第3章 軌跡~600gの我が子と歩む道 2

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「子供が高校に行ける、大学に行ける。」

「土地を買って自分のオリジナルガーデンを一から耕して作り上げる。」

「美味しい物の食べ歩き、温泉三昧」

楽しい企画を沢山出し合った。一生の年表を作っていつ実現させるのかを二人で空想して計画した。故郷の両親のことで緊迫した家計の状況だったが、しっかりとプランをたてて将来の二人の学費を準備していこう、保険や学資の見直しをしようと計画を練った。これも父と母のお蔭かも。お金には執着がなかった若い頃。お金は人生を楽しむためにあったし、別に当面暮らせるだけのお金があればそれでよかった。でも、私がこんなに変われたのはこのふがいない両親のお蔭かもしれない。

そして私達の一番最初の夢の目標が決まった。

「キャンピングトレーラーを買って、日本中の綺麗な景色を二人に見せてやろう。」に決定!!!

2人が小さく産まれて、目が見えなくなるかもしれないと先生から説明された時、私達は恐怖に気持ちが押しつぶされそうになった。目が見えないってどんな生活になるんだろう。どんな風にサポートしていけばいいんだろう。どんな進路選択があるのだろう、私達はそのことを受け入れられるだろうか。来る日も来る日も二人で恐怖におののき、もう前を向いて歩くことなんかできないと思った。検査に幾度結果を聞くのが怖くて、眼科に一人で行った日の帰り道は、この片道一時間かかるこの道を無事に家までたどり着けるだろうかと、気持ちがど緊張する。

そんな時、二人で楽しいことを考えようと手を握り合って過ごした。

「目が見えたらどんなことをしてやりたい?」

「私は自分が旅行が好きだし、独身の頃いっぱいいろんなとこに住んでみて、日本って美しい景色がいっぱいあるなって毎日思って暮らしてきた。だから今住んでいる日本の綺麗なところを2人に一杯見せてやりたい。」

「俺は、大好きなキャンプを一緒にいっぱいしたい。それで、お魚のさばき方を教えるんだ。もしも魚が裁ける娘だったらかっこいいだろ。」

「うん!いいね!!じゃあさ、それをmixして、私らしい旅スタイルで日本中の美しい所を見せてあげながら、私達にしか教えられない楽しいことをいっぱい教えてあげるキャンピングトレーラーの旅にするってどう?」

「最高!いつか、必ず実現させて二人に綺麗な景色を見せてあげよう。二人のために一生懸命働いて、絶対絶対、目が見えなくならないようにって祈って、家族みんなで一緒の景色みて一緒に感動しよう!」

今だって、目に心配がないわけじゃない。未熟児網膜症は手術をしたからと言って完治するわけじゃないのだ。むしろ気が付かないうちに何かが起こるこれからの方が怖いかもしれない。私達はこの目標を絶対叶えようと2009年の最初の目標に掲げて、働くことにした。父の事で苦しくなって詰まった時、二人でキャンピングトレーラー屋さんによく立ち寄った。見るだけ。見て夢を見るだけ。最初はお店の人にも相手にされなかったが、時々顔店に立ち寄るようになると顔を覚えてくれるようになり、トレーラーの中身を見せたりしてくれるようになった。しかし、私達にはそんなものを買う余裕は全くない。それでも親切なトレーラー屋さんにいつも感謝していた。


年齢が進むと次の進路を意識してしまう。小学校への就学が近づいている。今のことにいつも精一杯の私は気が付くのが常に遅い。年長の春からはもう就学相談や進路の決定をしていかなければならない。卒園がまじかになると、クラスの年長児は養護学校や、小学校への入学が決まり、軽度の発達障害の子どもは園での療育経験をもとに地元の保育園へ転園していく。針路が決まる時期になると私の心も不安定になっていく。クラスの中に残るのは、我が家だけだった。他の皆はこの春に卒園していく。分かってはいるけど、地元の保育園には行けるはずもなく。皆におめでとうと言いながらも気持ちがどんどん苦しくなる。心の中では理解している。この一年落ち着いた環境の中で、さらなる生活面の自立をしていかなければ小学校は厳しいということも。

参観日を見ては、ショックを受け気持ちがふさぎ込み寝込む。事実を突きつけられて笑い飛ばすほどの強さは私には全くない。もう小学校に行く年齢になるというのに、食事は手つかみに近い。おしっこも教えられず部屋の中でジョージョー。それを見ただけでショックで泣いてしまう。厳しく辛く当たる。自己嫌悪に陥る。子供は委縮してますます失敗する。負の連鎖だ。私がこうなると家族中の気持ちが下向きになる。心が葛藤をしている。AはAなりの、BはBなりの成長のスピードがある。二人は二人なりの

