第2章 鉄砲玉放浪記

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松島からは電車でのんびりの実家に向かった。スキー場で一緒に働いていたお兄ちゃんから、結婚が決まったと連絡をもらっていた。実家に帰る途中で会う約束をしていた。私は夕方の電車に揺られながら、ひどく疲れている自分を感じていた。お兄ちゃんの前で笑えるかしらとひきつった自分の顔を手のひらでもんでみた。

お兄ちゃんが駅まで迎えに来てくれた。約2年ぶりの再会。「よお!久しぶり!元気そうだな。」2年前と同じお兄ちゃんにほっとした。今日は飲み明かす約束だった。結婚前にお兄ちゃんは私を泊めたりしていいのだろうかと思ったが、お兄ちゃんに会った途端、すぐに昔のいような賑やかさが戻ってきて、そんなことも気にならなくなった。スーパーに行き材料を調達すると、お兄ちゃんのアパートに行き夕飯の準備をした。二人で鍋を食べ乍らちびちびと酒を飲み、語り合った。お兄ちゃんも私も二年という月日の中で、それぞれの人生を歩き今こうして向き合って思い出話が出来るようになった。嬉しかった。またお兄ちゃんとこうしてふざけたり、語り合ったりできるようになったことが。お兄ちゃんなりの独身最後のわがままなんだと思った。スキー場のペンションは、昨今のスキー離れで顧客数に伸び悩み、経営が厳しくなり営業しなくなったことを知った。お兄ちゃんや皆と家族のように寝泊りを共にして過ごしてきたあの思い出のペンションがもうないなんて。泣いたり、笑ったり、私達はいつしか話疲れてこたつで眠った。


私は今度は実家でじっくりと仕事探しをしながら、父と母の仕事を手伝って過ごそうと決めていた。いつもなら次の仕事をもう決めて動いていたのだが、さすがに彼との別れの後には仕事のことも次のことも思い浮かべられず、少し休もうと思っていた。父はもう私のこれからのことに口出しすることはなかった。時々「おい。鉄砲玉。次はどこに吹っ飛んでいくつもりなんだ。」と笑っていうことがあったが、いつもそう言いながら見守っていてくれることを良く知っている。私には最高の味方がいるといつも感じていた。

父と母は相変わらず夫婦で冗談を言い合いながら、楽しそうに仕事をしていた。私もすぐに仕事の感覚を取り戻し、父と母と一緒にシイタケの仕事をした。この親子で過ごす時間を私はとても幸せだと感じるようになったいた。少しずつ年老いていく父と母を見ると、あとどれくらいこんな時間を過ごす事が出来るのだろうと考えることがある。

一人で頑張っている時は、自分の甘えたい気持ちを抑えるために、父と母はもういないと考えて過ごした。自分で何とかしなくちゃと自分を追い込むためにはそう思うのが一番だった。でも今、両親と過ごしている時間は、そんな風に自分に盾を作らなくてもいい。いつも私を心配してくれる両親の気持ちを感じながら、静かに平穏に暮らせる。この時間は砂漠のオアシスみたいだ。それなのに、私はまたいつか厳しい砂漠へと旅立って行く。


ほどなくして次の仕事の採用が決まった。派遣会社に入り、長野に行くことに決めた。

「行ってくるね。」

「身体に気をつけてな。」

両親はそう言って送り出してくれた。春はもうそこまでやってきているのに東北は桜の開花にはまだ遠い。大宮から乗換え長野に向かう電車の窓からは、白い雪が筋のように山肌に残る浅間山の景色と咲き始めた桜の木々が私を迎えてくれた。

駅には派遣会社の人が迎えに来てくれた。事務所に行き、契約書類を作成すると寮へ連れていってくれた。寮は新しいアパートを2棟派遣会社が契約しており、私はその一つに入ることになった。アパートは2DK。しかし既に東京から来た人、沖縄から来た人が入っており満室だった。用意できる部屋はそれしかないというので、キッチンに続くダイニングをレールカーテンで仕切り、そこが私の部屋になった。キッチン、バスは共同で使う。近くには私鉄電車が走っていたが、料金は高く本数も少ない。バスも走っていないような不便な場所だった。新しい会社までは徒歩五分。田んぼの中を歩いて毎日通うことになった。新しい仕事はモーターの組み立てと検査。経験のない仕事だったが、コツコツ作業することは嫌いではない。地元では大企業で、生産工場をいくつか持っていた。生産は上向きで、残業も毎日のようにあった。


寮の人とは、すぐに打ち解けられた。私より大分年上のS美さん。S美さんは私のお姉さんのような存在になった。S美さんには、中学生の子どもがおり、沖縄の祖父母に育てられながら別々に暮らしていた。別れた旦那さんの多額な借金を背負い、返済のため働かなければならず、仕事を求めてここまできたのだ。沖縄という共通点から私達はすぐに仲良くなった。夜は一緒に夕飯を食べ晩酌をした。S美さんは日本酒が大好きで、唯一夜の晩酌を贅沢な時間と決め、ちびちびと飲んで楽しんでいた。

