第2章 鉄砲玉放浪記

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沖縄に来て一番本土との違いを感じたのは米軍基地との境界があるということだろう。まるで二つの国が狭い島の中にあるみたいに感じた。道路を走っていても金網は続き、ビーチまでも境界線が引かれている。私は動物が好きだけど、アパートでは飼えないためよく動物を見に行く場所があった。米軍の家族が任務を終えアメリカに帰国すり時などに飼えなくなってしまったペットを置いていき、そのペット達をまた新しい米軍の家族に引き取られるか、沖縄の地元の方が引き取ったりするまで管理する場所だった。月に何度か基地の中でいらなくなった家具や日用品などのフリーマーケットも開かれ、見に行くのが楽しみだった。レストランなども、場所によっては米軍がよく訪れるためアメリカ仕様になっていることがある。職場の皆につれられ、私も時々そんなお店に遊びに行った。


ある日嬉しい知らせが届いた。ペンションで一緒に働いていたY子さんがお見合いの相手と結婚することになり、新婚旅行がてら私に会いに来てくれることになった。喜んで二人の案内役とカメラマンをすることにした。今まで見たことが無いほど幸せいっぱいのY子さんに再会した。年上の旦那さんは、優しくおおらかな感じの人。すぐにあの頃の私とY子さんに戻った。二人が笑っていると嬉しくて、私も自然に幸せな気持ちになる。朝二人を車で迎えに行き、一日観光の運転手とカメラマン。滞在最後の日は、私の職場のビーチパーティだったのだが、Y子さんも一緒に行ってみたいというので連れて行くことにした。どんなお客様でも盛り上がってしまうのが島人のいい所。皆が二人を祝福してくれ、時間を忘れて飲んで盛り上がった。こうして二人は思い出を胸に本土へ帰って行った。今では、本当の兄弟のようなY子さんが帰ってしまうと、私は初めてホームシックになってしまった。


スキー場で知り合ったお客さんが沖縄に遊びがてら会いに来てくれたこともあった。一緒にナイターに行き、ペンションのバーで飲み明かし、何度も気に入って泊まりに来てくれたお客さんだった。ちょっと戸惑ったが、もうお客様と従業員という関係ではないので快く会うことを決め、沖縄を案内した。勿論、職場の皆も一緒に盛り上げてくれ、沖縄を満喫して帰って行った。

夏休みシーズンになると、大学生の妹を旅行がてら沖縄に呼んだ。長期間私の寮に滞在し休みの日には二人で旅した。私が仕事の時は、職場の皆が交代で妹を沖縄中案内してくれた。年が近いということあって、妹と皆とはあっという間に意気投合する。


好奇心旺盛の私は、沖縄で初めてのことを沢山体験してみた。私の故郷の三陸海岸の海は激しい荒波で、海に潜ると言えば海女さんくらいしかいないと思っていた。人生の中でスキューバダイビングなど考えたこともなかったけれど、せっかくだからとホテル内のスクールでチャレンジしてみることにした。実は私は泳げないのだ。しかし、インストラクターさんがマンツーマンでついてくれ、潜る決心をした。沖縄の人は、日中は暑いからと海で遊ばない人も多いが、私は職場の先輩にジェットスキーに連れて行ってもらっているうちにすっかり日焼けして真っ黒。どこから見ても泳げないなんて風には見えない。酸素ボンベの使い方、耳抜きの練習をして、いざダイビングポイントへ船で移動する。もう一つの私の弱点は船酔いしやすいということだ。たった何分かの移動なのに緊張のせいなのか、ポイントに到着すると少々気分がすぐれなかった。来てしまったからには覚悟を決めるしかない。酸素ボンベを背負いいざ海へ。だがなかなか海に入る勇気が出ない。そっと水面に顔を付けて海の中を覗いてみると、私はその美しさに目を奪われ海の中に吸い込まれるように、自然に入っていくことが出来た。おびただしいほどの青や黄色や色とりどりの小さな魚たち。ソーセージを渡され、手に持つと私の体は覆われ見えなくなる程の魚が集まってきた。インストラクターさんが何かを指差している。その差す方向の先には、今にも人魚姫が中から出てきそうな程大きいシャコ貝が、ゆっくりと閉じていくところだった。こんな大きな貝を間近で見るのも初めてだったのだが、その美しさと動きの優雅さに見とれた。手を引かれ泳ぎながら、海の中の美しさを楽しんだ。合図で、インストラクターさんと手をつなぎ、上へ上へと上がって行く。水の中に降り注ぐ光のシャワーを浴びながら、きらめく水中を昇っていく光景は、まるで天国へ行くみたいだと思った。


沖縄は本当に台風の銀座のようだ。テレビで台風の予報が流れると、職場の皆は泡盛を片手に出勤する。私には疑問だったけど、帰る時間になるとその意味が理解できた。家に帰ろうと外に出るが、駐車場の車にさえ行くことが出来ず、風で押し戻される。結局びしょ濡れのまま、何とか生きて家に辿り着きほっとした。「こんな時はね、帰れないから帰らなくていいの。」とそのままホテルにいる人も多いのだ。夜の為に泡盛があったのか!台風と小さな頃から付き合っている沖縄の人ならではだ。台風が過ぎ去った後の町は、大きな木が倒れていたり、道路は飛んできたものだらけ。家のベランダにある洗濯機は、左側の壁から右側の壁まで吹き飛ばされ倒れていた。台風の強烈さに驚いた。


沖縄に来て半年ちかくが過ぎ、私はすっかり職場にも馴染み、親友と呼べる友達もできた。とても気の合う友達だった。私はいつもギリギリの生活をしていたため、時々給料日前に金欠になり、ご飯が食べられない程のこともあった。そんな時、親友のS子は、自宅から缶詰やら何やら食料をそっと運んでくれるのだ。

私は沖縄の知らない場所を休みの度に散策して楽しんだ。S子はそんな私を見ていて

「凄い!なおちゃんといると子どもの頃から住み慣れた沖縄にも、まだまだ自分の知らない場所があるって気付かされるよ。私もなおちゃんと一緒にこの宝探しのような旅がしたい!」

こうして私とS子の宝探しという名の旅が始まった。部署が同じだから、休みを一緒に取ることは難しかったが、月に一度、二度一緒にとれることがあれば、交代で手作り弁当を作り、私達は宝探しの旅に出かけた。お気に入りの場所を見付けると、二人のアルバムという宝箱に写真を残すのだ。私のお気に入りの場所は、海中道路。海の中を一本の道が通っていて、海中道路はいくつかの島をつないでいる。ひたすら走っていくと観光客は殆ど来ない手つかづの自然豊かな美しい海のある島に着くのだ。パイナップルのようなアダンの実が茂り、そこを抜けるとまるで自分だけのプライベートビーチのような静かで青く美しい海が広がる。海中道路を一望できる場所を発見した時にも、瀬戸内海のように島がいくつも見えるその美しい景色は、何枚も写真になって宝物になった。