スピードで毎日頑張っているのだ。それを応援することも出来ない。私は凄く恥ずかしい人間だ。人間は欲が深い。ここまで大きくなれたのもあの600gで生まれた時の事を考えれば奇跡に近いのだが、次々と次の要求ばかりが浮かんでくる。生きるか死ぬかを50パーセントの確率で、生きることに繋がったそれだけでも感謝すべきことなのに。


突然奇跡が舞い降りて来た。父が農協の合併の最後に私達に貸して欲しいと言って振り込んだ100万円がそのまま戻ってくることになった。父と農協がどんな風に話し合ったのかは知らない。私達には父は何も話してくれなかった。本当はいつも何も聞かされないまま、突然不幸に突き落とされるのが何より嫌だったのだけれど、あえてもう何も聞かなかった。父が突然連絡をよこし、返したいと言ったのだ。そして、即決の私は、どうせこれはもともと父にゆずるつもりで渡したお金。戻ってきたところで何だか気持ちが悪い。だから、今まで父と母の為に身を粉にして働いてきてくれたTと我慢をいっぱいさせてしまった子ども達への私からのプレゼントに使おうと決めた。

「T、すぐにキャンピングトレーラーを買おう。お父さんから戻ってきたお金で。もともと戻ってこないと思いながら捨てたお金だから。それなら家族が一番望んでいる事、喜ぶことに使おう!」

そして私達の夢は突然に大きく動き出した。小学校入学前の一年。私達に出来る精一杯のことをして二人を応援していこう。家族の絆を深めよう!インターネットで探すと中古で気に入ったトレーラーがすぐに見つかった。ずっと見るだけに通ったトレーラー屋さんに相談してみると、一旦トレーラー屋さんが買い上げた形で仙台まで取りに行き、車検、整備などをして納品をするという提案をしてくれた。願ったりかなったり。ずっと見るだけでも親切にしてくれたトレーラー屋さんのことは、とても信頼していたしメンテナンスが近くで出来ることはありがたいことだった。

そして3月。ついに納車となった。ずっとずっと思い描いていた夢。苦しい時Tと手を繋いで恐怖と闘ったあの日々。視力は良いわけではないがまだ2人の目は見えているし、異常はない。早速家族でのトレーラーの旅を計画した。

トレーラーを接続しての初めての高速。ドキドキ。高揚感。私達は埼玉の秩父を初めての旅行先に選んだ。荒川沿いに続く天然記念物畳岩。平たい岩の上をどこまでも歩く。まだ桜が残っていた県立美の山公園。そして夜はホルモン、イノシシ料理がおいしいらしいとホルモン店でご飯を食べた。お腹もいっぱいになり、明日は私が楽しみにしている芝桜の羊山公園なので、温泉に立ち寄り入ったら初めてのキャンピングトレーラーでの宿泊だ。ところが、初めての旅は忘れられないほどの衝撃的な事件になった。お風呂が終わって車に戻ると「喉が渇いたよ。」の言葉にジュースを買おうと財布を開けた。ところがないのだ。お金が、全く入っていない。

「お金が無いの。全く。」

「何言ってんだよ。冗談だろ。よく見て見ろよ。」

「どんなに見たってないものはないよ。」

にわかに信じられなかった。今自分が置かれている状況はよく把握できなかった。私達は初めての旅にして車上荒らしにあったのだ。施設に戻って電話を借り警察へ連絡をした。すると、助手席のドアのカギ穴に暗闇に肉眼では分からないような傷跡があり、ドアはここからこじ開けられたものだとわかった。現金2万円とカードが2枚盗まれていた。カードを止めたり、警察での被害届や指紋の検証。結局トレーラーで眠りにつけたのは、夜中の12時30分ころだった。カードは盗まれて20分後にすぐ引き落とそうと5回程トライした履歴があったが、すぐ気が付いて止めたため、被害は財布の現金2万円にとどまった。でもショックのあまり殆ど眠れなかった。

Tの財布の中に入っている3000円だけが今ある所持金の全てとなってしまった。帰ろうと思ったが、次の日は2人が楽しみにしているイチゴ狩り。あるお金をやりくりしてなんとか遊んで帰ろうと決めた。500円で家族4人分の朝食を買った。この日に限って忙しくて殆ど料理できる準備をしてこなかった。とりあえず買った食べ物を皆で分け合って食べた。駐車場代もかかるのか....諦めかけたが、駐車場のおじさんに事情を話してみた。すると駐車場代を半額の500円にしてくれたのだ!希望が見えた。公園内は無料で芝桜の中を歩くことが出来る。そして問題のいちご狩り。ところが少し季節が外れていたので、入園料が半額になっていた。半額なら子ども2人と大人1人は入ることが出来る。私は見守り、3人は朝ごはんの分までしっかり満腹にイチゴを食べることができたのだ。そして旅の最後は、ずっと2人を連れて行きたいと思っていたムーミンの世界。あけぼの子どもの森公園。公園内の施設内は無料で入れる上に、本当にムーミンが住んでいるんじゃないかと思わせる作り。子供達は時間も忘れて夢中で遊んだ。お腹がへってももう何も買うお金が残っていない。そうだ!お土産にと昨日畳岩のお土産屋さんで買ったお菓子がある。みんなで包みをばりばりと開けてむさぼるように食べた。こうして家に着いたときは残金340円。でも昨日の事件が吹き飛ぶくらい思い出に残る最高のトレーラーの旅になった。


