【2001年】孫さんとの思い出(YahooBB立ち上げ) 長編
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東京めたりっく通信については、国内で先行してADSL通信事業を行っているベンチャー企業であったが、経営的には苦戦を強いられているというウワサだった。
ある日、孫さんは日帰り出張からご機嫌よく帰ってきた。
「ウルトラC決めてきた。買収決めてきたぞ。これでノウハウもった技術者も確保出来るわ」
プロジェクトをはじめてから数ヶ月ぐらいだったかと思う。デューデリジェンス(買収先の審査)も担当させられ、経営数字のチェックや役員面談なども行ったが、もう既に社長が買うことを決めていて金額も決まってる感じなので、時間をかけずにとっとと済ませた。20億ぐらいのディールだったと記憶しているけど、ここに時間使ってられずで、早く現場に戻らないと、各地でおこっている炎上の火消しが大変で、ソッチのほうが優先順位が高かった。
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炎上はほぼ毎日起こっていた。
「顧客の家でモデムのアダプタが熱で溶けてるとの報告がありました!」
初期にまずはソフトバンクグループの社員向けのクローズドサービスをしていたときだったと思う。下手したら火事に繋がる大惨事だ。韓国の弱小(?)メーカーに発注した安物のモデムだった。
「大至急回収だ!そして業者を変えろ!」
こんな調子だった。
不眠不休の毎日が続いたため、主担当していた社員が倒れるのはザラだった。
「NTT窓口担当が倒れてしまい、通信設備設置の進捗が確認できません!」
「顧客データシステム構築の担当が倒れました。もうしばらく出社出来ない模様です!」
戦場では仲間が倒れることを気にしていたら自分も殺られる。
そんな気持ちというか、人を気にしている余裕はほとんど無かった。
毎日ユンケルを2本飲んでいた。
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現場では日々戦場で、まだまだユーザー向けに通信サービスを提供できるような状態ではなかったものの、対外的には「ソフトバンクが通信事業に本格参入!その名もヤフーBB!通信料格安!100万人初期費用無料」と大風呂敷を広げまくっていた。
しかもヤフーにて先行予約を取り始めると、サービスのインパクトもあって、ジャンジャン予約が入ってきた。
現場としては「これはヤバイ、本当にお客さんが集まってしまった」という見解も多かったかと思う。完全にルビコン川を渡った、後戻りは出来ない。
東京めたりっく通信の方々も少しずつジョインし、スタッフが40名ぐらいになった頃だろうか。ようやく先行予約者の中から一部都心部にお住まいのユーザーへのサービス開始をはじめた。
「一般顧客宅にて、通信が繋がった模様です!」
本プロジェクト始まって以来の明るい報告だった。
孫さんは物凄く上機嫌になった。
「やった!つながったぞ!ほら、みんな、やっぱりつながったぞ!」
少年のような喜び方だった。
幼稚園児が砂場で山を作って、トンネルを掘って、「ほら!つながったぞ!」って言ってるのに近かった。
「よし!今日は近くで焼肉でも行くぞ!」
30人ぐらいが水天宮前近くの焼肉屋トラジに当日集められた。
「やっとつながったぞ!今日はめでたい!みんな、今日は俺のおごりだ!!」
自分にとっては1年ぶりぐらいの焼肉だった。
ただ、メンバーと飲みながらもほとんど仕事の話ばかりで、冷静になると「早く会社に戻らないと明日からが大変だ」ってことになり、そそくさと飲み食いした後、雑居ビルに戻っていった。
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その数日後だっただろうか。
孫さんはまだとても上機嫌だった。
僕ら現場にとっては、ソフトバンクグループ内のナゾの小さなプロジェクトで「一歩進んだ」ぐらいの感覚だったけど、孫さんだけがこの「繋がった」ということの大きさを認識されていたのかと思う。その後のソフトバンクがまさかの本当に「通信事業者になる」未来が実現するための第一歩だった。
孫さんの上機嫌により僕らにも幸福がもたらされた。
その時関わっていたスタッフ、派遣社員の方も含めて、30人ぐらい会議室に呼ばれて、「お前らありがとう!ボーナスや!」と焼肉のおごりに続き、ボーナスの金一封が封筒にいれられて、孫さんからの手渡しで渡されてのだ。
