第3章 軌跡~600gの我が子と歩む道 2

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~鉄砲玉放浪記続編

 農協からの電話は日増しに頻度を増していった。毎日数十件もの留守電が入るようになっていた。恐ろしくなって電話線を引っこ抜いて過ごした。毎晩寝かせつけている間鳴り続けた電話のせいで、電話に出る事さえ怖くなり、脅迫観念にとらわれ、私は子供達を寝かせつける時、枕の下に包丁を忍ばせるようになった。もしも私と子ども達だけの時に、いきなり誰かが訪ねてきて、こども達に何かしようとしたら、私は殺人者になったとしても子どもには指1本触れさせない。守り抜いてやると寝ている間も気が抜けず、小さな物音にもすぐに目を覚まし熟睡できない日々が続いた。

私は父に確かめの電話をいれた。そもそも私の住所や自宅の電話番号を農協が知っているはずがない。それは父が言っているに違いないからだ。それとも言わされているのか真意を確かめようと思った。父は返事をうやむやにした。私の怒りはついに爆発した。

「お父さんは今度は私を殺そうとしているの?Sはお父さんの連帯保証人を引き受けて、家に居場所がなくなって、家族に責められて苦しんで死んでいったんだよ。Sが死んだ後は私?自分で作った借金なのに何故自分で何とかしようという気がないの?私には支払う義務もないんだよ。長女や長男は親の不始末を背負う義務があるの?支払えというなら、生命保険をかけて今度は私が死ぬしかないね。お父さんは息子を死に追いやったのに今度は娘も死に追いやるんだね?頼むから私の勤務先の電話番号だけは教えないで。会社に迷惑が掛かるのは嫌だ。私もTも同じ会社だから2人とも職を失うんだよ。仕送りだって精一杯努力している。Tには休みなく働いてもらっている。子供達も全て犠牲にして、ろくに面倒も見ずに働いている。これでもまだ足りないというならもう死ぬしかない。いい加減、子どもに全てをぶん投げるのは止めてよ。借金まみれなのに故郷を守れというならそんな故郷は要らない。私は故郷を捨てても構わない。私には子ども2人と自分の家族を守る責任があるから、その責任を全うする。自分の命を懸けてでも。」

しまった....。つい熱くなって父が傷つくであろうことをまくしたててしまった。でも仕方ない。これ以上私の力ではどうすることも出来ないのだから。

父は黙って聞いて、黙ったまま電話を切った。もう今まで何十万と支援してきて、お金も湯水のようになくなった。


父が苦しいことは判っていた。弟の死をたった一人で受け止め、病院から戻った母の介護。祖父母は悲しみが大きく更に急速に年老いた。Eの家からは、「Sの骨を下さい。自分達の墓に一緒に入れたい。」と申し出があった。父は丁重にお断りした。「Sが安心して休めるよう骨を分けるなんてできない。もう死んでしまったのだから静かに安らかに眠らせてやって欲しい。」そう伝えた。ところが納得できなかったEの家族は、今度はお寺さんに電話し骨を分けるように父に言って欲しいと和尚さんに詰め寄った。しかし、和尚さんからの答えも「それは喪主が決めることで、私が決める事ではない。」と断られた。そしてついに「それでは、絶縁するしかありません。町で会っても、決して声を掛けないでください。私達は赤の他人です。二度と孫にも会わないでください。私達に一切関わらないでください。」本当にその言葉通り、狭い町の中で会っても、病院の事務をしているので顔を合わせてもまるで私達が透明人間になったかのように見ないで素通りしていく徹底ぶりだった。

交通事故だと思っている母は無邪気にSの孫に会いたがり、誕生日には何のプレゼントがいいかな?などと楽しそうに話す。母はSを失ってから、よくSを出産した日の事を話すようになった。

「Sは首にへその緒が絡みついてなかなか産まれてこれず、その内出血多量になって輸血が必要になったの。そしたら近所の人が是非自分の血を使って欲しいって言ってくれてね。3人から血をもらって死ぬ思いで出産したんだよ。人はいつ誰に助けられるかわからない。だから、どんな人にも優しく接しなさい。差別や意地悪をしないでどんな人にも同じような気持ちで付き合いなさい。」そう言って何度もSの事を話した。私はその度胸が苦しくなった。まさか産まれる時はへその緒が首に絡み、死ぬ時はロープが絡みついていたとは絶対母には話せない。いつか天国に行ったら、その時にSに聞けばいいことだ。


こうして苦しくて苦しくてたまらなかった2005年が通り過ぎて行こうとしていた。


2006年


父は私との言い争いのあと、所有している山林の木を伐採し売りに出したりありとあらゆる方法で現金を作ろうとして努力するようになった。私達も微々たる支援だけれど仕送りをした。妹夫婦たちは毎月のように実家に帰り、父の手伝いをして父を支えた。


少しずつ皆がSの死から前を向いて苦しみに立ち向かっていこうとしていた。初めての子育ては、無我夢中の上父のためにと働きづくめ。朝も早くから保育園に連れて行き、夕方は延長保育で見てもらい迎えに行く毎日。発達には常に心配があり、それ以上に目は爆弾を抱えているような状況だったが、何事もなく日々が過ぎていくようにも思え、忙しさの中でそんな不安さえもかき消されていった。