こうして家族の夢が叶ったことは、私が変わるきっかけになった。就学を前に追いつめられていた気持ちが解放され、このころから少しずつ排泄を教えてくれるようになり、トイレで成功をしては褒められ、家族も皆で喜び協力するの体制が出来上がってきた。怒らずほめるはのほうがはるかに近道だと気が付いた。しかし、排泄はこの年齢になっても確実なものはなく、お店で大量にもらし謝って掃除をするような事件が起きたり、小学校に入るということがとても大きな壁に感じ、何事にも一生懸命すぎる私は、排泄が出来ると次は食事面、ひらがなを覚える、自転車に乗れるようになるよう練習する。次々とやらなければと思うことが出てくる。そしてまたこれが私の焦りの原因になるのだ。何せ二人はマイペースの上に超不器用。修得するのに人の10倍も努力と時間を要する。分かってはいても出来ない事にいらいらするの繰り返しだ。


今年はなんていう年なんだろう。朗報が飛び込んできた。以前に大賞を頂いたデッキを全国紙のDIYの雑誌編集社から取材の申し入れがあった。勿論即答でOK。大きなカメラや道具、見たこともないものに目がキラキラの2人。カメラマンにしつこく付きまとい、膝に入り撮影も大変そう。あの時、苦しかった家族の気持ちを前向きに変えてくれたこのデッキがこんな風に脚光を浴びることになるなんて!私達にとっての大大大事件になった。


人と適度なコミュニケーションをとるのが苦手な二人。この一年は小さな集団からお友達との関わりを学んで小学校にいく準備をしたいというのが私の夢だった。そこで春休み。まずは身近な人からとTのお母さんとお姉さんにお願いして、我が家にお姉さんの子ども達をホームステイ状態で泊まらせて遊ばせて欲しいとお願いした。近くに兄弟の子ども達が住んでいれば自然にこんなことが出来るのだろうけど、私の実家もTの実家も遠くてそれさえも自由には出来ない。お姉さんは快く引き受けてくれ、従妹のお姉ちゃんたちと過ごす体験をした。

小学校入学前に歯医者さんに行く練習。検診でパニックにならないよう、事前に歯医者さんを理解しておくことを思いついた。何もかもが就学に向かっての準備と繋がっていく。


4月

いよいよ支援センターでの最後の一年を迎えた。入園式にはすでに小学校就学に向けてのこれからのスケジュール説明がされる。発達に心配がある子ども達は、就学指導委員会で話し合われ最適な進路と思われる進路が提示される。しかし、少しずつ制度は変わってきており、就学指導委員会での提示はあくまで提案で、決定ではない。何よりも親の気持ちが重要視されるようになってきていた。私達もいくつかの選択肢の中から進路を決めていく必要性が出てくるだろうと、先に養護学校の学校見学に出掛けた。


5月

私達は連休を利用して金沢、能登一周旅行を計画した。金曜日Tが仕事から帰ってきて夕食とお風呂を済ませたら出発。道の駅奥飛騨温泉郷上宝にトレーラー泊。この気軽さが最高。仕事から終わって出発しても、疲れた体をしっかりと足を伸ばして眠れるので、次の日も元気に遊べる。移動時間を夜に持ってくることで時間の有効活用が出来る。岐阜周りで富山に抜けるルートを選び、寄り道しながら自然の中で遊びながら旅を楽しんだ。

蒲田川から大岩を一枚隔ててワイルドな混浴の温泉を発見。水着で入れるとあって、大自然のスケールの大きさを感じながら入浴。尻湯を見付け座ってみたり温泉卵を味わってみる。富山湾で美味しい魚介を手に入れ、石川県の能登半島でTのお姉さん家族と合流。3月一緒に家で過ごした従妹のお姉ちゃんたちと初めてのキャンプ。皆で協力して作る夕食。女子は全員トレーラーで。パパたちはテントで眠った。ただ食事を作って泊まる。言葉にすればたったこれだけの事なのだが、キャンプには学べることが沢山ある。

一泊でTのお姉さんの家族とは別れ、旅を続けた。奥能登。九十九湾での遊覧船観光。食事は野天にいつでもキャンプ用のテーブルを広げトレーラーの中で料理したものを食べる。珠州の海。海岸を歩いて磯の生き物を夢中で探した。見附島の岩の上を軍艦岩まで歩いてみる。のどかな鉢ケ埼キャンプ場でトレーラーに充電をしながら1泊。