日々クソ忙しくて、何となくハイテンションと意識朦朧を繰り返していたが、現金封筒をもらったときは目が覚めた。僕はまだ20代で100万円の入った封筒など手にしたことがなかったので、このまま強盗やひったくりに襲われるのではないかと危惧し、会議室を出て、すぐ走って箱崎シティエアターミナルのATMに入金しにいったのを覚えている。
(その後、孫さん個人からのご褒美かと思ったら、給与扱いということでしっかり課税されていたことに少しガッカリした。)
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焼肉プレイや現金封筒プレイなど、ソフトバンクは既にそこそこの大企業になっていたのに、孫さんは中小企業の社長並みの「現場に優しいおちゃめプレイ」を幾度となく見せてくれた。いつのまにハードワークを強いられていた僕らにとっても憎めない感情を抱かせるものだった。
「おちゃめ発言」はピリピリとした会議中でもちょくちょく使われていた。
関係者10人ぐらいでビジネスプラン、数字の精査をしているときだった。細かい数字の詰めを行い、例えば、「このサーバーの電気代とかもうちょい削減出来るんじゃないか?」「NTTの局舎に置くラックだけどもっと小さいので行けるんじゃないか、これで賃料削減できるんじゃないか?」みたいなことをやっていた。
予算を積み上げる現場としてはどうしてもバッファな数字をもっておきたいのだけど、そこをバンバンついて、ストレッチな数字を積み上げていった。すると数字は少しずついいものになってきた。そのときの孫さんの決まり文句があった。
「ほらー。俺のほうがお前らより数字強いだろ。おれ、経済学部卒なんだからな」
「おれ、経済学部卒だからな」
が決まり文句で、周囲の笑いをとった。
既にベンチャー起業家として名を馳せていたにも関わらず、今更大学のしかもカルフォルニア大学の自慢ではなく、単なる「経済学部卒」で押してくる。笑いのセンスもあった。トレンディエンジェルの「斎藤さんだぞ」みたいなものである。
また、丸一日、「業者との交渉デー」というのがあってランチタイムも弁当食いながら業者との交渉をし、1日9アポぐらいを全て同席したことがあった。すべての交渉先に「では明日までにカウンター出してください」と言っていた。
全ての交渉が終わった後、我々現場メンバーに
「お前ら、俺の交渉を丸一日タダで見れるなんて、めったにないぞ。高級なオン・ザ・ジョブ・トレーニングだぞ」
とココでも現場の我々に対して軽いウケをとっていた。
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一方で心配性な一面を見せるシーンもあった。
夜中の12時まで数字系の会議をしたあと、孫さんだけタクシーで帰宅された。その直後、秘書の方から「出先から孫社長から電話です」と取り次がれた。
僕はこのプロジェクトで会議への同席など終日顔を合わせていたものの、個別に電話で話をするのは初めてだった。
「今日の事業計画の数字だけどさ、あれで大丈夫だよな?いけるよなあれで?俺の計算あってるよな?大丈夫だよな?」
あれだけご自身で会議中ゴリ押ししていたところを念のため現場の僕にも同意を求めるような内容だった。
孫さんと個別で電話で話すことはなかったけど、秘書の方から携帯で呼び出されることはちょくちょくあった。金曜の夜中3時ぐらいに帰宅して、シャワー浴びて寝ていたら、土曜の8時ぐらいに秘書から電話があった。
「孫社長が今すぐ来てくれと言っています」
準備して雑居ビルにいくと、小さな会議室に孫さんと社長室長の三木さんともう一人しかまだ会議室にはいなかった。孫さんは土曜の朝から憤慨していて顔を真赤にしてた。
「お前ら、そんなチンタラチンタラやってたら進まんやないか!タスク管理をやっとるのか!やることはたくさんあるんだ!今からタスク1,000個書け!あるはずだ!必ずやれ!」
「俺は本気なんだ。お前ら本気でやってるのか?本気でやるんだよ、わかってるのか!」
ホワイトボードを叩き、ホワイトボードのペンやら板書消しやらを投げつけた。
毎日毎日、深夜まで働いていたが、とにかくプロジェクトが実現可能性に乏しく、無茶苦茶だったので、関わっているもの全員が
「これ、本当にやりきれんの?」
と思っていたのだろう。孫さんだけがとにかくやるきるつもりだった。「社長がやる」って言ってるので、現場はとにかくやるしかなかった。
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