潮が引くと小さな小さな島に歩いていく道が現れる。その島は地元では豆腐島と呼ばれているらしい。まるで粘土のように柔らかい豆腐島の壁面に願い事を書いて戻るとその夢が叶うという言い伝えがあるようだった。私は心の奥にしまっている願いを書いた。「京都の彼にいつかもう一度再会できますように。」時々、沖縄での出来事を書いて彼には手紙を送っていた。彼も京都で大学生活を楽しんでいるようだった。

ある日の宝探しで、私達は人気のない美しい海を見付けた。ゴミも落ちていない。しかし不気味なほどに人がいない。海岸に立ててある看板を読むと、ここには多く毒害が生息するため注意と書かれていた。驚いて走って海岸から遠のき、私達は二人で笑いあった。

北部の山奥で宝探しをしていると、山の中腹に大きなログハウスを発見した。お金持ちの別荘だったのかもしれないが、私達は魔女の家と名付け何度か様子を見に行った。ハンドカットの迫力あるログハウスなのだが、デザインが何とも奇抜な作りだった。私達はすっかり探検家気分で、自分達の空想とともに発見を楽しんでいた。

見付ける宝物は場所だけではなかった。二人で海でお弁当を食べようと座って遠くを見ると、岩から見張り台のようなものが海に向かってせり出している。その先端に釣り糸を垂らしている人がいた。S子と目が合い「何かさトムソーヤみたいな人だね。行ってみよう!」と意見がまとまった。傍まで行ってみると真っ黒に日焼けしたおじさんが、のんびりと釣り糸を垂らしている。話を聞くと、毎日ここで釣りを楽しんでいるという。見張り台のようなこの台はおじさんが流木を集めて手作りした素朴なものだった。おじさんは、近くで旅館を経営しているからと私達を招いてくれた。旅館は、おじさんとおばさんが二人で経営していて、商売っ気もなく古ぼけた旅館だった。おばさんも私達をきさくに招いてくれた。

「あなた達、今日は泊まって行きなさい。」という言葉に素直に従い、この旅館に泊まることにした。おばさんが、張り切って夕飯を作ってくれた。おじさんは、釣った魚を料理してくれた。おじさんもおばさんも喜んでいて、私達も嬉しくなり、楽しい時間を過ごした。S子と泊りで旅行をしたのは初めて。私達は修学旅行の生徒みたいにはしゃいでなかなか眠れなかった。布団に入っても話してばかり。


沖縄の桜は今までに見たことがないくらい濃いピンクだった。雪国育ちの私は、雪のない冬は人生で初めてだった。厚い上着など全く必要ない。しかも桜が咲くのは、一年の始まりの一月なのだ。S子と沖縄の桜の名所を巡る宝探しの旅をした。

手芸が大好きな私。冬には毎年編み物をするのが常だったが、ここではその必要もなさそうだ。でも冬は冬らしい服を着ていたいというS子に一編み一編みS子への感謝を込めてセーターを編んでプレゼントした。私達の宝箱は、きらきらと輝く宝物でいっぱいになった。


岩手の母からは時々食料などが届いた。すぐに行くことも出来ないくらい遠くに来て初めて両親の有難さが身に染みた。荷物の中には、手作りの食べ物や野菜などがいつもぎっしり入っている。懐かしい味を感じると故郷に戻りたいという思いがふつふつと湧いてきて気持ちが揺れる。両親がせめて本土に戻ってきて欲しいと懇願していることは良く分かっていた。父と母は更に、私が沖縄の人と出会い結婚してしまったらどうしようと心配しているようだった。しかし、刺激だらけの毎日の生活の中には、恋愛という二文字は全くなかった。自分の好きなように沖縄に来て暮らすことが出来た。でもいつかは自分で区切りをつけて本土に戻ろうと心の中では決めていた。


ある時、北部に音楽を楽しむお店が出来たことを知り、私は職場の友達を誘って食事をしに行った。お店のオーナーはビートルズをこよなく愛し、ギターを弾きながら名曲の数々を歌ってくれる。食事をしながらくつろぐことが出来るこの空間を私はすっかり気に入り、S子も連れてこようと誘った。S子はあまり興味がないようだったが半ば強引に連れて行った。でもそのうち、S子と私はこの店の常連になってよく通うようになった。この店にはS子にとって運命的な出会いが待っていたのだ。S子と店のオーナーはお互いに一目で恋に落ちていたのだ。S子はオーナーと一緒の時間を多く過ごすようになっていった。


私は少しずつ次の場所で仕事をすることを考え始めていた。心配している両親のためにも、せめて新幹線で戻れる場所に暮らそうと思った。沖縄の仕事はリゾートで成り立っていると思う。でも決して仕事が十分あるわけじゃない。内地の仕事情報は意外に得ることが出来た。


とうとう一年という区切りで次に移動することを決めた。ここでの生活はまるで竜宮城のよう。夢から覚めて戻った後は何もかもが変わってしまっているような気さえしてくる。それぐらい毎日が刺激的で楽しい生活だった。

みんなは、私のためにお別れボーリング大会を企画してくれた。沖縄らしい、集合時間が夜中の十二時からのオールナイトボーリング。大騒ぎし、泣き、笑い、沖縄での最後の夜を大切に過ごした。夢を胸に那覇の空港に降り立ったあの日から、ここは私の第二の故郷とも言うべき場所になった。みんなが最後にカメラをプレゼントしてくれた。私はそのカメラを持って、これからまた美しい景色や、沢山の人と出会っていくことだろう。沖縄での生活は、私らしい人生の冒険のスタートラインだ。


私は空港から静岡に向かって出発した。実家には帰らずそのまま働きにいこうと思っていたため、沖縄で既に仕事を決めていた。荷物も静岡に送ってある。東京駅までは、新しい職場の人が迎えに来てくれることになっている。私はまだみんなと別れたばかりの寂しさが心の中を占めていて、みんなから贈られたカメラを握りしめた。

東京の待ち合わせの駅には、派手な女性が二人迎えに来た。服も装飾品も高価そうなブランド品ばかりを身に付け化粧も濃い。二人は愛想がいいとは言えない感じの態度で迎え、さっさと歩きだした。新幹線の座席は指定席で手配されており、私は言われるがままに席についた。一緒に向かい合わせで座っても、二人でぺちゃくちゃと話しているので、私は外の景色を眺めていた。その日は雨模様だった。新幹線の車窓から海が目に入ると、沖縄の海を懐かしく感じた。ここの海は黒くてどこか怖い。新幹線の窓を雨の筋が斜めに流れては消える。涙のようだと思った。