次の日も能登をひた走る。能登半島最北端の灯台。普段抱っこ抱っこと歩く気がないAもこんな時ばかりは張り切って歩いてくれる。途中にゴジラ岩や窓岩と面白いものを見付けては寄り道し、疲れたら砂浜に寝っ転がって休憩。Aは砂が大好きだから、こんな時はひたすら砂で遊んでいてくれる。

輪島の朝市を見たり足湯に入ったり。2人は疲れると車の中で良く眠る。その間はひたすら走る。起きたところで、巌門に立ち寄った。巌門洞窟の中を散策したり、海の傍の平らに開けた岩場を歩く。道の駅ころ柿の里しかにトレーラー泊。温泉施設がついており、ゆっくりと旅の疲れを取ることができた。そして最後は千里浜なぎさドライブウェイ。海で飽きるまで遊び、帰途についた。


私達はもうトレーラーの旅に夢中だった。今度は支援センターに通うお友達家族とい一緒に湖に1泊2日のキャンプ。旦那さんと離婚して女で一つで2人の子どもを育てているシングルマザー。男手がないとなかなかこのダイナミックな遊びは出来ない。

「一緒に行こう!」と誘うとすぐに「いいよ!」と返事をくれた。

チビッコみんなで協力してテント作り、食事作り。湖の周りを散歩したり、ナウマンゾウ博物館や童話館を見に行く。夜は温泉。たったこれだけのことだけど、子ども達の顔はみんなきらきら。楽しくて楽しくてはしゃぎまくり、布団に入ると銃にでも撃たれたかのような状態で動かなくなる。


6月

庭はバラやハーブが綺麗に咲き乱れるようになった。故郷の父と母の2人だけの生活も静かな時間が流れるようになり、父が作ったコンクリートの道脇にも沢山の野菜や実ったり花が咲くようになった。私達はやっと安心して暮らせるようになった。父は借金の事を全く口にしなくなったので、どんな風に解決したのかいささか不安だったが、私達は今ある家族の生活をやっと楽しめるようになった。


ある日曜日の昼過ぎ。子供達が昼寝をすると私達も眠くなり一緒に昼寝をしていた。突然なった玄関のチャイム。眠い目をこすりながら出てみると、そこには16年会っていなかったけれど、確かに私が独身の頃、沖縄に住んでいた時に中の良かった親友が立っていた。何が起こっているのか分からなくなる程驚いた。

「え???S子???本物???何でここにいるの?」

「ずっと会いたかったんだよ。住所もテキトーにしか分からなかったけど、何度も聞きながらいつの間にかここにたどり着いたんだよ!」

16年なんて時間が経っているとは思えない程、あの時の関係がすぐに戻って来るかのようだった。私が連れて行ったお気に入りの店で出会った、店の店長だったHさんとお客さんのS子。恋に落ちたところで、私はこっちに帰ってきたのだ。帰ってきてからは全国を転々としながら暮らしているせいで、S子がどうなってしまったかは余り知らなかった。二人には越えなければならない様々な問題があり、長い長い時間をかけて夫婦になっていた。Hさんは芸能関係の仕事をしている。沖縄からこっちでの仕事をするため拠点を内地に引っ越し、せっかく内地に来たのだから会いたいと私を探してきてくれたのだ。

16年たっても変わらず友達でいてくれるS子。改めて私はあの頃、私は人生の中で何より大切なものを得ていたのだと感じた。


最後の一年は、思い出作りに励んだ。支援センターの子ども達は、その特徴的さからあまり公共の場に行かなかったり、友達の家に行くなど経験がないという子どもさんも珍しくない。でもそんなのおかしい。私もずっと怖いと思っていたし、出来ないことの一つだった。でもここにいる仲間は皆同じ悩みを持っている仲間。仲間のなかでなら自由に世間の健常児と呼ばれる子ども達のように、その親のように一緒に遊べるのではないかと思った。私も嫌だと思っている一人だったから。

誘ってみると、大勢の支援センターの子ども達と親が我が家に遊びに来てくれた。皆でお家パフェ作り。美味しいものを前にすると子ども達もおとなしい。(笑)皆で作り、皆で食べて、皆で子どもを見ながらおしゃべりをする。短い時間だけど、同じ悩みを持つお母さんと過ごす事は心が楽だったし、心から楽しいと思えた。本音で話せる。一緒に泣ける。喜べる。