同い年位のAちゃんは、聖飢魔Ⅱの大ファンで追っかけをしていた。聖飢魔Ⅱに会いに全国どこでも飛んで行った。給料も全て聖飢魔Ⅱのためにあると言っても過言ではなかった。ある日、冷凍庫を開けると一口食べかけのリンゴが入っているのを発見した。冷蔵庫は3人で共同で使っていたため、リンゴの持ち主は3人のうち誰かに違いなかった。Aちゃんに聞くと、血相を変えて部屋から飛んできた。

「それでリンゴは無事なの?」声を荒げていうAちゃんにびっくりしたのだが、なるほど。

「あれはさ、私の宝物なの。コンサートでデーモン様が一口噛んだリンゴを会場に向かって投げて、争いの末ゲット出来たものなんだよ。凄い価値のあるリンゴなんだから。」と大切そうに手の平でリンゴを包んで話してくれた。それから、冷凍庫は開かずの間になってしまった。ある時は、玄関を開けるといきなり等身大のデーモンが立っていて、出迎えてくれた。開けた瞬間驚いて、Aちゃんの部屋に駆け込むとカメラ屋さんの前にあったものをたまらず持ってきてしまったと部屋の隅で小さくなっていた。こんな調子で彼女の一日はデーモン小暮で始まり、デーモン小暮で終わる。


派遣会社で私達のお世話役をしてくれた担当者は、面倒見のいい人だったので皆におっちゃんと呼ばれ慕われていた。おっちゃんは、時々私達を食事に誘ってくれた。四国出身のおっちゃんは、よく四万十川の美しさや、四国の素晴らしさを熱弁してくれた。旅好きの私はおっちゃんの話が大好きだった。仕事にも慣れ、余裕が出てくると私達は長野を旅行しようと寮の皆で計画を立てた。おっちゃんが、全員を連れて乗鞍高原に連れて行ってくれた。車のない私達はそれからもちょくちょく安いバスツアーに申し込んだりして長野の旅を楽しむようになった。夏休みになると、S美さんの子どもが沖縄から来ることになった。S美さんによく似ていてぽっちゃりした可愛い女の子だった。初めて見るS美さんの母親の顔。二人は会えなかった時間を埋めるように常に一緒に過ごした。S美さんの嬉しそうな顔を見て、私も嬉しかった。

私はこの夏、富士山登山に挑戦しようと決めていた。まだ京都で別れた彼のことは、心の奥深くに眠っていて私はそこから前に進めなかった。私の中にいる彼は、いつも新しい挑戦を笑って応援してくれた。私の新たな挑戦だ。

会社で仲良くなった人が一緒に参加したいと言ってくれ、二人で女子登山をしようと盛り上がった。練習と言えるような登山ではなかったが、1ケ月前からこの地元で愛され親しまれている山に何度か登り富士登山に備えた。

富士登山当日は好天に恵まれ、真っ青な空が眩しかった。ツアーバスで5合目まで行き、そこから登った。登ってからほどなくして、休憩しているとおじさん3人グループと一緒になり、話しているうち意気投合し一緒に登ることになった。3人は趣味が登山で毎年富士山に登っているというベテランだ。登山の事は全く何もわからない私達にとっては心強い。辛い道のりを楽しく登ろうと、私達は金剛杖に捺印を押してもらいながら登った。捺印たった一つなのだが、この登る苦しさのご褒美のようでこれだけの事が励みになったりするから不思議だ。8合目着の山小屋で仮眠する。夕飯はレトルトカレーとご飯。夕飯を済ませると横になって休んだ。まだ6時半だったが、これから真夜中まで仮眠し、ご来光を見るために真夜中に起きて頂上を目指す。しかし、夏の山小屋は恐ろしいほど混んでいる。寝ると寝返りも打てないような状況になる。全員で布団を分け合って眠ることになり、なんと一枚の布団に顔と足を入れ違いに入れ4人で入るのだ。私達は、一緒になったおじさんグループと布団を共有することになった。横になると私はかなり疲労していたのだと思った。そこここから聞こえるひそひそ声のおしゃべりもビニール袋をガサガサする音も気にならず、眠ることができた。

真夜中2時近くに私はおじさんに起こされやっと目を覚ました。眠くて宙に浮いているような心地だったが、身支度をして頭にヘッドライトを付け山小屋の外に出た。山小屋からは、上にも下にも登山道が出来てそれはちろちろと光が揺れながら長く長く続いている。ヘッドライトの長い一本の道がどこまでも続いていた。天気は良好。風もない。空を見上げると星が近い。その美しさに見とれていると次々と流れ星が流れていくのが見えた。凄い!私達ははしゃぎまくっていた。でも、私は歩くほどに頭が痛くてたまらなくなり、言葉も出ない程になった。おまけに突然小さな吐き気が襲ってくる。おじさんに不調を訴えると、3人のおじさんは手際よく私を休ませ、持っていた酸素を吸入してくれた。私は高山病になったのだ。酸素を吸い、しばらくじっと動かないでいると少し症状は和らいだ。しかし、頂上まではまだまだ距離がある。これ以上は無理だという気持ちが湧いてきた。おじさんは3人で何やら相談していたが、「よし。全員で少しずつ分け合って助け合って登って行こう。」そう一人のおじさんがいうと「そうしよう。」と意見は全員一致した。1人のおじさんは自分のリュックの上に私のリュックを背負い、もう2人のおじさんは私の両脇を持って支えてくれる。私の友達も心配そうに、酸素吸入を手伝ってくれ、こまめに吸入と休憩をとりながら登った。