すると突然、何やら相談をしていた二人は私にお化粧を始めた。何が何だかわからずされるがままだ。「まずまずじゃない?」「そうね。悪くはないわ。」どうやら化粧をした私を見て評価しているようだ。私は押し黙ったまま、二人の後についていくしかなかった。事務所風なところに連れていかれ、中にいる貫禄のある女性に挨拶をするよう促された。

「お世話になります。よろしくお願いします。」と挨拶をした。女性はぶっきらぼうなものいいをする人だった。

「この子を寮に案内しなさい。今日は休んでもらって明日から仕事を御願いするわ。」

ここまで連れてきてくれた女性の一人が私をアパートらしき建物に案内してくれた。部屋は相部屋だったが、一緒の人は不在だった。私が沖縄から送った荷物が部屋に積まれていた。一人になると急に疲れを感じ、うとうとしてしまった。どれくらいそうしていたのか、玄関の鍵ががちゃがちゃと鳴り、相部屋の人が帰ってきたようだった。先に部屋にあがっているというのも変なものだ。どきどきしながら現れるのを待っていると、若くてきゃしゃで美しい人が入ってきた。見とれる程の美しい人だと思った。慌てて挨拶をした。でも話し出すと、とても気さくな人だった。

「あんた、どこから来たの?」

「沖縄からだよ。私は東北出身なんだけど。ずっと沖縄に憧れていて沖縄に住みたいって思ってたの。その夢が叶って沖縄で暮らしてたんだ。でも色々考えてこっちに帰って来る決心をして戻ってきたところ。」そういうと彼女は笑顔になり

「私、沖縄出身なんだよ。沖縄に仕事がなくてさ、家族を支えるために本土に働きにきたの。いつか家族が楽になったら、今度は自分のためにお金を貯めて、沖縄帰ってトラックの運転手をやりたいって思ってるんだ。」沖縄という共通点で話が盛り上がっていく。

何だか急に空腹感を感じた私は、旅行バッグの中から今朝空港で見送ってくれたS美が、お母さんからだよと持ってきてくれたサーターアンダギーを取り出し、「一緒に食べよう。」と言った。大きくて丸くて表面はサクサク。食べ応えがある。サーターアンダギーを見るなり彼女は、「うわぁ~懐かしい~。食べていい?」と大喜びで頬張った。形も大きさもばらばらだけど、S美のお母さんのあったかさが伝わってくるようなサーターアンダギー。私もお母さんの顔を思い浮かべると涙が出そうになった。

「うん!うん!美味しい!懐かしい~。沖縄の味がするよ。」

サーターアンダギーのお蔭で私達は空腹も満たされた。彼女は私より二歳年下だったけど、年下とは思えない程しっかりした人だと感じた。

すると突然、部屋の電話が鳴った。彼女が電話をとったけど、電話は私宛のものだった。

「悪いんだけど、早速仕事が入ったの。今から来てくれる?それとね、あんたお遊びできるの?」と聞かれた。何の事だかわからないままに、思わず「出来ます。」と答えてしまった。

電話を切るなり、彼女は少し声を荒げて「あんた今、何て言われて出来ますって答えたの?」と言った。「お遊びできますかって聞かれて...。で、よく判らないけど、断ったらいけないのかなと思って出来ますって答えちゃった...。」

すると彼女はさっきより声を荒げて「あんた、お遊びの意味もわからないのに出来ますって言ったの?馬鹿じゃない?お遊びはね、朝まで男の相手が出来るかってことなんだよ。この仕事何だと思ってきたの?ここは熱海だよ。熱海には芸者しかいないんだよ。」

「え?芸者なの?旅館の仲居さんの仕事じゃないの?」

私はてっきり旅館の仲居さんの仕事とばかり思っていたため、何の疑いもなくここまで来てしまった。彼女の言葉を聞いて愕然とした。彼女はすぐさまさっきの電話の相手に電話をかけた。少しもめていたが話がまとまると受話器を置いた。

「いい!今日は私があんたの替わりに行くわ。相手はお得意さんだから。それにね、私はここのナンバーワンなの。だから心配しないで大丈夫。」

「う、うん。ありがとう。私何も知らなくてごめんなさい。助けてくれてありがとう。」

「あんたさ、悪いことは言わないよ。あんたにここの仕事は全く合わないよ。今すぐここを逃げるんだ。今なら間に合う。ここに一度入ったら逃げられなくなるよ。タクシーに乗って駅に行くんだ。今日の家に新幹線に乗って行きな。あんたの荷物は責任持ってあんたの実家宛に送ってやるよ。私を信じて心配すんなって。あんたの住所、ここに書いといて。」

そう言って彼女はペンと紙とそれから、私の手に三万円を握らせた。ここに来るまでの出来事も今なら納得できる。私は言われるがままに住所を書いた。

「悪いけどさ、あんたにお願いがあるんだよ。あたし、少し前に背中に入れ墨入れたばっかで痛くてしょうがないんだよ。でも背中に手が届かなくってさ。この薬塗ってくんない?」

そう言うと、服を脱ぎ私に背中を向けた。本当に背中一面に入れ墨が入っていた。生まれて初めてこんなに近くで入れ墨を見たことだけでも手の震えが止まらないのに、私がこれからしようとしていること、数時間のうちに起こった沢山のことも私の気持ちを震わせた。まだ入れたばかりの入れ墨のせいで、ところどころ肌が腫れて赤くなり、見るからに痛々しそうだった。私は、手に薬をたっぷりとつけ恐る恐る手のひらで背中全体に薬を擦りこんだ。手の平には、彫った入れ墨のぼこぼこを感じた。塗っているうち、不思議なほどに美しい色だと思い怖さはなくなった。塗り終えると彼女は服を着て化粧を直し、身支度をして出掛ける準備をした。

「いい!言った通りにここを出るのよ。後は適当に私が何とかするから。あ、それからさ。あんたが持ってきてくれたサーターアンダギー、凄く美味しかった。ありがとう。」

そう言い残して彼女は部屋を出て行った。彼女が部屋を出て行くと部屋はしんと静まり返った。私は暫らく考え込んでいたが、彼女の言葉を信じ、すぐにここを出て行くことを決めた。ダンボールの荷物は全てここに置き、バッグだけ握りしめて表に出るとすぐタクシーを捕まえて乗った。心臓がバクバクした。足もガクガクした。こんなことは初めてだった。無断で夜逃げなんて、今までの私の人生からは考えられないことだった。でも、彼女が言った通り、私はこの世界では生きていけなかったかもしれない。きっと彼女はここに来ていっぱい苦しいことがあったのだ。それを知っていたから、田舎者で世間知らずの私を助けてくれたのかもしれないと思った。心の中で何度も彼女にお礼を言った。駅に着くと急いで新幹線の切符を買った。誰かが追ってくるんじゃないかという恐怖心が湧き上がってきて焦り、周りをキョロキョロしたり挙動不審になってしまう。新幹線が発車するまでは落ち着けなかった。窓から熱海の町明かりが消えていくとやっと安堵し、同時に猛烈に睡魔に襲われ東京駅に着くまで記憶が無いほどに眠りに落ちた。