またまた楽しいハプニングが起きた!会社の取引先から、新製品の立ち上げのため立ち合いにアメリカの会社から派遣されてきているアメリカ人の二人。BさんとMさん。3ケ月もの長い間、日本に滞在し製品の最後の立ち上げに立ち会い一緒に製品作りをする予定。ホテルに滞在し会社との往復の日々。私もTも全く中学英語くらいしか英語が話せないのだが、会社のプロジェクトにかかわっている。会社で時々コミュニケーションをとるようになると、会社では会社の付き合いがあるが、土日になると狭いホテル、伝わらない言葉、辛い思いでいることが判った。だからと言って語学全く駄目の私達に何が出来るのか...という感じだったが、せめて日本にいる間に何か良い思い出を作ってやれないかとおせっかい心が湧いてしまった。休日になると、最初は英語を話せる同僚をも巻き込んでBさんとMさんを連れ出す作戦。その内、我が家に来ることになり夕食を一緒に食べることになった。果たして2人の反応は?

全然何にも関係ない。花を摘んではガンガン日本語でBさんに話しかけプレゼント。自転車の後ろを押せとおねだり。食事の準備も皿や箸を渡していつの間にか手伝わせている。お客様なのに、2人にとってはただの変わったおっちゃん。ぎょっとすることばっかり。一緒に幼児用の英語教材のゲームを使い遊び、まるで孫とおじいちゃん状態。全く言葉は通じていないけど、それでいいらしいのだ。すっかりBさんの抱っこ独占状態になった。Bさん、日本の手持ち花火は初めて。小学校の頃、親からぐるぐる回したり人に向けてはいけませんと言われたことを、大喜びではしゃいでいるBさんが実践すると、意気投合した2人も加算して振り回す。蛍を見つけて夜の散歩。言葉が通じないというのは、二人だけではなく園で一緒にすごす子ども達も同じだ。言葉がしゃべれない、上手く伝わらない、でも一緒に過ごす事は楽しいし心地良い。言葉が伝わらないBさんを通して学ぶものは大きい。

次の日はどきどき。遂に私達とBさんだけで、湖に釣り&デイキャンプ。電子辞書を片手にお互いがコミュニケーションを図る。初めておにぎりを食べ喜ぶBさん。釣り好きは世界共通で楽しめる。2人は生まれて初めての釣り体験。やりたいやりたい×2で大変なことになる。外でご飯を作って食べ、早く切り上げてしまったので、草津温泉観光へ。初めての足湯にぎょっとするBさん。進めるが入らない。(ところが後日で、どうしても気になりMさんと2人で入りに来たらしい。)湯畑を散策しながら温泉饅頭にソフトクリーム。Bさんには、子どもが出来なくて子どもがいないのだということを話してくれた。私達も不妊治療であること、二人は成長に心配なことが沢山あることをBさんに伝えた。でもBさんは変わらず、2人を可愛がってくれた。

最大のミッション夕飯。言葉が通じないとメニューを説明するのが難しい。自宅近くの和食のお店に連れて行き夕食を食べたのだが、お刺身が出てきた瞬間にBさんの体が硬直して動かなくなった。何と生け作りで出てきたのだ。時々、お魚のしっぽはぴくぴくを動く。そんなBさんの異変を感じ、面白がって魚をBさんのところに運ぶ子ども達。とんでもない夕食の思い出ができた。


突然の来客。沖縄のHさんと親友S子が、音楽仲間プロデユーサーさんを連れてやってきた。何とも贅沢な。本物のライブハウス状態でギターでのセッションが始まった。2人は大喜びでへんてこりんな踊りを踊りまくる。久しぶりに音楽なんか聞いた。ポロリとそう呟くとHさんはその言葉を逃さなかった。

「育児で疲れているお母さんたちのために歌えたら最高だな。育児しているときはライブハウスなんか行けないじゃん。だったら、俺たちがそんなお母さんたちのところにいって歌えばいいんだ!」と突然とんでもないことを言い出した。

S子の家族の中には重度の知的障害をもったお兄ちゃんがいて、そのことは昔から聞いて知っていた。「もしも両親が年老いてなくなったら、私が兄の面倒を見るって決めてるの。」S子は昔から心優しい家族思い、両親思いな人だった。

「Hの企画、実現しようよ。私とHが結婚できたのは、なおのお蔭なの。なおが私達を出会わせてくれたから。なおは私達のキューピットなんだよ。だからいつかお礼しに来ようって16年間ずっと思ってた。なおの子ども達が通う支援センターに行って無料ライブを開こう。私達からのささやかなお礼だよ。園長先生に話して、実現できるように打ち合わせをしようよ。」突然の提案にびっくり。興奮の中楽しい時間は過ぎて行った。



7月

年長の最後まで支援センターに残ることになったAとB。小学校入学前に出来ることはどんどんチャレンジする。保健師さんと相談し、地元の保育園での体験をすることになった。将来小学校に入れば殆どの子が一緒に過ごす事になるお友達だ。健常児の中でも集団活動は、Aは最初に入った公立の保育園依頼経験がない。私自身もわずかな期待と大きな不安を持ちながら付き添った。