「君達に必ずご来光の素晴らしい景色を見せてやるからな。」おじさんは、独り言のようにつぶやいた。どれくらい歩いたのだろう。うつくいて下ばかり見て歩いていた私に、「頑張ったね。着いたよ。」とおじさんが言った。顔を上げて振り向くと、空が明るんできていた。ご来光にはまだ少し早いようだった。岩の上に5人で座りその時を待った。恵まれた天候のお蔭で山より下にモクモクとどこまでも雲海が広がり、その中から眩しいほどの太陽が昇ってきた。これがご来光!雄大な自然の美しさと登り切れた安堵と、何よりここまで諦めずにお荷物になった私を助けてくれた4人への感謝の気持ちとで涙が次々とあふれ出す。助けられながらも登り遂げられ、私が次に進むために踏み出一歩はきっと力強く踏み出せるだろうという確信が持てた。


夏の終わり、社員の男性から派遣会社の女子寮メンバーに一緒にキャンプに行かないかと誘いがあった。私は全く気が進まなかったけど寮のメンバーからの強引な押しに断れずに行くことにした。湖の近くのキャンプ場に出掛けた。キャンプに行くと、その人がどんな人なのか浮き彫りになるものなんだなと思った。ただ飲む人、陽気に盛り上げる人、よく働く人、どうすればいいのか戸惑う人。キャンプはそれなりに楽しかった。

キャンプから数日後、私は突然キャンプに行ったメンバーの一人から付き合ってくれないかと告白された。キャンプの中で良く働いていた人だ。でも私の中では、京都の彼のことをまだまだ引きずっていて即座に断った。しかし相手は諦めず、何度ものアプローチをする。悩んだ末、私はS美さんに相談した。

「なおちゃん、いつまでも京都の彼のことを想ったってもう会えないし、終わったことなんだよ。次に進む勇気を持たなきゃ。いい機会じゃない。現実を見なさい。」S美さんはそう言った。そしてS美さんにも、離婚してから好きな人が出来たことを告白してくれた。私はそれからも随分悩み、友達として遊ぶことからならと答えた。

「ゆっくりでいいよ。いつまでも待っているから。」と彼は嬉しそうに笑って言った。それから私達は共通の趣味を楽しみながら、少しずつ近づいていった。長い間自分にはない時間だった。しかし、私の中には煮え切らないものもあり、いつも立ち止まっては悩んだ。


製造業には忙しさの波がある。S美さんは、会社の残業が減ってくると、借金の支払いが苦しくなり定時で仕事を終えた後、もう一つ仕事をするようになった。毎晩の楽しみの晩酌もできなくなり、寮に帰ると一人で時間を持て余すようになった。派遣会社とはそういう場所なのか、人の入れ替わりはとにかく激しい。最初に一緒だったAちゃんはとうの昔に辞め、次に入ったのは沖縄のEちゃん。Eちゃんもお酒が大好きだったのだが、飲みすぎてたびたび会社を休むこともあり少々生活にルーズさがあった。部屋にこもり切りのことが多く声を掛けにくかった。

そこで何とも安易な考えなのだが、私もアルバイトを始めようと考えた。しかし、アルバイト先が会社と寮からそう遠くては、車もないのでしんどい。休日そんなことを考えながら歩いていると、偶然にも近くのお寿司屋さんのアルバイト募集を発見した。しかも、都合の良いことに夕方から夜閉店までの数時間のバイト。私はすぐさま店に飛び込み、店長に会った。するとラッキーな偶然が重なり、女性アルバイトの方が辞め困っていたところと即採用になった。私は毎日工場での仕事が終わるとまっすぐ寮に戻り身支度をし、寮から徒歩10分程のお寿司屋さんに出勤した。仕事は遅いと11時近くになることもあった。帰って来ると次の日の工場の仕事に差し支えないようにすぐ布団に入る。土曜日にもアルバイトをお願されていたため、私には自由な時間がなくなってしまった。彼とは日曜日の空いている時間に時々会うだけになった。

私はまるで何かを一心不乱に忘れようとしているかのように時間を隙間なく埋めていった。お店のマスターと奥さんは私をとても可愛がってくれた。毎日まかないで夕食をとるようになっていたので、一人で作って食べるより格段美味しい。他にも学生の男の子が2人アルバイトをしていて、曜日で交互に来る。マスターは時々、休みの日にはアルバイトを全員連れ食事やカラオケ、観光旅行に連れて行ってくれた。そして必ず私達の分まで費用も持ってくれるのだ。私は長野にお父さん、お母さんが出来たようで嬉しかった。