春、故郷の祖母が庭先で転び骨折をして入院することになった。更に祖父は手に痺れを感じ、父はすぐに病院に連れて行ったが当番医から異常なしと返され、更に症状がひどくなってからの脳梗塞の診断で入院となった。また父は病院へ通いながらの看護の日々が始まった。でも半身麻痺の殆ど自力ではなにも出来ない母を家に残して病院に通える時間は限られている。父のことは常に頭にあり心配だった。父は辛抱強く、我慢できなくなるまで耐え続けるので、いつも気が付くのは限界を迎えてからだ。しかし祖父母には、少しずつ死が近づいているのがわかる。父は何も語らず、両親の為に病院通いを続けた。


夏、海の日にはTの実家に遊びに行く。お盆に私の故郷に帰省するために一足早い墓参りをするためだ。Tに実家の近くの海に遊びに行くのは、ジャンボと遊んで以来。まさか子供を連れて帰れる日が来るなんて思わなかった。二人を初めての水族館に連れて行こうと到着したばかりにその電話はあった。骨折して入院していた祖母が退院すると連絡をもらっていたため、安心してTの実家に帰省していた。ところが突然の祖母の死の知らせだった。退院が決まった日に突然体調が急変し、その3日後にあっけなく亡くなった。私は、二人をTに任せて故郷に帰省する事を決めた。一週間ほど休みをもらい、父の手助けをしようと思った。

祖母の遺体は小さく小さくしぼんで、しわだらけだった。でもSの遺体を見た時とはあきらかに違う感情が心に流れる。戦争の中を生き抜き、5人のこどもを育てあげ、孫に囲まれ人生を全うした祖母。Sが死んでからは、私が死ねば良かったのだと泣くことが多かった。料理をするのが好きじゃなく、祖母は余り台所に立たなかったので、小学校、中学校の頃はよく私が料理そする羽目になった。でもおばあちゃんはおばあちゃん。私達孫には優しくて大好きな存在だった。母とはぶつかり合ってばかりだったけど。私は、子ども2人を乳児院に預けて祖父母の面倒を1ケ月だけだけど見ることが出来て良かったと思った。何もしてあげられなかったという後悔が残らなかった。父にしてもそうだ。入院してからずっと毎日病院に通って看護した。両親の老いは誰にも止めることは出来ない。でもその老いのスピードに足並みを揃えて、見守り手助けし今出来ることをし続けて来た。そのことで、祖母への死に後悔がなく送り出してやることができた。

母は、体が動かず葬儀に参列することが出来なかった。ずっと祖母の対して抱いてきた憎しみにも似た感情。倒れた時も、動かない体で時々「早くご飯を作る準備しなくちゃ。おばあちゃんに怒られる。」などと寝言を言う位常に気にしていた。その祖母がめの前からいなくなり、母の心はバランスを崩したようだった。

「今思えば、私のことを頼りにしていたのだと思う。」とうとう最後まで分かり合えなかったような関係の母と祖母だったが、母なりに感じた祖母の自分への思いを感じ取るとろうろしているようにも思えた。

葬儀は淡々と進められ、悲しみに包まているというよりも祖母の若い頃の思い出や、生き抜いてきた人生を振り返る話の中で祖母は送り出され、一人の人生を終えた人への称賛と優しさに満ちたものだった。



葬儀の後片づけまで手伝って帰ろうと長い休みをもらってきたのだ。父の体も心配だった。十分な家事も出来るわけがないので、母のベッドのシーツも汚れていた。私が出来ることはなんでもやっていってあげようと思い、シーツ交換をしてやったり、掃除の行き届かないところを綺麗にしたり、おかずを沢山作ったり帰るまでにやりたいことは沢山だ。

 明け方、突然大声で名前を呼ばれはね起きた。「なおこ、救急車だ。母さんが痙攣を起こしてる。」すぐさま母のところに走ると、全身がびくびくと動いていたかと思うと、意識が遠のいているようだった。救急車は何番だっけ?こんな時は思いつかないものだ。手が震えてうまく電話が出来ない。やっと救急車に電話が通じると興奮していたようで叫んでいる自分。「落ち着いて下さい。」の声に、少し我に返る。そうだ。冷静になって今は母を助けなきゃ。

救急車はすぐに駆けつけてくれ昨日、変えてやったばかりのシーツごと母は持ち上げられ運ばれて行った。気持ち悪いことに、今日だけじゃなく、Sが死んだときもそうだった。朝に黒い割烹着を洗った日にあの悪夢のような知らせが入った。離乳食の作り置きをしてしばらくは楽できるぞと思ったあの日も母が倒れたと電話がきた。偶然かもしれないけど自分が何か行動を起こした後いつも不吉なことが起こる。何故こんなにも次々と困難ばかりが降り注いでくるのかと思うと涙が出てきた。

母に付き添って救急車に乗り病院へ向かった。幸い、母は救急車の中で意識が戻り様態も安定していた。帰るぎりぎりまで付き添った。この状態で父を置いて帰るのは心苦しかったが、私は子ども達が待っている家に戻った。


そんなある日、保育園の園長先生から折り入ってお話があると声を掛けられた。世間では、来春からの入園児童の募集が始まる時期だ。園長先生や市の保健師さんを交えての面談が設定された。