実家には何事もなかったかのように戻った。連絡を取る暇もなく突然に帰ってきた私に驚いていたが、帰ってきてくれた娘を両親は喜んで迎えてくれた。私はやっと安心して休んだ。

実家に帰って一週間、私宛に何箱ものダンボールが届いた。本当に彼女は約束を守ってくれたのだ。彼女との出会いは、人生の中で一瞬のことなのに私の人生を大きく動かしてくれた。彼女が喜んで食べてくれたサーターアンダギー。あの時、食べながら彼女の目は涙で潤んでいるように見えた。


同じ失敗は二度と繰り返さない。今度は仕事の内容をしっかり確認し、山形の温泉旅館の仲居さんとして働くことが決まった。父と母は相変わらずの私に半ばあきれながらも、帰ろうと思えば帰れる場所にいてくれることを喜んだ。

仕事は順調に覚えていった。今までのサービス業とはまた少し違う。玄関でお客様をお出迎え。お部屋までご案内し、館内の説明をする。食事は部屋食で一部屋ごとに運ぶ。下げる。団体のお客様が入れば、大広間でお膳での料理の準備や持ち回り。館内には、バーがあったのだが、時には宴会場に居た仲居さん達もあおの中に入りビールなどをつぐサービスをする。朝食のサービス、部屋の掃除は担当の部屋ごとにある程度のことをやり、アルバイトのおばさんにバトンタッチする。

私はここで初めての試練を受けることになった。私は何もした覚えはないのだが、「私のお客様なのに横取りした。」等の理由で仲居さんの頭からいじめにも似た意地悪を受けた。時々お客様からはチップを頂く。チップは全て頭に渡し、分け前として全員が頂いていたのだが私だけは呼んでもらえなかった。さらに仕事の連絡事項なども私だけに伝わっていないことがあり、失敗をしたりということが続いた。そんな中、厨房にいた子がいつも私をフォローしてくれた。彼は私よりずっと年下。厨房の中では一番の下っ端。彼は休みになると時々私をドライブに誘ってくれた。山形に暮らすことが初めてな私を色んな観光名所に連れて行ってくれた。彼は片親で育ち苦労の人だった。彼が私に好意を持っていることは判っていたけど、私の気持ちはここにはない。私の心の中には人生を変えてくれたアメリカの彼がいつも中心にいて、もう二度と会えないかもしれない人なのに、それ以上の人に出会えず恋愛が出来ずにいた。

仲居さんの仕事は嫌ではなかった。お客様とは適度な距離感があり、お客様が旅という特別な日の楽しい出来事を私達に話してくれたり、食事に喜んだり、旅館でくつろいで喜んで帰ってくれることは嬉しかったし、やりがいも感じた。ある日の宴会で出会った団体客のお客様の中にいたおばさんに気に入られ、是非自分の息子とお見合いをして欲しいと旅館へ連絡があった。何度も連絡をよこすので、さすがに旅館にも迷惑だし、仕方なくお見合いすることを承諾した。お見合いと言っても、形式ばったものではなく、お見合相手のみが旅館の近くまで来るまで迎えに来てくれ、初めて会う二人なのにドライブというお見合いになった。「どこか山形の行きたいところにドライブに行こうよ。」そんな風に自然に言ってくれる私より随分大人な男性だった。男性は長男で、実家の米農家を手伝いながら、今は会社勤めをしていること、趣味の話や家族の話もしてくれた。海に着くまで、車の中でお互いの話をした。私は、断り切れない押しの強いお母さんではなく、本人に誠実に話しをしようと決めてきていたので、夕食にと入ったレストランで、自分の気持ちを話した。好きな人がいることも話した。

「そうだよね。君の年齢ならそんな人がいないことのほうがおかしいよね。母が強引にしたこと悪かったね。今日は来てくれるなんて思わなかったから嬉しかったよ。一日楽しかった。帰ったら母にはちゃんと話すよ。食事が終わったら送っていく。今日は本当にありがとう。」

こうして、私の初めてのお見合いらしからぬお見合いが終わった。

スキー場のペンションで働いていた時によく来ていた常連さんに山形の人がいて、彼は私がペンションを辞めてからも時々ハガキを送ってくれていた。スキーのインストラクターをしている人で、ペンションに泊まりに来るたび、私に丁寧にスキーを教えてくれた人だ。

私が山形にいると知り、旅館まで会いに来てくれた。せっかくだから、どこかに行こうと蔵王をドライブしたり、山寺に行き長い長い階段を登った。セミが鳴いて、山寺の林の中は会話も聞こえないほどだった。こうして、沢山の人と繋がっていられることはありがたいと思った。

仲居さん仲間には、色々事情を抱えて働いている人もいて、なかなか一緒に遊ぶという感じでもなかったが、独身の若い子たちとは一緒にショッピングに行ったり、山形の観光に出掛けたりもした。仕事に戻ると、頭は絶対的な存在だったから皆私を見て見ぬふりをするしかなかった。仲居さんの仕事の中で色んなトラブルに巻き込まれることもあった。宴会場に入ったコンパニオンが延長をするかどうかの話合いで揉め、宴会会場から出て行ってもらわなければならないため、成り行き上その話し合いの間に立たされることになってしまった私。酔っぱらって文句を言っていたお客様から、平手打ちを受けるという事件が起きた。コンパニオンへの文句の矛先は傍にいた私への八つ当たりになってしまった。幹事の方は私に平謝りしてくれた。何とか話し合いはまとまった。初めてほっぺをたたかれるという衝撃的な出来事はショックだったが、やっぱり私は失敗してもサービス業は好きなんだと思った。