そんな時働いている会社の新工場が建った。派遣のい私達は新しい工場で働くことになった。今までは寮から徒歩で歩いていけた職場だったが、私達は派遣会社で用意したバスに乗って朝晩の送迎をしてもらうことになった。新しい工場のライン立ち上がり軌道に乗るまでは少し時間がかかった。彼は生産技術部門にいたため、工程の途中が止まると調整をしにくる。その仕事ぶりと私を待ってくれるおおらかさと誠実さを感じ、少しずつ彼を信頼する気持ちが芽生え始めていた。

彼が私の寮の部屋にたびたび遊びにくるようになった。私には時間がなかったからそうするしか彼は会う方法がなかったからだ。そんなことが続くと、同居しているメンバーに気遣いすることも多く窮屈に感じるようになった。経済的には不安が大きかったが、私は寮を出てアパートを借りることに決めた。おっちゃんに事情を話し相談すると、おっちゃんは学生さんが借りるような安いアパートを見付けてきてくれた。ところが、今度はアパートからはバスの送迎場所の寮までも仕事先までも遠く車が無ければどうにもならない。私はとうとう思い切って安い中古車を購入することに決めた。彼に車選び、引越しを手伝ってもらい寮を出た。

私の中で何かが変わり始めていた。今までならもう次の場所での仕事探しをている。しかし、ここに生活の基盤を自ら作ってしまったのだ。彼とは前よりゆっくり二人の時間を過ごすようになった。相変わらずアルバイトは辞めないし、時間はなかったが唯一の休みの日曜日には、二人で出かけたり夕飯を作って一緒に食べるようになった。

二人で休日にペットショップを見に行った時の事。思わず衝動買いでウサギを買ってしまった。それから一人と一匹暮らしが始まった。私はウサギにぴょん吉と名前を付けた。ウサギなど飼ったこともなかったけど、一緒に生活するようになると人懐こく私の後を必死でついてくるぴょん吉が可愛くてたまらなかった。

新工場の立ち上げは順調だったものの生産数は落ちていく一方だった。その頃から世の中は景気が悪いといわれるようになり、突然寿司屋のマスターと奥さんからこれからは夫婦二人で細々とやっていこうという話しになってねと私達アルバイトは突然解雇となった。ずっと多忙極まりない生活を送っていたため、突然時間が空くと一体何をすればいいか分からない。今度は車があるので、私は守備範囲を広め、ファミレスや町の寿司屋と夕方から夜までの時間帯には相変わらず仕事を見付け働いた。


母から突然電話があった。母は誰かに聞いて欲しかったのだろう。妹が突然彼氏を連れて来たという内容だった。妹は真面目で優等生。私とは全く正反対のタイプ。高校、大学と順調に進学し教員になる夢を貫き通した。大学卒業後、実家から地元の学校に臨時教員として働きだして三年目のことだった。

「良かったじゃない!」と私は喜んだ。ところが一週間後、また母から電話があった。

「今日もまた彼氏を家に連れてきてね、一週間前に結婚を前提にお付き合いしていますって挨拶をもらったばかりなのに、今日はいきなり結婚するって言いだしてね。今妊娠三か月だっていうんだよ。そりゃあもうびっくりして。出来たものはしょうがないけど、仕事も初めてまだ三年なのに。苦労して働いて大学に入れたのは何のためだったのかって悔しくて。それで、困ったことにお父さんが一言も口をきかなくなってしまってね。」と母は電話の先で困ってる風に話した。

私だって、自分の進学という選択はねじ伏せられ、妹のアパート代の不足分などをわずかな給料から援助してきたことを思えば、一人前の教員になる前に...と複雑な心境だ。

「ね、お母さん。お父さんに電話替わって。私からも話してみる。」父はしぶしぶという感じで電話に出た。もともと無口な父は、あまり電話が得意ではない上、話したくないことを話すため貝のように口を閉じているのだ。

「あのさぁ、お父さんのショックな気持ちはわかるよ。私だって驚いたし。でもどんな形でも妹達が幸せになろうとしているんだから、家族は心からお祝いしてあげようよ。確かに順番は違うけど、結婚をして赤ちゃんを産んで、それから妹達がちゃんと家庭を作っていければ何の問題もないじゃん。相手も先生だし、同じ学校だし、田舎だからしばらくは色々うわさされて辛い思いをするかもしれないけど、家族までそれを責めることないじゃん。これからの二人の生き様を見守っていこうよ。それが家族じゃん、。私はそう思うけど。」父は黙って聞いていたが、一言「そりゃそうだ。」と言った。

それからしばらくすると、二人は安定期が来たら結婚式をする予定だと電話で連絡があった。


工場の仕事はさらに生産数が減り、いよいよ派遣会社は少しずつ人を減らされていくことになった。寮を出てしまった今では、もし仕事が無くなっても住むところは確保できそうだが、生活費の支払いが出来なくなってしまう。私は職安に行き、次の仕事を見付けようと思った。

