『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第12章「イラストマップの人、と言われる」

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その1「プチ休業」

2007年の春。
描く気力がわかないまま、しばらく筆を置く
プチ休業状態になりました。完全に「やめる」とも
言い切れず、かと言って、いつになったら
「また描きたい」と言う思いが湧くかもわからず。

もしかしたらこのままずっと、描けずに
終わるかもしれない。いや、むしろ
今までずっと描き続けてきたのだから、
試しに完全に、絵から離れてみた方が
いいのかもしれない。
周囲の人たちの活動情報も一切見ないで、
焦ることなく、静かな環境で過ごした方がいい…。
先が全く見えない中、半ば諦めの気持ちで
そう考えていました。

そうなると、今まで絵を描いていた時間が
ぽっかり空きます。なので登山をしたり、
映画を見たり、植物園に行ったり…と、
糸の切れた凧さながらに、
あちこちフラフラし始めました。

すると今度は、折角歩き回っている事をまとめないと
なんだか勿体ないような気になってきました。
「腕がなまらない程度に」と、ちょうどこの年の春に
発足した、某鉄道会社の沿線紹介サイトに
第1期・民間ライターとして登録し、歩いて
見つけた情報をイラスト付きの記事にして
投稿したりしました。

そんな日々が3か月ほど続きましたが、
定まらなかった意欲が変化したのは、
この年の5月に硫黄島に行った事が
きっかけでした。

硫黄島は現在、民間人の立ち入りはできず、
自衛隊の輸送機でしか行くことができない
南方の島です。私の祖父がこの島で戦死していて、
ちょうどこの年の春から、孫の代が慰霊祭に
参列する事が可能になっていました。
申し込み人数が多いだろうから、抽選で外れて
しまうかもと、ダメもとで応募してみたところ
運よく当選し、島に行ける事になりました。

島は民間人がいないため、戦後60年以上が
経っていた当時でさえ、戦争の傷跡をそのまま
色濃く残していました。当時の兵隊さんが使っていた
日用品、やかんやビン類、ドラム缶などが、
そのまま防空壕内に残っていたり、各所で
遺骨発掘作業を行っていたり。
そして防空壕は信じられない程に熱い。
こんな中で生活しなくてはいけなかったなんて…と
想像を絶しました。

時代のせいで、自分の人生を精一杯生きる事が
出来なかった祖父に比べて、やりたい事を
やっているのに「描けない」なんて言っている自分は
ものすごく甘えているんじゃないか…。
折角この時代に生まれて、描ける環境があるのに。
もったいないじゃないか。

「死ぬ気になって、一からやり直そう」
そう強く願ってスランプから脱し、再スタートを切りました。


その2「イラストマップを描き始める。ただしそれは少々の勘違いから」

硫黄島から帰還した私を待っていたのは、
『シモキタ カタログ』と言う、下北沢のお店を
紹介する、書店販売用のガイド本を作るお話でした。

これはフリーペーパー『シモキタ スタイル』と
同じ出版社で制作していたため、この冊子の
メンバーも制作に参加し、1人につき
見開き1ページ分の記事を描かせて
貰える事になりました。


この時、事前の打ち合わせで「何を描くか」を
みんなで決めたのですが(結論から言うと、
下北沢の街をモチーフにして、自分の好きな物を
自由なテーマで描く事になったのですが)私はこの時、
ちょっと勘違いをして「それぞれが、下北沢の
地図を描く」と言う風に受け止めていました。

それはもしかしたら、当初出されたいくつかの
アイデアの一つに過ぎなかった気もしますが、
なぜか私の中では、決定事項となっていて
「それじゃあ、私は1番街の商店街の地図を
描こうかな」と、早速制作する事に。

実はこの時の「ちょっとした勘違い」が、
後に私が「イラストマップの人」と呼ばれる発端に
なるとは、当時は全く知る由もない事でした。



その3「転機のシモキタ スタイル展2」

この年の夏、以前開催した「シモキタ スタイル展」が
楽しかったので、再び開催しようと言う流れになりました。
けれどこの時、開催は8月31日と決まっていたにも
関わらず、私は8月に入っても何を描いたらいいか、
使う画材もテーマも、全く頭に思い浮かばない状態でした。

少し前までのプチ廃業が、思いがけず後を
引きずっていたのかもしれません。
なので時間ばかりがどんどん迫って来て、
ものすごい焦りが募っていました。

悩んで困ってを繰り返し…火事場の底力のごとく、
不意に閃いたのが「そうだ『シモキタ カタログ』で描いた
地図の原稿を応用して、下北沢の地図を
描いて展示しよう!」と言うアイデアでした。
それならすでに、原稿は1枚分は完成しているし、
あと数枚つけたせば、なんとか形になるかもしれない、と。

安易と言うか、もはや苦肉の策の発想でしたが、
この閃きの時点で、時はすでに8月7日です。
この後、炎天下の下北沢を2週間ほど
練り歩いて取材し、残り10日で5枚分の地図を
一気に描き上げ、どうにかギリギリで完成させました。