パニックにならないように事前に何度も予告。教室の中では過ごせるものの特徴的なことも沢山あり際立つ。名前を呼ばれても返事などできず、「あ~ぁ疲れちゃったな。」などと場に合わないことで切り返す。順番が待てない、ゲームのルールが理解できない、指しゃぶりが激しくなり、他の子どもさんが真似する位。そして最後はロッカーの中に丸くなって入り隠れる。集団の中に入ったことで課題が際立ち、私の心は大波が押し寄せていて不安定になっていく。


Tは、家族を楽しませようとキャンピングトレーラーの旅の計画を次々と打ち出す。毎月買っていた月間購読絵本で「カーフェリーの旅」という本が届いた。それを見てそうだ!と思いついた。

カーフェリーの絵本を読みながら、実際にカーフェリーの旅を経験してしまおう!と。するとそのころの高速道路どこまで行っても1000円の景気対策に乗っかり、佐渡汽船が車の乗車券1000円企画を打ち出した。これは乗っからない手はない。ほぼ大人二人の乗車券代のみという金額で行けるなんて夢のような企画。すぐに申し込んだ。そしてあっという間に佐渡旅行が実現することになったのだ。絵本を開きながら確認している2人。船の中は大人でもわくわくして興奮する。カモメに餌をあげたり船の中を大冒険したり、あっという間に佐渡に到着してしまった。今回はトレーラーなし。でも十分に楽しい。

史跡佐渡金山へ。中にいるリアルな電動人形が動くたびしゃべる度ビビりまくる2人。寄り道をしながら佐渡一周を目指す。さすが島国。ずっと美しい海を見ながらどこまでも走れる。大野亀、平根埼。穴がいくつもぽこぽこと空いている波蝕甌穴郡。歩くと面白いものが沢山見つかる。尖閣湾を反対から見ようと姫津大橋を歩いた。七浦海岸で夕日の時間を迎え、今日はせっかく交通費を安く来たので安い民宿に泊まることにした。何とお客さんは私達だけ。貸切なので広間での食事もおはしゃぎでもOK。皆リラックスして食事が出来、お子様ランチについてきたでっかい一杯のカニも丸ごとペロリと平らげた。海の幸三昧に夕食に大満足で眠りについた。次の日は雨模様。でもせっかく来たのだからと旅を楽しむ。重要伝統的建造物群保護地区の宿根木を散策。歩くことが基本と支援センターで一生懸命歩いている子ども達、親と一緒だと甘えて歩かなくなることが多かったのだが、この旅をするようになってから進んで歩くことが多くなった。何といっても佐渡と言えばたらい船。旅の最後に元小木にある景勝地矢島、経島でたらい船に挑戦した。怖さを知らない二人は不安定な船の動きにも関係なくじゃんじゃん乗り込む。見ているこちらがひやひやしてめまいがしてくる。(私は泳げないので怖いのだ。)

カーフェリーの2等客室で毛布だけ借りてお昼寝を試みるもの興奮して眠らない二人。隣にいた子どもずれの家族と仲良くなり、皆で遊ぶ。旅はこういう出会いがあるのも最高だ。


遊んでばかりはいられない。就学指導委員会の結果はBは小学校、Aは小学校の特別支援級か養護学校どちらでも両親の判断にゆだねるとの結果だった。つまりは少し小学校生活にはキビシイ面があるということなのだが。A地元の小学校の特別支援級を希望しようと私達の中では選択が決まっていた。Aが小学校に対して嫌なイメージを持たないように努力開始だ。そんな時、小学校で何周年かを記念するバザーが開かれた。私は学校に連れていこうと決めた。お菓子釣りに水風船取り。お楽しみ抽選会。楽しい企画が盛りだくさん。「学校楽しかったね。」そんな言葉が2人から自然と出てくると嬉しい気持ちになる。


アメリカのBさんとMさんは気軽に我が家に来てくれるようになり、休みになると時々訪寝てくる。2人は、言葉が通じなくてもBさんとMさんを大好きなのだ。突然に異国の人と触れ合えるこんな素晴らしいチャンスをもらえるなんて!BさんとMさんがアメリカに帰ってしまう日がどんどん近づいていた。すると2人から、お世話になったみんなに料理を振舞いたい、どこか料理が出来る場所を提供して欲しいとお願いされた。そこで私達は2人の思いを尊重するべく、公民館を借りて今まで楽しく休日に遊んできた仲間を大勢呼んだ。MさんとBさんは、二人で車をレンタルし埼玉のコストコまで買い物に行ってきたらしく、アメリカンなものを色々揃えてやってきた。みんなで楽しい食事会。子供達のためにと焼きマシュマロを作ってくれた。「アメリカのキャンプの定番です。」そう教えてくれ、それから私達のキャンプでも常に焼きマシュマロは定番になった。ビッグサイズの生クリームを見付けると、チューチューをそのままいっぱい吸いたいAとB。取られまいとするBさん。孫とおじいちゃんの格闘は続く。