「率直に申し上げます。もうすぐ年少になりますが、この公立保育園ではお二人の保育がこれ以上の年齢では厳しいと思っています。集団の中での活動や生活面の自立に関して発達の遅れが見られます。」そう告げられた。ハンマーで頭をいきなり殴られたような痛さだった。順調だと思っていたのに。涙が止まらなかった。小さく産まれたあの日から、発達は遅れるでしょう。長い目で見守っていきましょうと先生に言われたはずなのに、いざ目の前で事実を突きつけられると、どうしようもなく辛くなる。父と母の事に翻弄され、私は毎日を生きるのに精いっぱいだった。ただご飯を作って食べさせて、お風呂に入れて、寝かせて。それが全て。2人の成長の遅れに等目を向ける事さえ余裕のない私には出来ないことだったんだ。自分のダメさ加減に涙が出る。

「ここではこれ以上お預かりすることは出来ませんが、お二人の今後について保健師さんも交えて考えていきたいと思います。こちらからの提案ですが、児童発達支援センターへ通われてはいかがでしょうか?」

預かれないと言われれば、児童発達支援センターに通うしかない。私はTと話し合って、その道を選択することを決めた。そういわれてみれば育てにくいと感じたことは多々ある。特に長女のAはそう感じることが多かった。でも集団の中での様子を見ることは殆どなかったし、どれほど健常児と違いがあるのかいうことを本当の意味では私達は理解していなかったと思う。心の半分は何故公立の保育園ではいけないのかという気持ちも持っていた。そう思いながら時は止められず、残り少ない公立保育園での日々を送った。時々堪えようも無なくやってくる子育てへの不安、悲しみ。先生は私の気持ちを察してくれ話を丁寧に聞いてくれたりした。児童発達支援センターの園長先生との面談を行った。一人では心細くTにも一緒に行ってもらった。私立保育園と併設されて児童発達支援センターはあった。何度かの話し合いで、長女のAは児童発達支援センターへ、次女のBは併設の私立保育園への移行が決まった。支援センターは今まで通っていた公立の保育園からも近い場所にあり、更に職場へは車で2分程の場所。生活に大きな変化があるようには思わなかった。


子供達のことで頭はいっぱいだったが、故郷の母が自宅で歩く練習をしていて転んで骨折をしたと連絡が入った。骨折は足の付け根。麻痺している側の足の為、痛さに鈍感で骨折してすぐに気が付かず、一晩明けて熱があることと、足が腫れあがったことで気が付き病院受診した。骨が骨粗しょう症状態だった母はボルトで固定する手術が必要となり即入院となった。入院している祖父には、祖母が亡くなったことは黙っていた。別々の部屋だったけれど「ばあさんは?」「元気だよ。骨折しているから歩けなくて会いにこれないから、じいさんによろしくって。」と伝えると、祖父は安心して休む。たとえ離れていても、祖母が生きていると思うことが祖父の希望だったから、それをへし折ることは出来なかった。とうとう父は広い家の中にたった一人。毎日脳梗塞の祖父と骨折の母の看病をするため病院に通う日々。収入もほぼなくなり、わずかばかりもらう年金も全て借金の支払いに回る。借金はますます緊迫した状態になり、私はとにかく働くしかない。農協からの連絡を今でも恐ろしく思いながらもとにかく今を生き抜くしかない。


私は、Tに申し訳なく思っていた。働いても働いても超節約生活。ちょっとお金が出来ると全て父の借金や援助で消えていく。好きなものも買えず、ただひたすら働いて消えていくお金。

「私と結婚したばっかりに、こんなお荷物ばかりで本当にごめんね。私昔から両親が嫌いだった。いつでもなおこなおこで長女だからというだけで、みんな私に押し付けて。それは親の仕事だろうってことも。だから私は親になんか頼るもんかってクソ意地で生きて来た。でもどこ行っても助けてくれ助けてくれって追いかけてくる。うるさいなって突き落とせばいいのに、最後の最後でそれが出来ない。結局こうやってずっと親のお蔭で苦しいことばっかりなんだ。今度はTにまで家のこと背負わせてしまってすごく申し訳ないって思ってる。」思わず言ってしまう本音。ところがTは

「全然そんなこと思ってないよ。こんな状況の時ってなおは思うかもだけど、聞いて欲しい。俺はなおと結婚してなきゃ平凡な人と結婚して平凡な幸せを歩んで、何にもない平たい平凡な人生になったんだと思う。でも、なおと結婚したから、波乱万丈で山あり谷ありで平凡とは大きくかけ離れた人生だ。それは豊かな人生っていうんだと思う。絶対なおと結婚しなきゃ経験しないだろうってことを沢山経験出来てる。だから俺は不幸だなんてこと一度も思ったことないよ。」そう言ってくれた。有難かった。ただただありがたかった。そしてまたTの両親もそうだ。献身的にいつも苦しいであろう私達に野菜やお米を送ってくれた。そして、「故郷のお父さん、お母さんのことはあなた達が助けなさい。私達があなた達を助けるから。」そう言って、陰でずっと支え続けてくれる。感謝してもしきれない。こうして私はもう一つの家族に大きく支えられながら故郷の父と母を支え続けた。