無事に展示開催に間に合い、ホッと胸を
なでおろしたのですが、期せずしてこのMAPが、
かってない程の反響を生みました。
会場にいらしたほとんどの方が、この作品の前で
足を止め、しみじみと眺めては笑ったり、感心したり、
楽しんでくれています。
今までどのグループ展でも、私の作品は
割とあっさり素通りされていたのに。

そう言えば、以前ブックデザイナーの方に
作品ファイルを見て頂いた時「一瞬でも、人が
足を止める作品が描けるといい」と言われた事を
思い出しました。
『なんだろうな、これ』でも、何でもいいから、
見る人にそういう思いを抱かせた時、そこから
コミュニケーションが生まれる。素通りされない
作品を描く事、と。

この時、作品を見て下さった人たちの反応に触れ
「そうか、この手応えか」と、直に体験できたことは、
私の中での大きな覚醒になりました。

そしてこの時、下北沢の地図を、一つにまとめて
販売したところ、これが50部ほど売れました。
単価300円と安かったせいもあるけれど、
需要があるイラストはこういう風に流通するんだ
と言う事も、同時に学べる機会になりました。

私には描きたい世界観があるけれど、
それとは別に、人の役に立って喜ばれる
作品を描くのも、イラストレーター冥利に尽きる
大事な仕事ではないだろうか。
自分が描きたいと思っている世界観の作品だけに
こだわらず、このような需要がある作品も描いて
「2本柱」で制作してもいいんじゃないか。

そしてこのイラストマップは、まだ発展を続けます。
この展示会の最終日に、わざわざ上京して下さった
京都パレット校のスタッフの方が「よかったらこの展示、
巡回展にしませんか?京都と大阪でも展示するのは
どうでしょう?」と、声をかけてくれました。
またしても思いがけない展開。
こうして初めて、東京以外で展示をする事が決まりました。


その4「ゆるゆると情報発信」

2度目のシモキタ スタイル展が終了してすぐ、
いきなりですが『シモキタ スタイル』誌が
休刊する事になりました。
編集長さんの一声で、1年近く続いた連載も
突然終了です。
残念でしたが、こう言う事はままあります。

しかしこの時私は、1年近くかけて
この冊子に掲載するために集めた莫大な
街の情報を持っていました。
それらを発信できないまま抱えているのは、
ちょっともったいない。

なので前述した某鉄道会社の沿線紹介サイトで、
引き続き下北沢の情報を掲載し続けました。
仮に『シモキタ スタイル』誌から原稿料を
頂いていたら、使用料だとか著作権だとかの問題も
色々と発生しそうで面倒ですが、幸か不幸か
この活動はボランティアだったので、手持ちの
原稿や情報は、私の判断で使用して構いませんでした。

そして、この時掲載し続けた原稿が、
この鉄道会社の広報部の方の目に留まり、
後にお仕事を頂くきっかけにもなりました。


その5「大阪巡回展」

年があけて2008年2月、初めて東京以外での展示
「シモキタ スタイル大阪巡回展」が、大阪城に近い
GALERIE CENTINNIAL(ギャラリー センシニアル)で
行われました。

私は予算がないので夜行バスで現地に行って、
搬入設営し、その日の内にパーティも行って、
そのまま夜行バスで帰京する…と言う、0泊2日の
体力勝負の強行軍でしたが、何だかワクワクして
楽しかった印象が強いです。

この時飾った作品は、下北沢で展示したものと
同じでしたが地元の東京では、どうしても
見てくれる方の大半が知り合いと言う状況なので、
全く知人がいない、私に対する何先入観もない状態で
純粋に作品だけを見て、コメントを頂けた事は
新鮮な嬉しさでした。

そしてこの大阪展が終了した後、今度は
4月の京都展のために、新たな作品作りに
取り掛かりました。なぜなら京都の会場は、
下北沢、大阪と比べて約3倍ほど広かったからです。
なので点数が少ないと、スカスカになってみっともない。
逆に言うと、どんなに描いてもいくらでも飾れる
スペースが用意されていたので、張り切って
制作していました。

結局「プチ廃業だ」と言って、先日まで
筆を置いていたのが嘘のように、
ものすごい勢いで描きまくる1年になりました。
なので某鉄道サイトのライター作業も、イラスト業に
専念したくて、キリ良く1年で終了しました。

ところで、京都展では会場が広かった事から
今まで数枚に分けて描いていた下北沢の
地図を、大きな紙に一つにまとめて、
新たに描き下ろしてみました。
B2サイズの用紙に、目いっぱい描いたこの作品は、
下書きが出来上がった時点で、何となく自分でも
「これって…なんだか面白いかも」と感じたので、
そのまま同じものを制作し、もう片方を
コンテストに応募してみました。

そして活動12年目も終盤となる3月27日、
憧れの雑誌だった『イラストレーション』編集部から、
1本の電話を受け取ります。

それは応募した作品が、誌上コンペ
「ザ・チョイス」で準入選になったとの連絡でした。
これは遅ればせながら、イラストレーターになって頂いた
初めての賞でした。

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