彼とは少しずつ結婚を考える様な関係になっていた。彼の両親に紹介されることになり、家へ食事に招待された。お姉さんは家を出て一人暮らしをしており、家にはお父さんとお母さんだけだった。亭主関白ということばがぴったりくるくらい、家の中でのお父さんの意見は強く絶対的だった。お母さんは、そんなお父さんただ後ろからついていくようなタイプの人だった。お父さんは会社でも役職があり、仕事で海外も行き来していたようで、仕事の話をしてくれた。私に対しては、家族構成から仕事の内容からこと細やかに聞いた。初対面であったし、あまり気分は良くなかったが正直に答えた。お父さんは相手に威圧感を与える人だと思った。彼は結婚適齢期ということもあり、お父さんの質問から結婚相手にふさわしいのかどうか見定めている感がよく伝わってきた。

「私は、結婚後は仕事を辞め女は家に入るものだと考えている。旦那が仕事から帰ってきたら、玄関で三つ指ついて今日も仕事お疲れ様です。ありがとうございますと出迎えるのが当然だ。」というお父さんの考えを聞いたときは、さすがんみ興ざめした。私自身はもともと結婚に対して余り良いイメージを持っていなかった。小さな頃から母が嫁姑の関係で悩み、よく泣いている姿を見て来たせいか、結婚すれば幸せになれるという構図は頭の中に描けなかったのだ。彼は長男だし、結婚を意識するようになってから、よく彼なりの将来像の話をしてくれた。結婚したら同居で、この同じ敷地内の中に私達の住む小さな家を建てる。でもリビングやお金のかかる水回りのお風呂は共通で使うことにして、食事は家族みんなでリビングで食べて、両親とも一つ家の中で仲良く暮らしていくというのがそうだ。私は同居と言われた時点で心の中に何かが引っかかって、彼にはあまり自分の本音を話す事が出来なくなっていった。お父さんに会ったことで、私には少し結婚が重たいと感じ始めていた。


私は、派遣会社を辞め、職安で見つけたお菓子の製造工場でアルバイトを始めた。しかし、もう少し条件の良いところで働こうと思っていたので見つかるまでのつなぎの仕事と考え、積極的に職安に出掛け仕事を探しながら働いた。長野に来てから、私には少しずつ自分の生活を守るという意識が生まれていた。そのことはことさらに私を仕事へと向かわせた。まだ心のどこかには自由気ままに知らない土地に行って暮らしたいという思いは残っていたが、そうならない現実があることも感じていた。そのギャップに私の気持ちはいつも揺れ動いていた。しかし、私にはもうこの守るべきもの全てを捨てきることが出来なかった。ジーンズとTシャツとカメラとわずかな現金だけで良かったあの頃の私。それだけでは生きていけない現実。この長野で生きていってみようと思いはじめていた。


職安に通い出し始めてぴんと来る仕事を見付けた。お給料も悪くない。私が暮らしていくには十分だ。すぐに面接を申し込んだ。

「あなたの年齢では、正社員としての採用は無理です。準社員での採用ですがそれでよろしいですか?」と面接官に聞かれ、「はい。構いません。」と即答だった。結婚を意識しながらも、まだ私の中には長野で生きていく完全なる決意は出来てなく、完全に縛られてしまうのは嫌だった。即採用してもらい、私はお菓子工場をやめ精密機械工場で働くことになった。工場の生産はどんどん上向きで、地元では優良中小企業だ。今までの経験から、私はラインでの製造作業への配属だろうと考えていた。しかし、私の配属先は修理の受付、苦情の受付、修理したものをお客様に請求、送付するなどが主な仕事の部署だった。何もかも初めてのことだらけ。苦情の電話対応などしたことも泣ければ、パソコンに触るのも初めてだ。係長の部下は男性社員が二人いるだけ。大抵3人は修理に一日没頭する。電話対応や、パソコンでの受付、請求書の作成などは全て私の仕事だった。生産台数が上がると修理台数も増加する。

数か月がたつと、仕事にも慣れ仕事は日増しに多忙になっていった。毎日遅くまでの残業が続いた。しかし私自身は、今までに経験がない仕事は新鮮でやりがいを感じていた。

そんなある日、職場の皆が私に対していつもと態度がちがうことに気が付いた。変だなと思い

「何があったのか教えてよ。」と男性社員を問い詰めると、

「あなたのご家族から、こんなに残業させてどういうことなんだって電話があったんだよ。それで仕事終了時間に気を配るようにって全員厳しく言われたんだよ。」

私の家族??私は何が起こったのかよく理解できないため、課長に直接聞きにいった。すると、彼のお母さんが私の帰宅時間が遅いことを心配して、会社に電話をかけてきて訴えたのだということがわかった。私は驚いてしまった。まだ結婚したわけでもないのに、仕事のことにまで口出しされるなんて。彼に会い、事情を話した。お母さんには彼から説明してもらうことにしたが、これほどまでに親に干渉されたことがない私は、彼の両親に恐怖を感じた。いつも監視されているような気持ちになる。二度、三度と家に遊びにいくようになると、その内今度は私のアパートにまでわざわざ出向きしょっちゅうおかずを作って持ってきてくれるようになった。嬉しいと言うよりは戸惑いの方が大きく、受け取らないわけにはいかず、おかずを頂いていた。