私は思い切って女将さんに、頭とのことを話した。どう考えても仕事に支障が出るのは問題だと思うし、それが見逃されている事にも矛盾を感じていた。誰も頭には逆らえなかったし、皆、頭の顔色を見ながら働いていた。私はどうせもうこんな立場にいるのだからと半ばやけくそでもあった。しかし、世代交代したての若い女将より、仕事歴の長い頭の方が圧倒的に意見が強く通った。私は苦しみながら仕事に行った。やるべきことはやった。でも自分の抵抗は全く歯が立たなかった。何もかもに疲れた気持ちになり、私は逃避行をしようと長期休みをとって大学生の妹と合流し、北海道を10日間、青春18切符貧乏旅をすることにした。電車で北海道を半周し、大自然の中で美味しい物を食べ、美しい景色に出会い、妹と笑い、気持ちがどんどん元気になっていくのを感じた。私はその旅先で北海道の求人情報を手に入れた。

山形に戻り、久しぶりに仕事に行った。ここに戻るとすぐに気持ちも戻る。北海道の美しい自然は心を魅了し、仕事が終わると求人情報をくまなく読むことが楽しみになった。その中に農協が募集している工場の求人があり、私はそこに行こうと決めた。問い合わせるとすぐに仕事は決まった。女将さんに辞めることを告げた。女将さんは慌てて頭とのことを何とかしようとしてくれたけど、私の中ではもう心が次のことに向かっていて、せいせいした気持ちだった。一週間後、強引に荷物をまとめ、北海道に旅立った。


札幌に降り立った。高校を卒業して最初に就職した会社での社員旅行に来た以来だ。懐かしくて、あの頃、皆で観光した大通り公園、時計台、北海道庁旧本庁舎などをぶらぶらと歩いて回った。夏晴れの暑い日だった。公園では家族連れやカップル、旅行客が思い思いの時間を過ごしている。真っ青な空にさっぽろテレビ塔がくっきりとそびえ立っていた。私は旅を続ける程に荷物が少なくなり、今ではTシャツにジーンズ、一眼レフカメラとわずかな現金だけというスタイルになってしまった。私は富良野行のバスに乗り込んだ。富良野は大好きな場所の一つだ。妹と美瑛という町を自転車で走った。幾つもの丘が四方に広がり、色とりどりの畑がパッチワークのような大地を作っている。丘の上にポツンと立つ一本の木、それだけで1枚の絵のような景色になる。私達は時間も忘れてその景色に見とれたことを思い出していた。


何もない、見渡す限り畑ばかりの道路に立っているバス停の前でバスを降りた。もう夕方になろうとしていた。バス停から少し向こうに大きな建物が1つ建っていた。明日からここが私の新しい職場だ。大きな建物は、ジャガイモと人参、玉ねぎの工場だ。季節労働者的な募集のため、ここでの仕事は3ケ月程で終わってしまう。農協の工場内に寮を完備しており、遠くから仕事に来ている人は、その寮に寝泊りしながら仕事をする。家庭的な食堂が一つ。大浴場と言っても五人ほどしか体を洗えない浴室が一つ。浴室の前には洗濯機が八台並び、奥にリビングのような部屋が一つあった。寝室はいくつかの部屋に分かれており、部屋の中には2段ベッドが並べられ、各個人のスペースはこのベッドの空間のみだった。私には、10人部屋の中の一つのベッドが与えられた。わずかな荷物を下ろし自分の居場所を作った。まだ仕事中のようで寮の中には誰もいない。私は少し周囲を散策してみた。どこを見ても畑ばかりで何もない。せめて簡単な日用品、お菓子やビールが買える場所がないかと歩いてみた。寮から徒歩10分程のところに農協のお店を発見した。ある程度のものは揃っていた。

夜になるとどやどやと働いている人が工場内から戻ってきた。若者もいればおばさんもいる。夕方から就寝までの時間はかなり慌ただしい。五人しか洗えない浴場は、入浴時間が一人15分と決まっており、順番に札を回しながら入浴していく。食事は一斉に食堂で食べる。洗濯機もフル回転で就寝時間まで休むことなく動き続けなければこなすことが出来ない。そして、9時になると全ての部屋の電気が消され就寝となる。時間は規則正しく管理され、まるで刑務所のような共同生活だと思った。この寮には、全員で30~40人近い人が入っている。仕事が終わると我先にと洗濯、入浴を済ませあとは好きな場所でくつろぐのが日常の風景だ。

次の日から仕事が始まった。農協の敷地内に人参、じゃがいも、玉ねぎとそれぞれの工場が独立して建っている。広い敷地だが、出荷用に箱詰めされた野菜を積み込むトラックと、畑からコンテナ毎運んでくるトラックとでごった返している。私は玉ねぎ工場へ配属された。工場内は広く、中央に大きなコンベアがある。コンベアの上をごろごろ転がってくる玉ねぎをS玉、M玉、L玉、腐っている物に選別して、各ポケットに入れていく。ポケットに入れられた玉ねぎは小さなコンベアで流されながら、それぞれ出荷用の箱に入れられテープ止めされていく。あっと言う間に箱が山積みされていき、それをフォークリフトでトラックターミナルまで運んでいく。玉ねぎは思った以上に土埃が舞う。マスクを何重にしても鼻炎に悩まされる日々だった。腐った玉ねぎの匂いが強烈で鼻を覆いたくなることもある。

工場内から一歩外に出ると、目の前には雄大な十勝岳が見えた。休憩時間になると埃から逃れようと外にでるのだが、敷地内のアスファルトに寝転んで、空と十勝岳を見上げると北海道の雄大な自然に抱かれているような、何ともいえない気持ち良さがあった。

生活に慣れてくると、ここでの不便な生活も楽しい生活に変わっていった。仕事が終わると、みんな食後のビールやおつまみ、甘いお菓子を求めて蟻の行列のように近くに1軒しかない農協のお店に向かう。思い思いの物を購入すると、今度は洗濯機と入浴の順番取りのため競争しながら帰っていく。毎日、土にまみれての重労働のせいで食堂での食事は何よりの楽しみだった。食事には勿論とれたてのじゃがいもや人参、玉ねぎが豊富に使われ、時には夕張メロンなども贅沢に出てきた。ご飯はどんぶり飯。それでもペロリと平らげてしまう。夜はお楽しみの時間だった。皆でリビングに集まり、ビールを飲んだり恋愛ドラマを見たりして過ごした。時々は部屋で飲み会を開いた。9時には消灯だが、明かりが消えてからベッドの中で隠れてビールを飲みに集まったり、毎日が修学旅行のようなにぎやかさだった。

