世界旅後手持ち300ドル、家族も友人・恋人、時間もお金もすべて失い失意のまま帰国したバックパッカーが自分の夢を叶えてきた記録(15)
就職試験
ホテルエルサイードは三ツ星ホテルで、ル・メリディエンから徒歩二十分ほど離れた場所にありました。
BENIHANAが休みの水曜日。夏の暑い日差しの下、ケイシーは黒いストールを頭に被りながらイスラームの女性のような恰好で歩き出します。
ヨルダンの首都アンマンは乾燥した砂漠の気候さながらの強い日差しに包まれていました。
エルサイードの正面玄関は、メリディエンに比べると大分小さくて日本のビジネスホテルを連想させるような簡素なつくりでした。
「あの・・こちらで、シェフにアポイントをいただいてきた、ケイシーと申しますが」
ホテルの受付できちんと髪の毛をなでつけて黒いスーツを身に着けた、ひょろりと細身のコンシェルジュに言うと彼は「お待ちください」と慇懃な態度で内線電話を手に取りました。
「こちらです」
しばらくロビーにただずんでいると声がして、どこからともなくやってきた小さい案内役のスタッフが、ケイシーを招いてロビーのプラーベートと書かれた扉を開けると裏口に通してくれます。
小さく入り組んだ階段や通路を抜けると、ガラス張りの少し広めのキッチンに出て、そこには何人かのヨルダン人シェフが働いているのが見えました。
「シェフはもう少しで来ますので、ここでお待ちください」
ガラス張りのキッチンの奥にある、これまたガラス張りのオフィスには白い無機質なデスクとパソコン、そして小さな丸椅子が置かれています。ケイシーはひとまずその丸椅子に腰かけてシェフを待つことにしました。
もしこんなふうに、メリディエンのシェフオフィスもガラス張りだったなら今回のようなことも起こらなかっただろうに・・・
もしもの仮定にしかならない思いが、頭の中を少しかすめます。
すると背後のガラスの扉が開いて、浅黒い顔に細い銀縁の眼鏡をかけたシェフが入ってきました。歳は五十代くらいでしょうか?深くしわの刻まれた眉間は、彼の長い人生を物語っているようでもあり少し近づきがたい雰囲気をも醸し出していました。
「君かい、日本人シェフというのは」
「ええ、初めまして私はケイシーです」
シェフと握手を交わすと、彼はデスクの反対側に腰かけます。
「メリディエンのイマドからの紹介だね。日本人のシェフをここヨルダンで迎えることに、僕は感謝の意を表するよ」
強面だとばかり思っていたシェフの顔が少し緩んで優しくなり、その丁寧な言葉にケイシーの気持ちもふっとほぐれました。
「ありがとうございます!」
しばらく、ありきたりの世間話が続きましたがシェフは一貫して優しい表情で、その言葉からは思いやりが感じられケイシーはすっかり嬉しくなりました。
「早速、君の技能を見たいね。いや、なにちょっとしたテストさ。君は寿司を作れるのかい?このホテルの日本食レストランは、自慢じゃないがアンマン一の寿司を出すので有名なんだ。いや、君がもし寿司の作り方さえ知らなくたってここにいる寿司職人たちが皆、君に教え込むだろう。日本食レストランに日本人がいるってことは、うちのホテルにとってもステータスになるだろう」
シェフは話の終わりに一気にそうまくしたてると、一息ついてケイシーの顔を見ました。
「それで、どうだろう?」
「ええ」
ケイシーは思いもよらない歓迎ぶりに、息を弾ませていました。
「もちろん、そのお話し受けさせていただきます」
シェフは満足そうな顔をして頷くと、内線電話を使って誰かを呼び出しました。
しばらくして現れたのは日本人のような顔だちをしたフィリピン人寿司シェフ、マイケルでした。
マイケルは仕込みの仕事中だったということでユニフォームの腕まくりをしてがっちりとした腕を見せています。頭には赤い三角巾を巻いていました。大きめの筋肉質の体は、ダルウィンとは正反対ですがダルウィンと共通した誠実さと心の優しさを感じます。
「マイケル、こちらケイシー。日本人だ。どうだろう、僕らの日本食レストランにこれから迎えたいと思っているんだ」
「ケイシー、はじめまして。シェフ、この日本食レストランに本物の日本人を迎えられるということに、私は誇りを感じます」
「あとは君に任せるよ。今日はレストランを案内したらいい。僕はこれから打ち合わせがあるから外すけど、いいね?」
「ええ、わかりました」
シェフマイケルはケイシーを連れてキッチンの食糧庫、レストランと連れまわしてくれました。
食糧庫には多くの新鮮な魚や果物が並び、日本人でもうなるほどの味の酢飯のストックが
ありました。
「これは、以前出張で来てくれた日本人シェフから直伝の味なんだ。うちの日本食レストランは本当に人気だから、日に五百本は巻ずしが売れてゆく。作っても作っても足りないくらいさ」
それだけでもなるほど人気店だと頷けるのでしたが、マイケルの後についてレストランに足を踏み入れたケイシーは思わず「わあー!」と声を上げたのでした。
地上十二階の日本食レストランは足元までガラス張りになっており、アンマン市内のパノラマが目の前に広がります。中央には綺麗に磨きこまれたカウンターとその真ん中にあるショーケース、ショーケースの向こう側ではフィリピン人らしき寿司職人がせっせと働いています。夜には町のネオンがキラキラと光るのを眼下に楽しみながら、おいしい寿司を食べられるなんてなんという贅沢なのでしょう。
解放感と光にあふれた世界にうっとりとして、ケイシーはしばらく言葉を失っていました。
「いいだろう?僕はこの職場が大好きなんだよ」
マイケルが優しい声で隣からそう言います。マイケルの穏やかな人柄に、この素敵な環境で働けるということへの感謝の気持ちにと、いろいろな感情が湧き上がってきました。
「テストは明日だよ」
マイケルは穏やかな口調のまま、そう言いました。
「君と働ける日が来るのが待ち遠しいね」
まるで夢を見ているような感覚でケイシーはお礼を言い、家路についたのでした。
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