会社の中には少しずつ友達もでき、遊びにも誘われるようになった。冬になると会社のスキー、スノーボードクラブに入り毎週のようにクラブの皆と滑りに行くようになった。もともと大好きなウィンタースポーツ。その上こんなに沢山一緒に楽しむ仲間が出来、もう私は夢中だった。彼には見えない私だけの交友関係がどんどん出来ていった。彼とはなかなか時間が合わなくなって会う回数も減っていったが、私は彼との時間に執着することなく自由に自分の時間を楽しみまくった。


会社に入ってから1年。仕事も何とか一人前に出来るようになってきたところで初めての異動を命じられた。異動と言っても、業務内容は変わらず、所属する部署が変わるという異動だったのだが。今まで独立した部署だった私達は、いきなり大所帯に所属することになった。異動をきっかけに、今まで一緒に滑ったことはなかったけど、一人の男性からスキーに誘われた。その頃はスキーに誘われれば、必ず誰かと一緒というのがクラブの中の常識だったし、新しい部署の人を連れて来てくれるのかなと思い、気軽に「いいよ。オッケー。」と返事をした。ところが約束したスキーの当日。待ち合わせ場所の駐車場に来たのは彼一人。私は驚いてしまったが、その場では断れず2人でスキーに行くことになった。ほぼ初対面だったし、まぁいっか。友達になればいいしね!と軽い気持ちでスキーに行った。そんなことをきっかけに、今度は彼が所属している会社の釣りクラブの釣りデイキャンプに誘われた。釣りも悪くないか...と、釣りクラブ数名の仲間と一緒に初めての釣りを体験した。ところが珍事件。誰も釣れない中、釣り糸ばかり絡めてうまく投げ込めない私の竿に、まさかの40センチ弱のニジマスがかかったのだ。ビギナーズラックとはこのことか。皆で魚を料理して食べ、何とも面白い思い出が出来た。そして彼は、私の友達の一人になっていった。


ある日人事担当者から唐突に「おめでとうございます。頑張りが認められましたね。」と声を掛けられた。何の事だか身に覚えはない。すると人事担当者は「あなたの部署の課長から推薦があり、準社員から正社員になったのですよ。また後で課長からお話があると思います。」と言った。

えっ!?私のこと?と聞き返すくらいだった。私自身は全く望んではいなかったけど、いつのまにかなりゆきで社員になってしまい、お世話になった課長を裏切ることも出来ずに、私はこの会社で暫らくちゃんと働いてみようと素直に考えた。仕事もおもしろくなり始めていた時だった。


夏、私は実家に帰省した。初めて結婚を考えている彼を一緒に連れて帰った。両親は喜んで迎えてくれた。春に妹の結婚式も済み、まだ結婚しそうにない私の事をひそかに心配していたからだ。私達は、お互いの両親に会ったことで結婚の話を具体的にするようになった。彼は両親と暮らしたい。私は窮屈なお父さんと、過干渉なお母さんとの暮らしは耐えられそうになくアパートで暮らしたいと望み、家を新築しようという彼の提案も聞けば聞くほどとうてい呑み込めない内容だった。お互いの想いは平行線のままでまとまらなかった。

彼の親戚の家で不幸があった時の事、私は彼の家にたまたま居たのだが、私はお父から直接

「お前のような髪の色で親戚の集まるようなところに行かれたら、私が恥をかく。」と言われた。お父さんの本音だ。結婚が具体的になるに従い、私達の間にはすれ違いが増えていった。


一緒に遊ぶようになった彼からは、釣りにスキーに映画にコンサートにと積極的に誘いを受けるようになった。コンサートの帰り道、車の中で「俺と付き合って欲しいんだ。」と告白された。彼が好意を寄せてくれていることは、こんな私でもわかった。それなのにここまで一緒にいてしまった自分を反省したが、やっと彼には付き合っている人とは結婚を考えている事を話した。彼はとてもいい人なのに、傷つけてしまったことを苦しく思った。彼は震えながら「これからもいい友達でいて欲しい。」と言った。


私は社員になったことでどんどん仕事にのめり込んでいった。社員という責任も感じていた。初めて就職した時以来、ここにいたるまで社員であったことなどない。初めてボーナスを手にした時には本当に頂いてもいいのだろうかと思うほどだった。私はお金には今までさほど執着がなく、お金は今を楽しむためにあるものだった。今まで浮き草暮らしだったためか、生活を守っていくという感覚がなかったが、貯金を始めることにした。


新しい部署は平均年齢が若く、私はさらに交友関係が広がった。休みには会社の友達と出かけることが多くなった。彼との結婚のことは考えなければならなかったが、気持ちは重く友達との遊びに逃げていたのかもしれない。そんな時彼から「結婚のことを少し考えさせて欲しい。」と連絡があった。「一緒にやっていく自信が持てない。」という理由だった。多分私も全く同じ気持ちだったのだと思う。素直に頷いた。