ここで働いている仲間は遠くから来ている人が多かった。東京からバイク一人旅をしてここで暫らく働くことにした子、大阪や福岡から北海道に憧れてきた子、札幌から大自然を求めて来た子、様々な思いを胸にここで働いていた。夜はいつしかそれぞれの夢を語る時間が多くなった。陶芸家に憧れ、いつか自分の窯を持ち陶芸で食っていきたいと熱く語る子、チャランゴを片手に旅を続け、これからアンデスへ行きたいと思っている子、農家のお嫁さんになりたい子、それぞれの話を聞きながら、胸が熱くなったり、共感したり、感動したり。時には一緒に涙を流したり。ここでは年齢など関係なく語り合える。ある時は演奏会。リビングがチャランゴの演奏会場になる。私は、毎日みんなで過ごすこの時間が好きだった。週末のお休みが来ると、私は富良野を満喫した。工場には、地元の人も何人か働いていて、私はその中の一人と仲良くなった。車でよく富良野を案内してもらった。麓郷の森はその中でも特にお気に入りの場所になった。ドラマ北の国からのロケ地そのままの姿で、まるで自分がドラマの中に入ったような気持ちになる。寮ではせっかく富良野に来たのだからと、誰かが北の国からのビデオを用意してきてくれ皆で鑑賞し盛り上がったりした。何のニュースもないこの土地では、小さなことでもすぐ話のタネになる。そんなある日、北の国からのスペシャルドラマ版の撮影のため、農協のバス停前に宮沢リエちゃんが立っていたと私達の寮ではビッグニュースになり、ますます北の国から熱は盛り上がった。

ある時は、チャランゴ好きの子が富良野のあるペンションでアンデスの楽器を使ったコンサートがあると情報を仕入れてきて、皆でイベントに出掛けた。私達は夏の一夜をアンデス音楽を聴き明かした。休日に特に予定が無かったりすると、寮に残っている仲間と森の中を散策したりした。何にもなくても十分に心は満たされ、ここでは何もかもが心の栄養になるような気がした。

北海道の夏は短い。秋はあっという間にやってきてしまう。目の前の十勝岳はどんどん山の色を変えていく。風も日に日に冷たくなってくる。雪虫が舞うと十勝岳に初雪が降ると地元の人に聞いた私は、聞いたことのない雪虫が待ってくるのを毎日心待ちにした。

寒くなってくると、時々食堂で一人セーターを編んだ。今年は京都の彼にセーターを贈ろうと思っていた。私は今、この生活をこころから楽しんでいる。彼の一言が無ければここに私はいなかっただろう。北海道の風と一緒に富良野からセーターを贈りたいと思った。


そして、私達にも別れの日が近くなっていた。この後、大根畑で働けるアルバイトを募集していたが、私は既に次の仕事先を決めていた。最後に農協主催で地元のお嫁さんを探している若者との合コンパーティーが開かれた。お互い年頃。なんだかんだいいながらパーティーは盛り上がったのだ。

次の日からはみんな夢を胸にそれぞれ次に向かって順次出発していった。行先など決まっていないことが多い仲間だ。再会できることを約束しあいながら、互いの健闘を祈った。


北海道から実家には何日か戻ったが、私はすぐ次の仕事先に移動した。場所など気にせず仕事の内容で決めたところだった。次は新潟県の雪深い町で仕事をすることになった。初派遣会社に登録し、派遣先で仕事をすることにした。会社が用意してくれた寮は、シーズン前で誰もいないスキー客用の宿泊施設まるごと1棟だった。寮には8人しか入らないのに、宿泊施設は80名も宿泊できる施設。あまりに広く夜になると寂しいので、私達は部屋を2人ずつで使うことにした。その中に偶然にも北海道の富良野で一緒に働いた仲間がいたのだ。お互い顔を合わせてびっくりするばかり。彼女は私より大分年上の大人の女性。陽気な姉御肌で誰からも慕われるような人だった。私達はペアを組むことにした。

大浴場はかなり大きく、人気のない浴場は体を洗おうと湯船から上がると空気が冷え切っていて震える程寒い。館内も広く、人のいるところしか電気を付けないので暗闇に明かりが浮かび、ますます怖さが増す。

近くにははスーパーもコンビニもなく、食料さえ調達できない私達は夜は、会社から手配してもらったお弁当を食べて過ごす毎日だった。寮はスキー場のすぐ下にあるため、職場がある町までは遠い。車のない私達は、派遣会社が準備した大型バスで毎日寮と職場を送迎してもらった。

派遣先の仕事はまいたけ工場だった。マイタケは工場内で栽培されており、取れたてのマイタケを包丁でカットし、グラム数を計りパックに詰めてコンベアに乗せて流す。この単純作業を一日中繰り返す。しかし単調に見えるが私は面白いと感じていた。一つ一形の違うマイタケを見た瞬間にどこから包丁を入れようかと考える。切ったマイタケを持ち上げパックに置く瞬間、デジタル計の数字が何グラムを指すのかドキドキする。手の感覚を研ぎ澄まし、一回のカットで指定のグラム数を乗せることが出来た時は、小躍りする。ちょっぴり職人気分だ。私はすぐに仕事に夢中になる。この仕事も嫌いではなかった。

休みの日は、一緒の部屋のY子さんとよく町に買い物に出かけた。夜、時間を持て余す私達は、町に行くと真っ先に古本屋さんに飛び込んだ。二人とも大量に本を買い込んだ。それから一週間分のお酒を調達する。私はもっぱらビールなのだが、Y子さんはジンが大好きだった。しかも一晩で飲む量も半端ではない。そして必ず、ショートホープを1カートン購入する。Y子さんはジンをストレートでのむのが好きだった。仕事が終わり、部屋でくつろぐ時間になると布団に寝っ転がりながら、寝酒を飲み、本を読むのが私達の毎日の日課になった。お互い同じ部屋に居ても気にならない程、私には楽な人だった。Y子さんがショートホープを吸いながら美味しそうにジンを飲む姿を見ると、とても美味しそうな飲み物に見え、時々ストレートで飲ませてもらった。でもその度むせ、飲んだことを後悔した。そんなY子さんが持つ大人の女性という雰囲気に私は憧れの気持ちを持った。

秋も深まるとスキー場近くの山々は真っ赤に紅葉して美しかった。北海道に居る時のように私達は近くを時々散策して歩いた。Y子さんの提案で寮の仲間数名と山の中にあるお地蔵さんをお参りすることになった。山の中の途中途中にあるお地蔵さんを全て見つけ、お参りすると願いが叶うとY子さんはどここかからこの情報を仕入れてきた。行ってみると予想に反して、とんでもなく整備されていない大変な場所にばかりお地蔵さんは立っている。私達も意地になってお地蔵さんを探し回った。帰るころには全員すっかり歩き疲れていた。思いがけない展開だったけど、こんなに苦労したんだから、きっとご利益があるねと私達は顔を見合わせて笑った。