2006年も苦しみの中に過ぎて行った。


2007年


年が明けても一向に良いニュースは舞い込んでこない。成長するにつれ二人の育てにくさは増していく。でもどんなことがあっても仕事へいかなければ、父を支えることは出来ない。私もSのように今死んでしまえばいいのかもしれない。そう思うこともしばしばあった。この世の中は地獄そのものだ。

3月。祖父の状態が良くないと連絡がきた。祖父は入院しながら回復することはなく、衰弱していく一方。老衰でついにその時が来た。弟の死から一年の間に祖母、祖父が亡くなり父は三度もの喪主を経験することになった。その頃、母は骨折のせいで全く歩くリハビリが出来なくなったことから、筋力の低下は著しくもう殆ど立って歩けるような筋肉はどこにもなくなっていた。

自宅に一人になった父は、母が戻ってきた時車イスが走りやすいようにと庭の砂利だった部分にひたすらコンクリートを練っては固め練っては固め、こつこつと道を作り始めた。コンクリートの道の両脇には、二人で収穫を楽しめるようにと野菜を植え、母さんの好きな花で道を彩りたいと野菜の間には花を植えた。母が帰って来ることを心待ちにしながら、一人の時間を全てその作業に充てて過ごした。父に忍び寄る孤独の影。一緒に笑う人もいなければ、一緒に泣く人もいない。たった一人で孤独を受け止めながら孤独の中で生きていくのみだ。母の喜ぶ顔を思い浮かべながら働くことが父にとっての唯一の孤独から解放されることだったのかもしれない。一心不乱に作ったコンクリートの道の脇には、小さな緑の芽が芽吹き、春の命の力強さで溢れていく。


4月

子供達は公立の保育園から私立保育園と児童発達支援センターへ入園し、新しい生活が始まった。保育園は働くお母さんのためにあった。だから朝も早くから預け、夕方も延長保育で預けて働いていた。ところが長女の通う支援センターは療育の場所。朝は9時からの登園。帰りは3時まで。私以外面倒を見る人がいない二人は、行先を失う。仕事との折り合いが難しく私は頭を抱えた。しかし、私の収入が減ることは私自身の家も両親の生活も共倒れしてしまう。

家庭訪問時、担任の先生から開口一番に言われた言葉は

「お母さん、仕事を辞めてもっと子ども達と向き合えませんか?」だった。私は言葉を失ってしまった。じゃあ誰が一体両親の生活の責任を持ってくれるのだろう。両親を捨てきることも出来ず、こんな両親の間に生まれたことを後悔しても私にはどうすることも出来ない現実だし、借金があるのも、お金が無いのも現実。子供達に発達の遅れが明らかなのも現実だし、向き合うことが大切な事はわかっているしそうできればどんなにいいかくらいは判っている。でも両親が生きている限り、私にはその現実が常に覆いかぶさって来る。

家庭訪問の時、先生には誰かからしょっちゅう電話がかかってきた。10分に一度が5分に一度になりそうやってどんどん回数が増えていき、話が中断される。すると先生が告白してくれた。

「今電話をよこしているのは私の子どもです。私のこどもは知的障害、身体的障害があります。今、一人で電車に乗るところなのだけれど、何度も訓練しても乗る時は不安で今駅に着いたよ。今切符買ったよ。今ホームに降りたよ。今電車に乗ったよ。という具合にいちいち電話をよこして確認をします。言葉があまり話せないので、聞きたいことはボードで文字を触って伝えたり、私には伝わることでも他人には理解できない事が殆どです。家庭訪問なのにごめんなさいね。」

初めての家庭訪問はあまりにも衝撃的すぎた。その時の私には先生の気持ちは全く理解できなかったと思う。自分の子どもに障害という言葉が無縁のようにも思えていたし、あまり障害をもった方と接したことがない私には、そのことがどんな意味を持つのかさえ分からなかったかもしれない。

先生からの仕事を辞められませんか発言は私の気持ちを追いつめていった。仕事も正社員として一社会人としての責任を持ってやろう。家事も育児も手抜きできない。手抜きをすれば父を支えるための仕事は奪われる。全てが完璧でなければならなかった。頑張りすぎて限界まで音をあげあい。父にそっくり。でも限界が来ると一気に崩れて気持ちが持ち上がらなくなる。母にそっくり。私は両親の悪いとこどりだ。

担任の先生からは家庭訪問後も仕事に関しての事で何度も辞められないかとの声が掛かった。どんなに今を子どもと過ごす事が大切なのかを先生はずっと私に言い続けた。そして私はついに切れた。連絡ノートに今自分が現実に置かれている状況について何ページにもわたって書き、訴えた。

父はついにこの頃話し合った結果、生活保護の申請を出すことに決めて申請中だった。父には貯金の通帳と全財産は10万円以下だった。ずっと生活が苦しかったのは、私が小さな頃から。母も父も生命保険料さえ支払えず保険にも入っていなかった。更には年金さえまともに払われていない。母はこんな体になっても障害者年金をもらう資格さえない。父の入院費、母の入院費、リハビリ施設入院費などは全て自分達が支払った。故郷に帰る度にお金を渡すと父は喜んで、なおこのお蔭でずっと行けなかった病院が行ける、車検の支払いが出来なくて困っていたんだけど支払えた。卵は200円もするから高くて買えなかったけど久しぶりに買って食べられたと喜ぶ。長男の弟が死んでしまった今、私の上にすべてのことが降り注いでくる。子供達にもTにもTの家族にもいつも申し訳なくおもっていたし、もう私の気持ちも限界に近く、Sのように自分も死にたいと何度も思い泣いて暮らした。収入を失うなら、一家で心中するしかもう方法はないとさえ思っていたし、そう思う位追い込まれていたのだと思う。いつも気持ちが張りつめ、いつ壊れて粉々になってもおかしくない状況だった。