その頃会社の業績は悪化の一途をたどり、ついに退職者を募ることになった。生産も今や中国へと移る中、生産業界では日本での生産はコストばかりが跳ね上がり、縮小を迫られていた。まさしく私も対象者だ。第1回目の募集では、募集人員まで全く到達せず、少し条件をあげての2回目の募集に入るという説明があった。気が重い。残ったとしても、相当の減給は免れず辞めるも地獄、残るも地獄状態だ。夫婦でも何度も話し合いをしたが、なかなか先行きの見えない中、決断までは出来ずにいた。このころから、仕事が無い日には会社を休んでもらうというようなことも起こるようになった。会社の中でも不安が高まり、色んな噂が流れるようになりお互いの腹の探り合いだ。


8月

帰省前、BさんとMさんがアメリカに帰国してしまうため、家族で会いに立ち寄ってから故郷へ向かった。楽しかった3ケ月。「アメリカに行く。」がこのころの口癖になった。実際に出会うことや、体験することはこんなにも子ども達の心に何かを残すものなのだとBさんとMさんに出会うことで実感した。故郷の帰省も慣れてきた二人。これがおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くことだということも理解できるようになり、楽しみにできるようになった。その上今年はトレーラーを引っ張って、宿代を払わなくてもちゃんと休んで走れる。寄り道も快適になる。

母はデイサービスに通う様になり、そこでお風呂やリハビリを済ませて帰って来るようになった。父は意外に几帳面なので、洗濯も干す、たたむなどをよくやり料理も大分作れるものが増えていた。父の表情も本当に柔らかくなり、少し顔もふっくらとした。遺影を見ると弟が変わらない姿でいつも両親を見守ってくれているように感じた。

やっとTは、私の故郷の川で釣り三昧をするくらいの楽しい気持ちになれた。妹夫婦達が会いに来てくれ短い時間を一緒に過ごす。弟もいつもこの輪の中にいた。今日はきっと喜んで一緒にビールでも飲んでいるに違いない。何年たっても弟の死は現実ではないようにも思えてくる。「お~い。姉ちゃん。明日案内するから釣り行こうよ!」と出てきそうな気がする。


帰省から戻ると、すぐに地元保育園での交流があった。前回よりも大分緊張がほぐれ皆と同じ活動にも参加できる部分が増えた。それだけでも嬉しいことだった。一つずつ諦めず経験を重ねて自信をつけてく。親も子供も。支援センターで教わったことだ。

次々と緊張は続く。運動会の旗拾いだ。朝から気持ちを崩さないように私の方が細心の注意を払いすぎて、到着する頃にはへとへとになる。列に並ぶと勝手にどこかに行くのではないかと心配になり、思わず声をかけてしまう。

「お前があんまり心配しすぎると、子ども達も不安になるだろう!」と心配がピークの私にTが怒る。こうして私だけが倒れそうになりながら、風車拾いは終わった。来年一緒に支援級に入学するお母さんと一緒になり、先生に抱っこしてもらいの参加になった子どもさんを見て泣いていた。私にはその気持ちが痛いほど理解できた。こんな悩みを持つ人が私一人ではない事が私にとっては心強かった。


9月

地元の小学校へ再三見学をしたいとの申し込みをしたのだが、思うような返事が来ず少し焦っていた。校長先生が忙しくて予定が付かないのか、教頭先生が連絡を忘れているのかずっと前から見学をさせてもらえないかとの問い合わせをしているのに一向に返事が来ない。そこで参観日の日、学校を訪れた。

通常そんなことなど許されないだろうが、私は学校と入学前に話がしたかったのだ。相談支援級のコーディネーターの先生が対応してくれた。

強硬手段ではあったが、校長先生のもとに話がやっと届き、私は校長室に通され話すチャンスをつかんだ。校長先生は女性の先生だ。入って座るなりいきなりヒステリックにテーブルを平手で勢いよく両手でたたき、怒りをあらわにした。まずはアポも取らずに学校に来たことを直謝りし、校長先生の怒りを鎮めなければならなかった。しかしながら、再三が学校に連絡をしたにも関わらずここまで無視し続けたのは、学校側なんだけどと言いたい気持ちをごくんと飲んで耐えた。

やっと怒りが静まると今度は障害についての偏見だ。

「養護学校は見学されたの?わざわざ小学校にくることなんてないじゃない。その子供にはその子供なりに最適な進路があるのです。養護学校に行かれることを進めます。」というものだ。

