【2001年】孫さんとの思い出(YahooBB立ち上げ) 長編

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「あ、うちのグループでヤフーがあるじゃんか。ヤフーを使って大々的にやろう」


「ソフトバンク社内でこっそりやってる新規事業」から「本格的な新規事業」に変わっていく瞬間だった。


次の日から17階の会議にヤフーの方々が参加するようになってきた。

最初は技術面の検証ということで、ヤフーの技術責任者の方々との会議がメインだった。


そこでもまた動物園のような喧嘩会議が始まった。

筒井さん、平宮さんが表参道のインテリビルからわざわざ日本橋箱崎町のビルにいらっしゃるヤフーの技術者の方々に食って掛かるような論調を繰り広げた。


協力しあえないとそもそも進まない事業なのに、幸先の悪いスタートというか、「あ、これははじめるのは難しいだろうな」と僕は思った。会議に同席されていたヤフーの井上社長も引き気味で徐々にフェイドアウトしようという感じが見られた。


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会議に参加されるようになった、今はヤフーに在籍されているが昔から孫さんと働いていた古参ソフトバンク社員の方々が、みな口にしていたことがあった。


「孫さん、また始まったよ。まあ、途中で沈静化して落ち着くんじゃないかな」


ソフトバンクはそれまでたくさんの新規事業立上げをしており、そのほとんどを潰していたらしい。古参社員からしてみたら「ソフトバンクあるある」の一つであった。


ただ、日がたつにつれ、今回のプロジェクトはその「ソフトバンクあるある」に該当しない、異様な執着心をもっているように思えた。どう考えても実現可能性が難しいのに、それが分かれば分かるほど、前のめりな事業推進の大号令が出るようになった。


そもそも「やったことのない通信事業」なのだから、まずは小さい地域「都内の中央区近辺でトライアルをしよう」というのが普通だろう。現場としては、繋がるかどうか分からないような技術規格で進めていたし、通信に必要なインフラもよく分からず韓国製の安いものを買ってトライアルを勧めていた。


しかし、途中から孫さんが「一気に100万台やろう。もう決めたから」ということで、何の技術検証もなく、現場のささやかな抵抗を抑え、全国100万台一気に予約を取るという方針になってしまった。


毎日毎日、朝から晩までエンドレスな会議が続いた。


技術的な検証の議論から、ビジネスプランの詳細、価格はいくらにするのか、原価はいくらかかるのか、どの機材を買うのか、どのビジネスパートナーを選定するのか。


ビジネスパートナーの選定については、通信インフラ業者、コールセンター、人材業者などあらゆる業者に「大至急、明日来てください」といって箱崎のビルに呼びつけていた。


孫さんのアイデアはいつも唐突だった。


「うーん、100万台かー。家庭内に通信に必要なモデムを100万台配らんとあかんなー。モデムって家でつけるの難しいよな、おじいさんおばあさんじゃつけられないから設置部隊が必要になるな」


「100万人の設置部隊を用意しないとなー。しかも全国に。あ、パソナの南部さんのところは人を沢山登録させてるって言ってたな、やってもらおう」


当時のパソナ社とは主に一般企業へ女性の事務職を派遣するビジネスをしていた。登録者がたくさんいるといっても電気に強い技術者ではなく、ただの女性派遣社員のことである。


「パソナレディにヤフーBBのTシャツを着せて、ヤフーレディがあなたの家に訪問します、でいいじゃないか」


孫さんはその場ですぐ南部さんに電話をした。

「南部ちゃん、いい事業があるんだよ。相談したいので、明日、来てくれないかな?」


翌日、南部さんはいらっしゃらなかったものの、担当役員COO含め、パソナ社の新規事業の精鋭8人ぐらいが訪問した。その日をキッカケにパソナさんはヤフーBB事業に巻き込まれ(?)、やったことのない「個人宅へのモデム設置業務」を請け負うことになった。(のちにちょくちょく炎上)


どう考えても、派遣登録している女性に出来る業務ではなかったので、結局はゼロから求人を出し日雇いバイトを募集して、その人達に設置マニュアルを説明するみたいな立上げ方になった。その第1回のバイト募集の説明会、20名足らずだったかと思うけど、そこの会場、雑居ビルの貸し会議室みたいな場所にも孫さんはわざわざ足を運び、


「この事業は将来ものすごく大きな事業になります!」


と説明していたけど、パソコンすら触ったことのないような人たちはそもそもこのオジサン誰やねんといった感じでキョトンとしていた。(当時、孫さんの認知度はそれほど高くない)


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当初チマチマとやる新規事業の予定が、本格的にやる事業となり、億単位の投資をバンバン社長決済で決行してしまうため、今更だけど、ソフトバンクの取締役会にはかるための事業計画を作ることになった。当時、オリックスの宮内さんなど社外取締役もいらっしゃったし、承認を取らなければならない規模になっていたからだ。


僕は筒井さん平宮さんに「ラックのネジを巻きなさい」などと下っ端社員としてコキ使われつつ、ソフトバンク取締役会用の事業計画をほぼ一人でエクセルで作らなければならなかった。


事業計画の作成は難儀を極めた。何も決まってないし、何も全貌が分からない。どれぐらいコストが掛かるかもよく分からない。特に売上計画のキモとなる「価格設定」については、もう、取締役会前日に孫さんとのワンオンワン指示でエクセルをいじるような始末だった。


「ユーザーへの月額料金は2,000円を切りたい。1,980円とかにしよう」(孫)


「社長、それだとこの電気代の変動費とかが不確定な中、リスク高いです。逆ザヤになるかもしれません。モデムのレンタル代などを外出し価格にして、通信料の見栄えは2,000円以下にしても、トータルでは2,500円ぐらいにはしないと」(僕)