私はスキー場がオープンするのを心待ちにしていた。ペンションで働いていた時以来、スキーをしていない。しかもここに住んでいれば毎日仕事から帰って夕飯を食べたらナイターに行ける!こんな最高なことはない。等と勝手に楽しみにしていた。ところが突然会社から私達に言い渡されたのは、「派遣先の会社の都合で、この一週間で仕事が打ち切りになります。大変に急なことですが、この寮も週末までです。本当に申し訳ない。」さすがにこの突然のハプニングにうろたえた。全く無計画のまま一日、一日と時間はどんどん過ぎていく。一旦実家に戻るしかないと思い始めていた時、ピンチを乗り切るアイデアがひらめいた。工場には派遣会社が2社入っていた。もう一方の派遣会社はそのまま仕事の継続があることを知った。私とY子さんは、一か八かでもう一方の派遣会社に入れないかと交渉をした。そんな理由ならと私達はもう一社の派遣会社に拾われることになったのだ!他の数名の希望者も一緒に拾ってくれた。残りの数名は新しく仕事を探すことを自ら選択した。

私達はピンチを切り抜け、週末にはスキー場の宿泊施設から荷物をまとめて新しい寮に引越しをした。新しい寮は、一戸建ての一軒家。4LDK。リビングに集まって部屋割りをした。私とY子さんは一緒の部屋を希望し、2階の1室を二人で使うことになった。町中に寮が建っていたため、普通の生活が出来るようになった。さすがに一ケ月以上毎日お弁当は辛かった。私とY子さんは、毎日自炊しようと決めた。炊飯器は共同で使用できるよう準備されていた。炊き立てのご飯は、おかずがなくても美味しい!と思った。私達を見て、寮の皆も自炊を始めた。順番を決め料理を作った。お休みの日には全員で料理をして、食卓を囲んだ。皆で肩を寄せ合って暮らしているようで、皆との距離はより近くなった。

冬になると嫌と言う位雪が降った。ここは豪雪地帯だ。通勤は会社が用意したバスに乗っていく。スキー場から遠く離れてしまったことは悔やまれるが、私には新たなアイデアが生まれた。ここはスキー場天国と言っていいほど、職場に向かうバスの中からスキー場がところどころにあることが確認できる。そこで、バスの運転手さんにお願いし、朝出勤するときスキー道具をバスの中に積ませてもらい、会社からの帰りは、スキー場近くでおろしてもらってナイターを楽しみ、自力で路線バスに乗り帰ってくるという計画を立てた。一週間に一度私は一人仕事帰りにスキー場に通った。やっと念願のスキーができ、嬉しくてたまらなかった。その内、会社の男の子達とのスキー計画が持ち上がり、私は寮の女の子も誘って土日はみんなでスキーに明け暮れるようになった。滑る仲間が出来て嬉しかった。Y子さんは北海道出身なので、スキーが上手かった。本当に全く年の差を感じさせない人だ。スキーの後は、時々飲み会も開くようになり、私達は社員の皆と仲良くなっていった。

シーズン中、かつてスキー場で働いているときにお客様として来ていたスキーのインストラクターの方から突然新潟に会いに行きたいとの連絡があった。彼は私がどこに行っても時々はがきを送ってくれるそれだけの人だった。もう何年も。山形の人だったので、彼の友達も連れて大勢で遊びにきてくれた。私も寮の女の子を誘って、大勢でのスキーになった。久しぶりに再会した彼は、シーズン中ということもあって、雪焼けで真っ黒だった。皆で楽しく滑って一日を過ごし、彼は帰って行った。私に突然山形に来て欲しいと難しい宿題を残して。


3月、会社の男性が多く参加するからと伝統的なお祭り裸押し合い祭りに行かないかと誘われた。なかなかこんなお祭りを見にくるチャンスもないし、私達は寮の皆で出かけることにした。雪国の夜はかなり冷え込む。お祭りは、裸にさらしを巻いた男衆が、雪の中で押し合い、投げ入れられたお札を奪い合うお祭りだった。いつも会社でしか見たことのない男衆もこの時ばかりは勇ましく、威勢の良い声で叫び合いまるで別人のよう。裸の体から真っ白く、もうもうと湯気が立ち、その迫力と熱気に圧倒された。私達はこうして、雪国での生活を満喫していた。


3月末、ここでの仕事がひと段落つくことになったため、私は一旦実家に帰り体制を整えて、また次に向かおうと思っていた。しかしどうしても私はここにいるうちにやらなければならないと思っていることがあり、必ず実行しようと心に決めていた。この地でY子さんと散策しながら、山道の中にあるお地蔵さんにたった一つ願掛けをした。その願いが叶うのはあのお地蔵さんのご利益かもしれない。Y子さんには、全て打ち明けてあり、私はY子さんに見送られ京都に向かって出発していった。京都にいる彼は3月末で京都大学を卒業し、香港に移住することが決まっていた。私はどうしても最後にもう一度だけ会いたかった。会ってちゃんとさよならを言わなければ。私の人生を大きく変えるきっかけを与えてくれたことへの感謝を伝えなければ。そして、ずっと想い続けてきた彼への気持ちにここでけじめをつけ、次に進んでいかなければ。彼に連絡をとると、快く約束をしてくれた。早く会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ちとが心の中でぶつかった。私は私の旅のスタイル、青春18切符を使って鈍行に揺られて旅をしながら会いに行こうと決めた。まるで、今日までの私の足取りのようだ。会えなかった四年間の自分の太冒険の写真をポケットアルバムいっぱいに持った。彼が変えてくれた人生の中で笑っている私を見て欲しかった。

なかなか関西方面に来るチャンスもないため、待ち合わせまでもまだまだ時間がたっぷりありすぎるし私は京都に着く前に名古屋に寄り道をした。スキー場のペンションにお客様としてきていた彼に会いに行くことにした。彼は毎年スキーに来てくれ、その度毎回飲み明かした。私を酔いながらナンパしたことも今では良い思い出。私が沖縄に移住した時も遊びに来てくれた。約束の駅まで出迎えてくれた。鈍行の電車の待ち合わせ時間の間での再会のため、私達は駅近くのお店で食事をすることにした。せめて名古屋の味をと言ってソースカツの店に連れて行ってくれた。久しぶりに会う彼は何にも変わらず、私達はお互いのことを話し、とりとめのないことを話し笑った。考えてみるとこれも不思議な縁だ。ここまで一人で張りつめていた気持ちが幾分ほぐれ、楽になったような気がした。いつになるかわからない次の再会を約束して私達は別れた。

午後、早い時間に京都に到着した。待ち合わせまで時間があったので、清水寺の中をぶらりと観光した。いつもなら一人旅を満喫するのだが、今日は心ここにあらずで落ち着かず、少し早いが待ち合わせ場所の円山公園に行って待つことにした。ベンチに座り空を見上げた。真っ青で良く晴れた空。もう春があそこにもここにも舞い降りてきている。私は出会った日のことを思い出していた。一緒に過ごした日々はずっと私の大切な宝物だった。