彼と数か月会わない日が続いた。私は不思議と気持ちが軽くなった。巻き付いてがんじがらめになっていた重たいものが剥がれたような気持ちで、私は思いきり仕事に打ち込み、思い切り友達と遊び、思い切り自由を楽しんだ。

そんな時、コンサート以来一緒に遊んでいなかった彼から、映画に誘われた。自分のことを正直に話してある安堵感からか、結婚を考えていた彼とのことも映画に行く車の中で正直に話す事が出来た。今の自分の気持ちも。彼はただ黙って聞いてくれ、一緒にいて楽だった。何故あんなに結婚をしようと思っていたのか。距離を置いたことで、もう一度冷静に考える時間が出来、この結婚で果たして幸せなのだろうかという思いが大きくなった。

やっと連絡があったのは半年以上も経ってからだった。私達は久しぶりに会った。彼は私に

「一緒にやっていく決心がついたよ。結婚して欲しい。」と言った。彼は自分の気持ちを立て直すためにこの半年の時間を費やした。しかし、私はこの半年で彼との結婚の先を冷静に見つめ、別れの決意を固めるために時間を費やした。努力してなんとかしようという結婚など最初からうまくいくわけがないと思った。もっと自然に、お互いが結婚を心から求め望み、幸せを感じて結婚したかった。

「いままでありがとう。でも私はもう元には戻れない。お互い、別々の道を歩きましょう。」辛さはなかった。私達は自分達でこの恋愛にピリオドを打った。彼は私が次に踏み出す第一歩を一緒にジャンプしてくれた人。恋愛の楽しさも苦しさも教えてくれた。彼に出会えて良かったのだと思う。


彼と最後に話せたことで、ちゃんと終わりにすることが出来本当の意味で心が自由になった。私は、会社の仲間と遊びを重ねるうちに、ずっと変わらず、そっといつでも傍にいてくれたTを少しずつ好きになっている自分に気が付いた。Tとはとにかく遊ぶ事において馬があう。Tは大勢で遊ぶことが大好き。Tの周りにはいつでも人が集まってくる。Tは会社の寮に入っていたのだが、毎週末男子寮内では冬には鍋パーティー、夏には焼パーティーが開かれる。そこにいつも私を呼んでくれ、みんなでわいわい盛り上がる。釣りクラブは今や私もすっかり会員。夏には釣りクラブ、スキークラブ合同釣りキャンプを開催した。勿論主催はTだ。30人でのキャンプ。昼は川で鮎釣り班とボートで沖釣り班と堤防釣り班に分かれて釣りをする。夜には全員が終結して釣果を持ち寄り料理&宴会だ。魚を裁くのはTの得意技。とにかくひたすら裁き続け、料理を振舞う。冬は共通の趣味のスキー。毎週滑りに出かける。彼は皆で行くのが大好きだったので、毎年スキー旅行を主催する。大型バスをチャーターし、東北や新潟へのスキー旅行。男女合わせても40人以上。皆で行くスキー旅行はそれだけでもわくわくするのだが、食事も宴会も夜の超大勢枕投げ大会も楽しいことだらけだった。

とにかく私達は飽きるなく遊んだ。時には二人で、時には大勢で。毎週楽しいことを企画して遊ぶ。これが私達の遊びのスタンスだ。私達はいつも一緒に居たけど付き合っていたわけではなかった。遊びのメンバーの中に、Tの事を気にしている子がいることに気が付いた。それは、私の友達でもあった。Tは誰にでも同じ態度で接してくれる。TとKもごく普通に話せる友達だった。ある時Tが私に言った。

「Kから二人で食事に行こうって言われたんだよ。」

「よかったじゃん。行ってくれば。」

「Kから好きだって言われたんだ。行ってもいいの?」

「いいに決まってるじゃん。何で私にそんなこと聞くの?別に付き合ってるわけじゃないんだから、自分で決めればいいじゃん。Kは可愛いしいい子だしいいと思うよ。」

本当は凄く気になったのだけれど、口から出てくる言葉はこんなことばかり。

「わかった。じゃあ、Kと食事に行ってくるよ。」


こんなことがあってから暫らく私達は会わなかった。久しぶりにTの方から連絡をくれた。何だかちょっとぎくしゃくしてしまう私達。

「Kと食事に行ってきたよ。」

「そっか。わざわざ報告?」

「Kのことはいいやつだと思ってるし嫌いじゃない。いい友達だと思ってる。でも俺が好きなのはなおだってKに伝えてきた。」

「え!?」

「俺たちそろそろちゃんとしようよ。もう前の彼のことはいいんだよね?付き合おう。」

Tからそう言ってくれた。Tがちゃんと考えていてくれたことは凄く嬉しかった。でもKの気持ちを思うと、これからこの関係の私達でKとどんな風に付き合っていけばいいんだろうと苦しくも思った。