担任のM先生は、そんな私の状況をすぐに園長先生へと報告。緊急の支援会議が開かれた。

その結果、園としてできる最大限の努力をしてくれ、朝は1時間早くから預かり、夕方は育児時間短縮で帰る時間まで見てくれるようタイムケアの申請を行ってくれることになった。また私自身も、会社が近いということもあり、仕事の途中でも子ども達がやる訓練への同席や、会社が丁度育児に優しい企業を目指し活動していたため、会社へ育児時間短縮制度のこどもの年齢制限の上限をあげるというお願いをしてみる事にした。話したことで、環境は大きく動き私は周りの理解を得ながら、父と母、子ども達のために働くことができるようになった。ほんの少し私の心に希望の光が差し込み、そしてわずかながら子供と向き合う心の余裕が出来たようにも感じた。


私立保育園に通うことになった次女B。発達には遅れがあっても長女Bよりは出来ていることが多く、保育園の中での活動についていけると思っていた。ところがBはいつでも目立つ。何をするにも皆から遅れ、みんなが理解してやれていることも理解できていないのか全く動けない。集団の中に入ることでどんどん浮き彫りになっていった。更には初めてのこと、初めての場所、初めての人に緊張が強く場面寡黙のような状態になる。

一方Aは、生活面の自立が全くできない、進まない。食事は手掴み、不器用で身体の感覚もアンバランス

。ボディーイメージがわかないのかダンスのような動きはまるきり出来ない。排泄もおむつは全く外れる気配なし。指しゃぶりが激しい。感覚過敏があり靴下嫌い帽子嫌い手袋なんてもってのほか。真冬だって靴下を脱いで過ごす。人と遊ぶよりうつぶせて体を硬直させる自分の感覚での遊びに夢中で人とうまくコミュニケーションをとることが出来ない。食事も感覚で嫌いなものがある。予期せぬことは受け入れられず、順番が違うと納得できず怒る。泣く。やりにくいことだらけ。子供の状況を把握するたびショックが大きく、私がきちんと向き合わないせいだ、自分が小さく生んだせいなのだと自分を責め、出来ない子どもをみるといらいらして何でこんなことも出来ないの?」とわめきまくる。辛くて辛くて子どもと一緒に三人でわんわんと泣くしかない。子供のいい所なんて一個も見えなかった。出来ないことは五万と目に付き見付けられるのに、子どもの良いとこ、可愛い所をきかれても全く答えられない。気付けない。そんな日々だった。


暗い出来事の中、Tは子ども達と私のためにいつも楽しいことを考えようと企画してくれる。お金がないけど自分達でやれば何とかなる。そう言って、2Fのリビングから庭に大きくせり出した畳6畳ほどの大きさの空中デッキを自分で設計し、材料を調達したりもらってかき集めたり、技術が無くてもTの実家の大工を仕事にしているお父さんから道具を借りたりや指導を受けて自分達だけで作ってみようという壮大な計画をたてた。最高の計画に、どこにも出かけられずただひたすら仕事と育児に明け暮れ、行き詰まっていた私達は楽しい気持ちになった。外のデッキで風に吹かれながらおままごとをするだけで、どこかに出掛けた気分になれそう!私達は、苦しい時には楽しい夢を見ればいいのだと学んだ。毎日仕事から帰って来ると二人でパソコンに向かいデッキのデザインや採寸をして材料の算出をする。外に出て空想に耽り未来の話をする。子供達が喜んで遊んでいる姿を想像してみる。そして遂にTの両親が揃って泊まりに来てくれ、3日間だけ手伝ってくれることになった。材料も沢山持ってきてくれた。朝から晩まで親子でDIYに明け暮れるT。私とTの母は子供と遊んだり食事の準備。毎日賑やかに食卓を囲む。幸せな時間。家族が健康って有難い。普通の家庭に生まれたこの普通の幸せのTが羨ましかった。でもその家族の一員として私を迎えてくれるTとTの両親には感謝でいっぱいだった。

Tの父は高齢でもう仕事としては出来なかったし、作業の手伝いも殆ど出来なかったが熱心に指導してくれた。もともと器用でDIYが大好きなTは、すぐにコツをつかみたった一人で最高のデッキを作り上げた。子供達は大喜び。床に寝っ転がり、木の木っ端で積木をして遊ぶ。手作りデッキに私達家族に久しぶりの笑顔をプレゼントしてくれた。これで終わらないのがTの発想の面白さ。折角苦労して作った初めての空中デッキ。インターネットのデッキ公募に応募してみようと計画を立てた。お金のない私達の苦肉の策と言ったほうが早いかもしれないけど。