私にはすぐわかった。遠くから彼が歩いてくるのが。来てくれた!本当に会えた!私のたった一つの願は今叶った!テニスラケットを肩に下げ、あの日とまるで変わらない。私達は再会を喜び合った。そのまま公園のベンチに座って語り合った。場所などどこでも良かった。今は一分でも一秒でも一緒にいられることのほうが大事だった。彼は大学生活のこと、これからの夢のことを話してくれた。日本語は驚くほど上手になっていた。四年間の時間を感じる。それから写真を見ながら私の四年間の話をした。いつも楽しそうに、真剣に話4日後に香港に発って行く。ぎりぎり間に合って会いにこれた。でももうこれで彼とは二度と会うこともないかもしれない。胸に深く今日のことを、彼と出会えたことを焼き付けようと思った。一緒の時間を大切で愛おしいと思った。私達は言葉なくただ固く握手をした。彼はバッグの中から紙とペンを取り出し、何かを書き私に持たせた。そこには地図が書かれていた。

「ここは、京都に来て私が一番大好きだった場所です。よく歩きました。引越しの準備がまだ終わっていなくて、今日は一緒に行けなくてごめん。でも君に見て欲しいんだ。まだ京都にはいる?」そう言って一生懸命案内をしてくれた。私達はもうお互いの連絡先は聞かなかった。彼はこれからも世界のどこかできっと夢を追いかけながら暮らしていくことだろう。何度も振り返って手を振り、彼は私の視界の中から消えて行った。

寂しかった。無性に寂しかった。一人でいることが辛かった。ベンチに腰掛け、さっきまでここにいた彼の残像を感じていたかった。知らず知らずのうちに涙が流れていた。それから私は、彼がここで過ごしてきた四年間を少しでも感じたいと思い、地図を見ながら彼が歩いたであろう道を歩いてみることにした。宇治は静かな町だった。宇治川沿いを歩くと、川の流れのように緩やかに街の歴史も流れてきたかのように感じる。地図を握りしめながら歩くと、まるで一緒に歩いているかのような気持ちになる。でも次の瞬間には、寂しさが津波のように幾重にも重なって押し寄せてくる。私はその寂しさの津波に飲み込まれないようにただひたすら歩いた。

明日はここを発って新潟に戻らなければならなかったため、京都駅のすぐ傍にあるビジネスホテルを予約していた。どこに行っても寂しさの穴は埋められず、胸が苦しかった。一人になるのが怖くて人ごみに紛れていたかった。歩き疲れた足を引きずって、京都タワーに向かった。京都タワーから、彼が住んでいた京都の街並みを見下ろした。夕暮れは私をさらに寂しさで染めていく。私は涙でそこから離れられず、涙でぼやける京都の街並みをいつまでも見ていた。

部屋で一人になると、ついに私は寂しさの津波に飲み込まれ、息もできない位くるくると予測できない寂しさの波の中でもがいていた。ベッドのシーツに身を入れると寒々として、それは余計自分を寂しさの中に追い込んでしまう気がした。私は椅子に座ったまま毛布にくるまり、京都の街並みを眺めながら朝方少しうとうとした。夢の中でも涙が流れる感覚がわかった。


朝が来た。何とか一人でこの寂しい夜を越えたのだと朝日を見て安堵した。今日は新潟に帰ろう。Y子さんや仲間が待つ新潟へ。私はさっさと身支度をし、早々にホテルをチェックアウトした。京都駅に向かって歩くと、駅前には人だかりが出来ていた。その前を歩いて行くと、私にも新聞が手渡された。号外が配られており、受け取る人の人だかりだった。東京で起きた地下鉄サリン事件を知らせる号外だった。世の中でこんな大なことが起きてるなんて。

新潟に戻ると残り一週間仕事に没頭した。夜になると眠れない程たまらなく寂しくなる時もあった。Y子さんは、ショートホープを美味しそうに吸いながら、ジンを飲みいつまでも私の話に付き合ってくれた。素直に泣ける場所があることはありがたいことだった。最後の仕事の日は、仲良くなった社員の皆が送別会を開いてくれた。

次の日は、寮から一人、また一人と次の場所へ向かって皆旅立って行った。私とY子さんは最後まで残った。北海道で出会って、偶然にも新潟で再会し、そしてまた別れ。私は実家へ、Y子さんは新しい仕事先の沖縄へそれぞれ発った。出会いは多くのものを私に運んできてくれる。京都の彼も、Y子さんもそうだ。別れ別れになっても、出会った喜びや思い出は私の中で全て生きていく。私という人生の生きざまの中で。出会えたことに感謝。


私は実家に帰る途中で山形に立ち寄った。私に残された宿題を何とかしなければならなかったからだ。その日は、スキー場のインストラクターをしている彼が働いているホテルに予約をとり宿泊することにした。彼が仕事が終わったころに行くことにしてあり、ホテルのレストランで一緒に食事をすることにしていた。気は重かったが、直接会ってちゃんと話がしたかった。それが自分なりの誠意だと思ったからだ。

食事をしてから、今日は彼も一緒の部屋を予約していることを知った。私は驚いたと同時に彼に変な期待を持たせてしまったことに罪悪感を感じた。本当は食事をしながらやんわりと断るつもりでいたのに。部屋に二人きりになると熱烈に山形に来て一緒になって欲しいと気持ちを告げられた。私は正直に今の気持ちを話した。私自身、まだ京都での別れを整理しきれてなく、それに私には何度かしか会ったことのない人との結婚なんて考えられなかった。今日会うべきではなかったのかもしれないと思ったが、彼はもう40を超えていて、私がちゃんと答えず先延ばしにするのはとても悪いことに思えてならなかった。彼は納得できず、力づくで私を抱こうとしたけど、涙でぐちゃぐちゃの私を見ると、そのまま隣のベッドにもぐりこんだ。私達はそのまま、辛い夜を耐えながら一つの部屋で過ごした。私は泣き疲れていつの間にか朝を迎えた。

このままホテルで別れようと思ったのだが「最後のお願だ。もう少し一緒にいて欲しい。高速で送らせてよ。」と彼が言った。私には断ることが出来なかった。彼の姿はまるで、京都での自分自身の姿だった。彼は高速を松島で降りた。彼が最後を嫌な思い出ではなく、良い思い出で終わらせようとしているのがわかったから、私もそれに従った。お昼を一緒に食べ、海の傍を散策した。

彼は最後に「ありがとう。さよなら。」と言って高速に向かった。私は、遠ざかる車に深々と頭を下げた。

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