族みんな揃ってが良いもんね。」
温かかったけど、どこか、ぎこちなかった。
小学校6年生になり、弟は小学校へ入学した。母は弟と僕が一緒に学校へ行く姿を見たかったらしい。母の体調も少し良くなってきた気がした。
子どもの日。暮らしていた地域では、お祭りがある。おみこしをかついだ人に神社の露店の食券がもらえるから、僕は毎年そのお祭りに出ていた。
露店の手伝いには母が来ていた。目を合わせることができなかった。
「おーい!良かったら、お母さんと一緒に写真を撮らへん?」
地域のおじちゃんは僕に声をかけてくれた。母は静かに僕を見ていた。
『調子の良いときだけ、何言ってんねん…』
僕は、母と一緒に写真に写ることを拒んだ。友達と一緒に、その場を離れた。
一週間後、母は死んだ。母との最後の思い出は、このお祭りだった。
あの時、優しくできなかった。冷たい言葉を投げかけてしまった。
僕は母を否定してしまった。だから、母は自殺したんじゃないだろうか。
最後に交わした言葉も覚えていない。きっと、ひどいことを言ってしまったのだろう。
後悔と自分を責める思いは、いつも寝る前にじわじわとやってくる。
『ごめんなさい…』
夜になると、涙が出てくるようになった。これは、悲しみの涙ではなかった。
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