年末に近づくにつれ、農協は合併までのタイムリミットを迎えようとしていた。再び農協から激しく電話が入るようになった。暫らく電話が鳴らなかったから油断していた。農協からの電話を取ってしまったのだ。子供の食事が終わっていなくても、お風呂が終わっていなくてもそんなことは関係ない。お構いなしで電話がくる。そして父からも「なおこ、頼む。あと100万だけお金を貸してくれ。あと100万で良いんだ。頼む。それで後はお金は借りないから。」と電話があった。

「お父さん、私にそんな余裕があると思う?もし100万出すとするじゃん。そしたら明日からの私達の生活はどうすればいいの?貸してっていう言葉は間違えているでしょう?返せるわけがないんだから。何故そうまでして実家を守るの?何の価値があるの?弟の命が消え、娘の生活を脅かしてまで守るべきものなの?」こんな経験は私も初めてだったから知識というものが全くなかった。お金もない中だったけど、私なりに弁護士無料相談会や消費者生活センターなど無料で相談できるところに出向き、解決策を模索していた。生活保護の申請さえ通らなかった今はもう自己破産しかないと思っていた。しかし父は絶対にそれだけは譲らない。それだけは首を縦に振らなかった。そして、父と農協の意見は一致して、私への懇願だ。でもいくら懇願されても出来ないものは出来ない。私は毎日不安定だった。育児になど身が入るはずもなく...。


父とも農協の方とも激しくぶつかり合った。でもやっぱり色々言ったところ私はこの情けない両親を捨てることは出来ないのだ。もうお金も底をつきそうだった。でも考えに考え、全てを投げうって父の為に100万円を準備することに決めた。今全てのことが終結するなら、この苦しみは早いうちに終わらせた方がいいと決心が固まった。

「お父さん、何とか100万円は準備したよ。お父さんの口座に振り込むから。もうこれで終わり。次は私達が首をくくるしかないから。」

そう言って電話を切った。これ以上の事があるなら、親子の縁を切ろうと心に決めていた。


嘘のように父からも農協からも連絡が無くなった。平穏な日々が訪れると信じていた。うまれてからずっと生活が苦しくて、子ども達は殆ど出かけたこともない。例えば、家族みんなでミスドーに行く、例えば家族みんなでファミレスに行く、こんな小さなことさえ憧れで、その夢を少しずつ叶えようとT

と今度は子ども達のために、楽しい計画を立てることにした。初めてドーナツを見た子ども達の食べっぷりは笑える位すごい。初めての物を見てこんなに喜ぶのかとどんどん楽しさが増してくる。日常のほんの小さな事。世間の人には当たり前のことでも私にはその一つ一つがとても新鮮で大切なことに思える。園の生活ももうすぐ一年。担任の先生とはいっぱいぶつかったけど、でもそのことで先生を信頼できるようになった。先生はご自身の経験で得た生活の中の小さな知恵や工夫を惜しげもなく教えてくれた。私も素直に実践してみる。積み重ねると成功できる。この繰り返しで、少しずつ子どもとの関わりにも自信がついた。子供が笑えば私が笑う。私が笑うと子供が笑う。こんな日の方がなく毎日より格段増えて行った。


子ども達の進路の変更、父の借金問題と難題ばかりを抱えての一年がもうすぐ終わりを迎えようとしていた。心穏やかに過ごしたい。それだけが願いだった。


2008年


療育という言葉が自分の中で呑み込めなかった2007年。でも一年を通して継続していくことの大切さを知った。私達は、私立保育園へ入園したBを支援センターへ移行の希望をだした。このまま何もできないまま集団にいることに意味を見いだせなくなっていたからだ。それなら療育体験の中で一つでも多く出来ることを増やしてやりたい。いつしかそう思えるようになっていた。園長先生から了承してもらい、4月入園からはAと一緒に支援センター移行の進路が決まった。


2008年に最初に飛び込んできたビッグニュースは、インターネットの公募に応募していた空中デッキが大賞を受賞し、木材購入券と多額な旅行券が手に入ったというニュースだった。こんないいニュースは久しぶりと私達は大はしゃぎした。そんな中、突然なのか偶然なのか必然なのか、「一緒に韓国に旅行に行かないか?」と、ジャンボの実家の家族から連絡があった。もともとジャンボと巡り合えたのは、会社の後輩の女の子を介して。ジャンボの実家の奥さんは、後輩のお姉さん。後輩は結婚して旦那さんの韓国への海外赴任についていくため寿退社をしていた。韓国赴任の任期も終わりが近づき、後輩夫婦たちが韓国にいる間に韓国を案内してもらって旅行に行こうとのお誘いだった。旅行券が手に入ったばかり。韓国ならいける!!こんな時の決断力の速さは私の長所ともいうべきか。「勿論行きます!一緒にお願いします!」即答だった。ジャンボの実家家族Kさん一家は、子どもが一人娘で小学生の高学年。二人のお世話を進んでしてくれた。小さなベビーシッターさん付の家族初めての海外旅行が実現することになった。