当時、競合の価格は月額3,000円前後だったかと思う。それを1,980円にしてインパクトを出したいところなのは分かるが、とにかく、現状の計算は雑すぎる。エクセル上ではとにかくバリバリの赤字だった。


何とか月額の料金は少しあげたものの、次は初期の設置料金である。


「100万台を無料で配ろう。設置料金も無料だ!」(孫)

「社長、その瞬間に数十億の赤字になっちゃいます」(僕)


こんなやり取りが取締役会の前夜、というか既に日付は越えてしまい、当日であったと記憶する。

そんな直前ギリギリの深夜にもかかわらず、まだやり取りは続く。


「お前、さっき月額料金の方は妥協してやったじゃんか!こっちの初期料金の方は、ワシの意見を使わんかい!!」(孫)


「。。。」(僕)


とにかく時間がなかったので、深夜2時頃になって、何となくそれっぽいエクセルにて役員会にあがったと記憶している。エクセル作ってても事業を立ち上げる実務は進まないので、深夜2時からすぐにまた別の仕事に取り掛からなければならなかった。


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当初このプロジェクトにフルコミットしてるのは技術者の2人と社長室長の三木さん含め5人足らずだったので、圧倒的に人が足りなくなった。ソフトバンクグループ内から人をかき集めることになった。


当時ソフトバンクグループは中間持株会社をもっており、「流通事業」「出版事業」「金融事業」「インターネット事業」「放送事業」の5事業があって、その各事業会社から「今度ヤフーBBって事業やるから、各社、人をよこしなさい」という号令が出た。僕はその全社イントラネット向けの文面を書かされたような、もしくは僕のメアドから「これは孫社長からの通達です」と出したような記憶もあるが定かではない。


中間持株会社の社長や人事の責任者は何のことか分からないが、「御大」に人を送り込まなければなるまい、といった心境だったのだろうか。号令により数日でまずは各社から合計20人ぐらい送り込まれた。


箱崎本社ビルにはこの人数を収容できないため、近くのもっとボロい雑居ビル(イマスビル)を急遽借りて、その20人はそこに詰め込まれた。この20人が集まった日にも孫さんはバイト説明会のときと同じように、かつてのみかん箱に乗ってのエピソードのように、


「この事業はソフトバンクの中核を担う事業である!」


と大演説をしたものの、聴衆はまたみんな借りてきた猫のように「キョトン」としていただけだった。


元々の初期メンバーも通信のツの字も知らない人ばかりだったが、このたび各社から集められた人もさらに輪をかけて、通信のことを全く知らないスーパー素人ばかりだった。


孫さんをトップとして、部門は大きく分けてオペレーション部門、技術部門、営業部門として、何となくその日のうちに素人が配属されていった。


僕は経営企画とオペレーション部門をやっていたが、経営企画のエクセルワークはもう役員会も通ったので新しい人に引き継いで、オペレーション部門の立上げに注力することになった。ついこないだまでフルタイム5人ぐらいのプロジェクトが一気に20人ぐらいに増えて、僕の下に部下と呼んでいいのか分からない、ほとんど年上で30歳〜55歳ぐらいの素人サラリーマンがアサインされた。ファンドの組成やってました、総務部長やってました、ついこないだソフトバンクに転職してきました、みたいな方々で、通信にも事業にも特に関係ない「猫の手」状態だった。


ファンドの組成やってた方たちにコールセンターの立上げやモデム設置オペレーションの管理をやってもらうことになり、そのメンバーらはその日から家に帰ることが出来なくなった。


毎日毎日状況が変わり、オフィスは深夜まで誰一人帰ることが出来ず、戦場のような状態だった。数少ない初期メンバーである僕は組織のハブ的な役割もあってか、日々あっちやこっちやに奔走することになり、やれ夜中の11時から会議だ、やれNTTの人たちに謝りに行くだ、やれ東京めたりっく通信を買収するからデューデリしろだ、毎日ジェットコースターに乗っている感じだった。


毎日2時〜3時ごろタクシーで帰宅し、土日もほぼなかった。あとは当時オフィスのwifi環境もないので、ノートPCは持ち歩くけど会議室によっては通信も入らず、会議終わって席に戻るとメールが200通ぐらいきてて、それを深夜12時から処理するみたいなものもザラだった。


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そもそも、このADSL通信事業はNTTさんの設備を借りて行う事業だった。NTTに集中していた「通信事業」を民間にも広げて競走を促す一環だった。なので、何を行うにしてもNTTさんに相談、申請をしなければならなかったのだが、元々の電電公社という体質もあってか、対応スピードが遅々としていた。(まあ、ソフトバンク側がスピード出しすぎという説もあったかもしれない)


あるとき、とうとう孫さんは頭にきて、

「こっちは本気でやろうとしてるんだ!全然分かってないんじゃないか?おい、じゃあ、今からNTT東日本とNTT西日本の社長宛にFAXを送るぞ!こっちは本気なので、大至急設備の貸出手続きをはじめてくれとFAXの文面を作れ!」と言った。「いますぐ送れ!」と言った。


ざっくり文面を作って、ネットで検索してNTT本社のFAX番号を調べ、代表印を押して孫正義名にてFAXを送った。まさに「宣戦布告のFAX」だった。


日本のトップ企業の社長宛に、テロ行為(?)のようなFAX攻撃により、NTTの現場の方からじゃんじゃん電話が入ってきて、それを受ける僕は「一人コールセンター」になってしまった。


「あー、すいません、うちの社長が送れって言ってまして、今度改めてご挨拶に伺いますので、お時間頂けますでしょうか?」と返して、結局、現場数人でNTT訪問をし、頭を下げながらお願いをしに行った。


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