「うん。いいよ。私もそうしたい。」と返事をした。


Tの入っている男子寮は30歳が来ると寮を出て、次の新入社員に部屋を譲らなければならない決まりになっていた。Tもとうとう30歳。楽しかった寮を出なければならない日が近づいていた。Tは一軒家タイプの借家を見付けて来た。相当古い物件だったが、部屋数は多く家賃は格安だった。釣りボートや釣り道具、スキー道具にキャンプ道具ととにかく道具だらけで、普通のアパートでは荷物が入りきらない。リビング一室の他に道具部屋が一部屋必要だった。

Tが部屋を借りたことで、私とTは一緒に過ごす時間が増えた。私は自分の部屋にTを招くのがあまり好きではなかった。別れた彼との思い出ばかりが詰まっているアパートでTと過ごしたくなかったからだ。私はTの部屋に遊びにいくことが増え、一緒に食事をしたり、遊びの計画をたてたり、友達も呼んで大勢で飲んだりとTの部屋が遊びの拠点になった。

その頃私の憧れは「ログハウスを建てること。」だった。Tと一緒に住みたいとかそういうのではなく、ただログハウスに憧れていた。セルフビルドをしている人の本を読んで、こんな家が自分で建てられるなんて凄い!と感動し、自分もいつかログハウスを建ててみたいと憧れるようになったのだ。高校時代からずっと、殆どを浮き草暮らしのような生活をしてきた。生活の拠点と呼ばれる場所を持ったことが無かった。そのせいなのか、私は無性に家に憧れを持った。どんなことでも真剣になれるのが私の良いところ。真面目に考え、ホームセンターにチェーンソーや大工道具を見に行くのが楽しみという変わった楽しみを持つようになった。ところが予想に反してのりのりだったT。一緒にホームセンター巡りをするようになった。ログハウスの話題で盛り上がるようになった。二人ともログハウスが大好きになった。

そうやって盛り上がっているうち、私の荷物はTの部屋に着実に増えていった。Tは少々誤解していた。私が家に夢中になっているのは、結婚をしたいからなのだと思っていた。その誤解は思わぬ展開で事態を動かしていく。

「家を建てるんだったら、まず先に結婚しなくちゃいけないよね。じゃあ、うちの父ちゃんと母ちゃんにまずは会いに行かなくちゃな。」と実家に帰る段取りを組んでしまった。

「ちょっと待ってよ。私結婚するなんて言ってないよ。前にも言ったけど自分のお母さんが嫁姑ですっごく苦しんできたから、長男っていうだけで結婚のテーブルにのらないの。だってTは長男だよね。だから結婚はないね。それにお姉さん結婚して家を出ているんだよね。」

「でももう母ちゃんに行くって言ったんだよ。じゃあ、俺の実家の近くで釣りでもしようよ。」

それならと行くことを承諾した。その言葉通り、Tは私を実家の傍の川に釣りに連れて行ってくれ、夕方近くまで釣りを楽しんだ。もう日も暮れかかり、夕飯は実家で食べようというので、しぶしぶ行くことにした。私が来ることは両親には話していなかったようで、出迎えてくれたお母さんは、驚いてすっとんきょうな声を出した。それから、夕飯を作ってくれ、テーブルには御馳走が並んだ。お母さんはお酒が大好きで、日本酒を出してきて飲んだ。

「今日は嬉しいのよ。とにかく嬉しいの。Tは見てくれもいいほうじゃないし、もう一生こんなことないと思っていたのに。とにかくここに来てくれただけでも嬉しくてたまらないのよ。」と何度も言ってはお酒を飲んだ。


「もし俺に結婚するチャンスがあるとしたら、どんなチャンスがある?」とTが聞くのでこう答えた。

「両親とは一緒に住まないことを選択すること。たとえ近くに実家があっても別々の家で暮らしたい。

白が正しいとして、でも私は黒が正しいって思ったとして、たとえ白が正しくても、家族の誰もが白だろうと言っても、私が黒と言ったら私に味方してくれる人。家族が反対しても決して私を否定せず私を信じて私の味方をしてくれること。それが出来るなら長男でも結婚は考える。」

「よし。分かった。じゃあ結婚して家を建てよう。」

結婚ってこんなに簡単でいいの?私達は付き合い始めてから7ケ月のスピードで結婚を決めた。


私は結婚式など望んでいなかった。ドレスに憧れが無いといったら嘘になる。でも私は東北出身。Tも県外の人。ここで結婚式を挙げるとなるととてもお金もかかる。しかも私達の夢は家を建てる事。二人で合意のもと、結婚式はやらずに籍だけを入れ職場に報告すると決めた。私の下にはまだ二人結婚していない兄弟がいたのだが、私達と同じスピードで弟も一番下の妹も結婚の話が進んでいた。それを知っていたから余計に両親も大変だし、私にお金をかける位なら兄弟のためにお金をかけて欲しいと思った。やっぱり私はいつまでたっても長女。兄弟を前にわがままは言えなかった。私達は結婚式をしない代わり、家を建てることを具体的に考えよう、土地を探しにいこうと遊びの計画の延長のように自分達の楽しい企画にした。

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