去年の秋、お金をおろそうとATMに行った時の事、置き忘れられた2万円がATMの上にあった。たとえ1万でも喉から手が出る程欲しいと思うような状況だったが、暫らく待っても持ち主らしき人が現れない。そこで銀行のATMの横の電話で相談したところ、近くの警察へ落とし物として届けることになった。もし、誰かが取りに来たら伝えますと銀行の人も言ってくれたため、警察へと行き事情を話しお金を預けた。それが今になり、やはり持ち主からの申し出がなく私のところへ戻ってきてしまった。もともとなかったお金。二人と私のパスポート代として使わせて頂くことにした。何ともすべてのことが棚から牡丹餅的な出来事。とんでもない速さで旅行が実現することになった。初めてのバス、初めての飛行機、初めてのホテル、何もかもが初めて尽くし。後輩家族が韓国の美味しいお店や、普段行くスーパーに連れて行ってくれたり、地下鉄や路線バスを使ってみる体験、観光地と地元に住んでいるから案内出来ることを沢山してくれた。二人は焼肉をいたく気に入り、お腹がはちきれんばかりに食べ、店で爆睡してしまったり、ソールタワーも到着と同時に睡魔が襲っておんぶで観光地をやり過ごすこともあったが、ずっと苦しい生活だった私達には夢のような時間だった。旅行は丁度二人の誕生日。何て素敵な誕生日になったんだろう。今までろくに誕生日のお祝いも出来なく本当に悪いなって思っていたのに。神様が助けてくれたと思った。


でもこんな旅行を決断できたのは、園の担任の先生のお蔭だと思っている。私はそのころ子ども達を公共の場に連れて行くのがとても嫌だと思っていた。食事は道具をなかなか使えないし、こだわりもあるし、じっと座っていられないし、イライラしたり恥ずかしかったり。突然どんな場所でもうつぶせのような姿勢をとり体を硬直させて自分の世界に入り出すA。雨上がりの道路でも突然やり出した時には、涙が出た。ところが担任のM先生は、「手つかみくらい何よ。ジュースをこぼすくらい何よ。たいしたことないじゃない。出来ないから家にこもるのはダメ。出来ないならもっとどんどん公共の場に連れて行って経験しなさい。失敗させなさい。練習しなさい。そうすることで出来ることが増えていくの。お母さんの気持ち次第ですよ。」何回も何回も私にそう言い続けてくれた。はじめは先生の言葉に反抗心もあったが、だんだんそれを実感としてつかめるようになると、親子ともどもいつしか小さな成功は自信になり、小さな自信は次のチャレンジに繋がり、やがて大きな自信につながっていくということに気が付いた。先生は自身の経験からそのことを私に伝えようとしていたのだと一年かかってやっと理解した。これからもっともっと先生から学んでいきたいと思っていた矢先、先生がこの3月で退職されることを知った。先生の子どもさんが養護学校を卒業されることになり、子どもの将来のために寄り添って進路を模索していきたいという理由からの決断だった。先生の中にはそういう人生設計が描かれていたのかもしれない。でも私はショックだった。厳しい先生だったけれど、誰も言ってくれないような厳しいことも相手を思えばこその気持ちで全力でぶつかってきてくれた。私も全力で先生にぶつかり話し合ったり折り合ったりしてきた。先生が全て受け止めてくれていいるという安心感があったからに違いない。あの家庭訪問の言葉から今日まで常に真っ直ぐに子育ての大切さを私に教え続けてきてくれた先生。子供のために、仕事も辞めるその潔さ。先生に会えて良かった。


やっと見える、見えないが伝えられるようになり視力の検査も子どもようのものならできるようになった。眼科の受診はとにかく大嫌いなことばかりされるので、なかなか素直にいうことを聞いてくれない。こっちは大切な検査なのにとイライラするのに。近視、乱視もあるが左右の視力さも大きく斜視もある。このころから日中片目にアイパッチを貼って長時間過ごす治療が始まった。メガネも作ることになったのだが、慣れるまでが大騒動。動けるようになると多動傾向が更に激しくなり、二人とも目を話すと瞬時で方々に散らばり消える。虐待と言われても首にひもを付けておきたいような気持になる。そして、他の子どもさんとの差を大きく感じるようになりその度、寝込むくらい落ち込むことが増えた。一人の世界があり、テレビを見せるとテレビの中のキャラクターになり、会話は独りよがりの一方通行になる。

育児に気持ちが詰まることも多々起こる。ガーデニングが大好きな私。気が付けばもう数年花など放置したまま。草取りをやる程度。でも二人で遊ぶようになるとやっと外での作業が出来るようになり、デッキで大賞をとった時頂いた木材購入券で、今度こそ全て自分達の力で設計、調達、建設までのデッキを作ろうとTが言った。「いいねぇ!」毎週どこに出掛けなくても、外で家族で過ごしながら作業するだけで楽しくなる。特徴的な行動は沢山ある二人だけど、一緒に台所に立ってお料理をしたり隣の6歳年上のお姉ちゃんが大好きで一緒に遊んでもらったり、可愛いおしゃべりもする。


大事件も幾つも起きる。ガーデニング資材を買いにホームセンターに行った時の事。目を離したすきに石好きのAは、いきなりディスプレイしてある石灯ろうによじ登ろうとし、ただ重ねてあるだけの石灯ろうはバラバラに崩れ落ちアスファルトに頭を強打した。青あざ、擦り傷は出来たものの石の下敷きにならず、九死に一生だった。

隣の大好きな姉ちゃんと遊びたいと思うと、勝手に隣の家に上がり勝手に家の中で遊んでいる事件が起きたり、トランポリンではねるようになるとそのまま床に落下して、かたずていない積木に頭を打ち付け、ぱっくりと頭が切れ縫ったり。ピーターパンになり切って空中デッキから空を飛ぼうとする。

どんぐりを拾ってくれば、ごろごりと口の中に入れて食べていたり、庭でダンゴムシを拾えば、観察をしているとばかりに思っているとまるまったダンゴムシをあめのように舐めていたり。とにかく毎日のように事件がおこり、流血したり怪我したり、予想できない行動に驚いたりの連続。×2.