小学校ってこんなにも発達障害に理解を示そうとしてくれないところなのだと衝撃を受けた。入学まえからもう試練の予感。

「養護学校はちゃんと見学にも行きました。就学指導委員会の判定も受け、親の判断に任せるという結果でしたので、私は地元小学校の特別支援学級への入学を望みます。その先の将来の進路はまだ見えていません。ただ今まで療育を受け積み上げてきたものを支援を受けながら学ぶことが許される義務教育の中では生かしていきたいと考えています。小学校からの集団生活の積み重ねはやがて社会人として生きていく基礎を作り上げていくのだと思っています。どこまでその中にいられるかはわかりません。ですが、小学校の義務教育の中で学べる多くの事を学ばすチャンスを発達障害を持つ我が子にも与えて下さい。」必死に懇願した。しかし、今日は校長先生の怒りも完全には静まらず話がまとまらず、再度のアポを取って席を外した。

強引な方法ではあったが、これで良かったのだと思った。後味は相当悪い。しかも、もう居心地の良い支援センターを卒業したら、たった一人で戦うほかなく、きっとこんなイバラの道だらけで、世間は鬼のような心を持った人だらけなのかもしれないと思った。発達障害が理解されない事、身を持って痛感し校長先生とあった後は、大きく落ち込んだ。

支援センターの先生に話すと、皆よく話を聞いてくれ諦めずに話をしていこうと励ましてくれた。そうだ、大事な子供の進路。私がひるんでなどいられない。理解してもらってHAPPYに小学校に通いたいのだ。


サイドのアポをとった日。前回の苦い思いから極度の緊張をしながら校長先生に会いに行った。今日は冷静だった。ほっとした。まずは、先生の経歴や経験談など自慢話ともとれる話にじっと耳を傾け、感心したり尊敬の念を述べたり。その後、私達の考えについても触れてくれた。何故、小学校入学を希望しているのかということについては理解をしめしてくれ、子ども達の状況についても一通り伝えることが出来た。話し合いはそこで終わるものと思っていた。校長先生からは入学にあたっての条件が提示された。学校の登下校は登校班での登校になるのだが、二人については親が全責任を持ち登校にも下校にも必ず付き添う事。学校行事には必ず付き添い集団活動への手助けをすること、学校から親の付添の要請があれば応じる事。それを守ってくれることで学校側としては入学を受け入れるというものだった。

働く会社は、業績が悪化し何社かある会社を1つにまとめ、工場を一つにしようとしていた。春からは通勤が遠くなり朝7時少しすぎには家を出ないと間に合わない。しかも帰りは定時で急いで帰っても6時過ぎてしまう。とても付き添うことなどできない。頭が混乱気味だった。

しかし子供の存在というものは時にすごい威力を発揮する。

「わかりました。校長先生。私は正社員での仕事をすっぱりと辞め子ども達を支えます。これで小学校入学を許可して頂けますか?」売り言葉に買い言葉的に出てしまった言葉。

その事で校長先生の態度は柔和になり、私達は和解した形で入学を迎えることになった。


家に帰りTに今日会ったことを報告した。経済的には不安だった。両親のごたごたにより持っていた貯金も激減してしまった。これから先の会社の状況だって怪しい。果たしてTの給料1本でやって行けるのか?しかもこんなに将来が不安な子供×2を背負って。しかし、決断するしかない。希望退職者に手を挙げる覚悟が予想もしなかった展開で決まった。私の心は複雑だった。ふらふらしていた独身時代だって仕事をしていないことなど全くなかった。専業主婦など全く考えられない。私にこの状況が耐えられるのだろうか...。今までいくつも職を転々としてきたけど、新しい環境には何の恐れもなくむしろ好奇心で楽しかった。しかし年をとるとはこういうことなのか、今は次のことを考えるのが怖い。だが今は2人の小学校入学を支えるために、この決断を変更することは出来ない。もう私にはこのまま進むしか方法がなかった。ふと、支援センターに来て一番最初に担任をしてくれたM先生の顔が思い浮かんだ。先生も自分のこれからを考える時、仕事と育児と子どもの将来のはざまの中で悩んで決めたことなのだろうと。こんなに大きな人生の決断をすることになるなんて思いもよらず。これからの私は一体どうなっていくんだろう。今までは両親の為に頑張ってきた。でもこれからは2人のために頑張る時なのかもしれない。



10月

初めての大きな企画を企てた。もうすぐ卒業。クラスのお友達家族5家族でのキャンプを企画した。皆初めての事が苦手だったり多動だったり色々タイプは違うけど、とにかく思い切って行ってみようと盛り上がった。小さな子供が多いので10人用のバンガローとキャンピングトレーラーで何とか泊まれるように手配。準備は大変だったけれど、みんな初めてで楽しみにしている。自然で遊ぶ楽しさを感じて欲しかった。

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