故郷の父のことは頭の片隅にいつもあるけれど、家族で楽しい出来事も沢山経験できるようになってきていたた。プール遊び、海で遊ぶ経験。夏祭り、Tの実家でジャガイモ堀。

そして初めて、楽しい気持ちで私の故郷の実家への帰省。ずっと高速に乗りっぱなしは無理。一泊途中で安い民宿に泊まり体を休めた。

骨折して入院していた母は退院して家に戻っており、父と母の静かな二人だけの生活が出来るようになっていた。自由におしゃべりが出来るようになった二人は、実家に着くなり二人で「真っ黒くろすけが来る~。」と叫びまくり。おんぶに抱っこをしてくれるおじいちゃんにべったりで離れず、しつこくつきまとう。夜になると「お化けが来る~。」と盛り上がる。懐中電灯を使ったことが無く、「ピカピカ」と言って大はしゃぎ。石に異常なほどの執着を見せる二人は、大好きな棒と石を拾いまくり。車いすのおばあちゃんによじ登ろうして怒られると、さすがにやらなくなったけど、足が動かない、手が動かないことは二人には関係ない。おばあちゃんが抱っこできないからと代りに歌をいくつも歌ってくれるのを喜び、もっともっととおねだりをする。花火、バーベキュー、墓参り。遊覧船でカモメに手をかまれ、従妹の子ども達のハムスターに手をかまれ、痛い思いも沢山。さよならの朝、わんわんと泣く二人。こんな日が来るなんて。ずっとずっと苦しい夏ばかり送ってきたのに。出産してから初めて楽しい気持ちでおじいちゃんとおばあちゃんと遊ぶという経験をすることが出来た。


M先生が言っていた言葉を思い出しながら、私とTは次なる作戦を考えた。家族でキャンプに行こう。自然の中で過ごす事、温泉施設やキャンプ場の決まりを守って過ごそう、テント作りやお料理、お手伝いを頑張ろう、私達が教えられることが沢山ある!!

そして、思い切って今まで行きたかったけど行けなかったディズニーランドに旅行に行こうと思い立った。子供がいるって頑張れる。子供が喜ぶとさらに頑張れる。必死で働いて夢を叶える。ところが...レストランから一人で大冒険に出掛けたA。一人で気の向くまま、迷子になりながらふらふらと歩くまくっていたらしい。残された3人は半狂乱。泣き叫びながら探す。迷子センターの保護され迎えに行くと、「ディズニランド楽しいね~。」の一言。全く周りの様子など感じる気配もない。

出来ない事は沢山ある。課題だらけの二人。イライラしながらも家族で楽しいことを沢山して過ごせることは心から幸せ。初めて作るクリスマスツリー。イルミネーションを見に行ったり。


そんな時、一緒に園に通う園児が突然亡くなった。忙しい中にも今年は役員を引き受け仕事をしていたが、一緒に役員をしていたお母さんのお子さんだった。園の誰もがショックを受けた。毎日悩みはある。ここに通う皆は誰もが苦しみながらも前向きに生きている人達。親も子育てに苦しんでいる。でもやっと見つけた自分の居場所だとも感じた。周りのお母さんとも悩みを共有できるようになったり、遊びに行ったり、我が家に遊びに来てくれるようになったり。そんな中、大切な大切な一つの命が無くなった。一日家族が無事に過すことが出来る幸せ。何気ないことだけど何よりも大切なこと。今この時は今しかない。一日一日を大切に過ごしたい。毎日一生懸命に生きたい。小さなRちゃんが、私達に教えてくれた大切なこと。


2人が生まれてからやっと迎えた静かで平和な一年。二人がいなければSの死から立ち直れなかったかもしれない。2人がいなければ、この困難に立ち向かって守るものを守っていかなければなどとは思わなかったかもしれない。育てにくさはいっぱいあるけど、私達を苦しみから救うために2人は生まれてきたのかもしれない。


2009年


Tの実家で迎えたお正月。やっとお正月をお正月らしい気持ちで迎えられた。従妹の子ども達とカルタ取りに福笑い。豪雪地帯のTの実家では一日中雪まみれで雪遊び。不器用で身体をうまく動かせない2人に、私達はスキーを教えることにした。


2009年の始まりは家族での楽しい夢から始まる一年にしたかった。私とTは年の初めにライフプランを立てることにした。まずは夢。自分達が一生かけてやりたいことを自由に話す。

「私は世界一周旅行」

「俺は、釣りで日本一周」

「もう一度記憶に残る年齢で家族で海外旅行、あ、新婚旅行も行ってないからそれも兼ねて。」

「車を買う。」

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